タミフル
りょうの屋敷には、巨大な温室がある。
元々は、この世界で思う存分カレーを作るために、りょうが造ったものだった。
日本では簡単に手に入ったスパイスも、この世界ではそうはいかない。
ならば。
「自分で育てればいい」
そう考えた結果、温室は日に日に大きくなっていった。
ターメリック。クミン。コリアンダー。カルダモン。クローブ。シナモン。そして、スターアニス。
香辛料だけではない。料理に使えるハーブや野菜まで所狭しと並び、今では巨大な温室の中が、ちょっとした植物園のようになっている。
その日も、りょうは籠いっぱいに収穫したスパイスを眺めながら、満足そうに頷いていた。
「うん。いい感じに育ってるな」
スターアニスの実を一つ手に取る。星のような形をした実から、独特の甘い香りが漂った。
「これもカレーに使えるしな」
りょうにとっては、それだけだった。この世界では珍しい植物。だが、数ある香辛料の一つに過ぎない。
隣では、ルシェも収穫を手伝っている。小さな手で実を集めながら、籠の中を覗き込んでいた。
りょうは温室いっぱいに実った植物を見渡し、満足そうに笑った。
「今晩はカレーにしよう」
すると。
「パパ! カツカレーが妾は良いのじゃ!」
ルシェが勢いよく顔を上げた。
「カツカレー?」
「うむ! カレーならば、カツを乗せるのじゃ!」
どうやら夕食の完成形まで、既に決まっていたらしい。
「……まだカレーを作るって決めただけなんだけどな」
「妾はもう決めたのじゃ!」
胸を張るルシェ。
りょうは苦笑した。
「はいはい。じゃあ今日はカツカレーな」
「やったのじゃ!」
ルシェの嬉しそうな声が、温室の中に響いた。
その横で、りょうは籠の中のスターアニスをもう一度眺める。
ただの香辛料。
このときは、それ以上でも、それ以下でもなかった。
このときまでは。
数日後。
迷いの森を抜けてアルカディアへ辿り着いた自衛隊員たちの中から、高熱を出す者が現れた。
最初は、長旅による疲労や冷えが原因だと思われていた。
だが、一人、また一人と、同じ症状を訴える者が増えていく。
高熱。悪寒。激しい倦怠感。そして、咳。
患者たちの治療にあたっていた衛生科医官の椎名大尉も、休むことなく診察を続けていた。
しかし。
「……少し、寒気がしますね」
椎名が自分の額に手を当てる。
顔色が悪い。
「椎名、もう休め」
「まだ大丈夫です。患者の状態を……」
言葉の途中で、椎名の身体がふらついた。近くにいた隊員が慌てて支える。
その身体は、異常なほど熱かった。
すぐに診察が行われる。
そして。
「インフルエンザの可能性が高いです」
椎名自身が、そう診断した。
りょうはすぐに尋ねた。
「治療薬は?」
「あります」
「あるのか?」
「はい。アルカディアには大きな病院があります。医薬品の備蓄もかなりあります」
それを聞いたりょうは、すぐに病院へ向かった。
病院の薬剤保管庫。そこには、日本から持ち込まれた様々な医薬品が保管されていた。
そして、その中に。
オセルタミビル。
商品名、タミフル。
十分な量が残されていた。
「これだけあるなら……」
りょうは胸を撫で下ろした。
まずは目の前の患者を救う。それが最優先だった。
椎名を含む感染者たちには、医官の判断のもとでタミフルが投与された。
もちろん、飲んですぐに熱が下がるわけではない。水分を補給し、身体を休ませ、必要な処置を受けながら経過を見守る。
それでも、数日が経つ頃には少しずつ患者たちの状態が改善していった。
そして、椎名も回復した。
「……助かりましたね」
ベッドの上で、椎名が小さく息を吐く。
「ああ」
りょうも頷いた。
だが、そこで終わりではなかった。
数日後。
りょうは椎名とローズマリーを工房へ呼んだ。
作業台の上には、病院から持ってきたタミフルの薬剤情報が置かれている。
「椎名」
「はい」
「これ、作れないか?」
椎名が少し驚いた顔をする。
「タミフルを……ですか?」
「ああ」
りょうは薬を見つめる。
「今は病院に在庫がある。しかも、まだかなり残ってる」
「当面は問題ありません」
「でも、使えば減る」
椎名は黙った。
「インフルエンザだけじゃない」
りょうは病院の薬剤一覧を机に広げた。
「抗生物質。解熱剤。鎮痛剤。消毒薬。いろんな薬が必要になる」
そして、ローズマリーを見る。
「この世界で医療を続けるなら、いつまでも日本から持ってきた薬に頼るわけにはいかない」
ローズマリーが腕を組む。
「つまり、この世界で薬を作れるようにしたい、と」
「そういうことだ」
りょうは頷いた。
「アルカディアだけじゃない。アストリア全体で、必要な薬を作れるようにしたい」
椎名の表情が変わった。医官として、その意味が分かったのだ。
「それができれば……医療そのものを変えられます」
「だろ?」
りょうは端末を取り出した。
「だから、俺は情報を探す」
現代世界の医学。薬学。化学。製造技術。検索できるものを片っ端から調べていく。
しかし、りょうにも分かっていた。
自分一人では限界がある。検索結果を読めても、それを現実の製造工程へ落とし込めるとは限らない。
ローズマリーには錬金術がある。椎名には医学がある。
だが、それだけでも足りない。
そんなときだった。
「……一人、必要ですね」
椎名が呟いた。
「誰が?」
「科学者です」
りょうが顔を上げる。
「現代科学を、本当に理解している人間が必要です」
そして、もう一つ。
りょうは病院の薬剤庫から持ち出された資料の中に、興味深い情報を見つけていた。
タミフル。オセルタミビル。
その製造に関係する原料、シキミ酸。
りょうは、その名前を検索する。
そして、画面に表示された植物の画像を見て、目を止めた。
星形の実。独特の香り。
「……これ」
りょうの脳裏に、数日前の温室が蘇る。
「スターアニスじゃないか」
ただカレーを作るために育てていた植物。それが、ここで繋がった。
りょうは温室からスターアニスを持ってくる。
「ローズマリー先生。この植物からシキミ酸を取り出せるか?」
ローズマリーは実を手に取り、じっと観察する。
「成分を分離するだけならできる。ただ、その先は?」
りょうはタミフルの情報を表示した。
「この薬を作りたい」
「なるほどねぇ」
椎名も薬剤情報を確認する。
「必要なのは原料だけではありません。純度、投与量、人体への安全性。薬として成立しているか、私が確認します」
「俺は情報を集める」
「私は錬金術で物質を分離し、再構成する」
三人の役割が決まった。
だが、そこで終わりではなかった。
りょうが一枚の資料を机に置いた。
「それと、もう一つ」
そこに書かれていたのは、抗菌薬に関する情報だった。
「抗生物質も作りたい」
椎名が頷く。
「必要です」
「でも、これはタミフルみたいに単純じゃない」
りょう自身も分かっていた。
抗生物質には、微生物を利用した発酵や抽出、精製など、化学合成だけでは解決できないものが多い。実際、現在の抗生物質の多くは微生物由来で、発酵による生産が重要な位置を占めている。
「だからこそ……科学者がいる」
りょうが呟く。
その視線の先には、現代世界から持ち込まれた装飾品や工業製品があった。
金。銀。
そして、プラチナ。
プラチナは、それ自体を抗生物質にするための材料ではない。だが、現代化学では触媒として利用される重要な金属だ。しかもこの世界では、それが装飾品としてすでに存在している。
つまり、必要な科学知識さえあれば、この世界には現代科学を再現するための材料が、すでに存在している。
「……面白い」
ローズマリーが、プラチナの装飾品を指先で弾いた。
「つまり、こちらには材料がある」
椎名が続ける。
「そして、医療現場があります」
りょうが頷く。
「俺には検索できる情報がある」
三人は顔を見合わせる。
だが、まだ足りない。
現代科学を、本当に理解している人間。
化学を。微生物を。薬を。
そして、それらを組み合わせて作ることができる人間。
りょうは、その人物を探す必要があると感じていた。
アルカディアには、まだ一人、現代科学の天才が必要だった。
そしてその人物との出会いが、やがて、この世界に存在しなかった科学という概念そのものを、大きく変えていくことになる。
作業台の上には、スターアニスが一つ置かれている。
ほんの数日前。
「今晩はカレーにしよう」
そう言っていたときには、誰も気に留めなかった植物。
その小さな星形の実から、アルカディアの医療革命が始まろうとしていた。




