新たな日常
アルカディアに来てから、数日が過ぎた。
十人の自衛隊員たちは、ようやく身体を休めることができるようになっていた。
食事を取り、風呂に入り、十分な睡眠を取る。
それだけのことが、彼らにとっては久しぶりの日常だった。
最初の数日は、誰もが眠っていた。
半年以上、まともに眠れていなかったのだ。
椎名は全員の身体を確認し、栄養状態や怪我の具合を調べた。
幸い、致命的な問題を抱えている者はいなかった。
ただ、全員が極度の疲労と栄養不足だった。
そして、身体が若返っていることについても、まだ分からないことが多かった。
そんな中。
佐竹は、アルカディアの人々が普通に生活している姿を少しずつ見るようになっていた。
畑を耕す者。
家畜の世話をする者。
工房で働く者。
市場で買い物をする者。
そして、笑いながら暮らす子供たち。
森の中で半年以上、生きることだけを考えていた彼らにとって、その光景は新鮮だった。
朝の空気には、湿った土と草の青い匂いが混じっていた。遠くからは鍬が土を打つ乾いた音や、家畜の鳴き声が聞こえる。陽の光を受けたアルカディアの家々は穏やかに輝き、子供たちの笑い声が風に乗って広がっていた。
アルカディアは結界に守られているためか、魔物の姿を見かけることはなかった。いるのは、牧畜用に飼われているカウたちくらいだ。
ある日の朝。
佐竹たちが外へ出ると、海の方から一人の人間と何人かの獣人が歩いてくるのが見えた。
潮の香りを含んだ風が頬を撫で、遠くで波が砕ける低い音を響かせている。朝日に照らされた海面は銀色にきらめき、その光の中を、彼らの影がゆっくり近づいてきた。
その先頭にいたのは、セバスだった。
手には釣り竿。
その後ろには、猫耳族の獣人たちが何人も続いている。
「おはようございます」
セバスが声を掛ける。
佐竹も頭を下げた。
「おはよう」
「これから魚釣りへ参りますが、よろしければご一緒されますか?」
佐竹は少し驚いた。
「魚釣り、ですか?」
「はい。食料の確保も兼ねておりますが、最近では皆様の楽しみの一つにもなっておりまして」
その言葉に、後ろにいた日比野が反応した。
「魚釣り……」
半年以上、木の実と小動物の肉ばかりだった。
魚という言葉だけで、腹が減ってくる。
日比野の腹が小さく鳴り、隣にいた隊員が吹き出した。
「おい、聞こえたぞ」
「仕方ないだろ。魚なんて、いつ以来だと思ってるんだ」
そのやり取りを聞いた猫耳族の少女が、耳をぴくりと動かした。
「お腹が空いてるのかにゃ?」
「ああ。できれば、たくさん釣りたい」
日比野が答えると、少女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私が一番釣れる場所を教えるにゃ!」
「本当か? 頼むぞ」
「うん。でも、魚に逃げられても怒らないでほしいにゃ!」
「それは魚次第だな」
まだぎこちなさは残っていたが、獣人たちの間からも小さな笑い声が起きた。
佐竹が仲間を見る。
誰も反対する者はいなかった。
「ぜひ、お願いします」
「では、参りましょうか」
海へ向かう道を歩きながら、佐竹たちは獣人たちの様子を眺めていた。
足元の砂が靴底でさらさらと崩れ、海風が髪を揺らす。鼻をくすぐる潮の匂いに、森の湿った土とは違う開放感があった。
最初は、互いに少し離れて歩いていた。
自衛隊員たちは無意識に周囲を警戒し、獣人たちも彼らの扱いに迷っているようだった。
やがて、猫耳族の少年が佐竹の持つ釣り竿を覗き込んだ。
「それは武器かにゃ?」
「いや、魚を釣る道具だ」
「武器じゃないのに、そんなに長いのかにゃ?」
「魚を遠くから狙うためだ。君たちの竿は短いな」
「浅いところで釣るなら、これで十分だにゃ。魚の気配も分かるから」
少年は得意そうに竿を掲げた。
佐竹は少し驚いた。
「気配が分かるのか?」
「耳で聞くんだにゃ。水の中で魚が動く音がする」
「なるほど。俺たちにはできないな」
「でも、人間の方が遠くへ投げられそうだにゃ」
「それなら、あとで競争してみるか?」
佐竹が冗談めかして言うと、少年の目が輝いた。
「本当かにゃ?」
「ああ。ただし、魚を釣る勝負だぞ」
「分かったにゃ。負けない」
その会話をきっかけに、他の隊員たちも獣人たちへ質問を始めた。
「この辺りには魔物は出ないのか?」
「アルカディアの中には、魔物は出ません。結界に守られていますから。いるのは牧畜のカウたちくらいです」
「海の魚にも魔物はいないのか?」
「はい。アルカディアの海には、魔物の魚はいないんです。なぜか、遠い異世界の日本にいる魚が回遊してくるんですよ」
「日本の魚?」
日比野が目を丸くする。
「ああ。俺たちの国の魚ってことか?」
「はい。名前も姿も、皆さんが知っている魚と同じだそうです」
「それは食えるのか?」
「もちろんです。牙のある魔物ではありませんから、安心して食べられます」
「先に言ってくれて助かったよ」
獣人たちは声を上げて笑った。
日比野もつられて笑い、歩く速度を少し緩めて彼らの隣に並んだ。
釣り場に着く頃には、最初にあった距離はわずかに縮まっていた。
海辺の岩場には、波が寄せては引くたび、白い泡が弾けていた。濡れた岩肌は陽を受けて黒く光り、足元からは冷たい海水のしぶきが跳ねる。潮の匂いと、どこか青臭い魚の気配が鼻を刺激した。
「ここでは、どんな魚が釣れるんですか?」
佐竹が尋ねる。
獣人の一人が海を指差した。
「この辺りなら、アジ、サバ、スズキ、カサゴ。砂地まで行けばヒラメも釣れます」
「結構いるんですね」
「季節や潮によって変わります。アジは群れで来るので、入ってくれば面白いですよ」
日比野が身を乗り出した。
「アジって、あのアジか?」
「知っているんですか?」
「もちろん知ってる。刺身も美味いし、焼いても美味い。小さいやつなら唐揚げにもできる」
獣人たちが顔を見合わせる。
「食べ方をよく知ってるにゃ」
「日本人だからな」
日比野は少し得意そうだった。
すると、別の獣人が口を挟んだ。
「サバは気をつけた方がいいですよ」
「危険なのか?」
佐竹が聞く。
「魚としては危険じゃないです。でも、掛かったら横へ走ります」
「横へ?」
「とにかく走ります」
「魚なのに?」
「魚だからです」
セバスが真顔で答えた。
佐竹が一瞬黙り、日比野が吹き出す。
「それ、説明になってないですよ」
「申し訳ございません。ですが、本当にそうなのです」
セバスは穏やかな顔のままだった。
「特に脂の乗ったサバは美味しいですよ。塩焼きにしてもよろしいですし、味噌煮にしても美味しゅうございます」
「味噌があるのか?」
日比野の目が輝いた。
「はい。ございます」
「それは絶対に釣らないとな」
「釣る目的が変わっていませんか?」
椎名が横から言う。
「いいじゃないか。食事は大事だぞ」
佐竹が笑う。
今度は獣人たちが声を上げて笑った。
セバスが海を見ながら続ける。
「スズキは少し違います。掛かると水面で跳ねることがございます」
「エラ洗いですね」
日比野が即答した。
セバスが目を丸くする。
「ご存じなのですか?」
「昔、釣り番組で見たことがある。水面から飛び出して、頭を振るんだろ?」
「その通りでございます」
「じゃあ、さっき言ってた大きな魚って?」
隊員の一人が尋ねる。
セバスは少し遠い目をした。
「あれは大変でございました」
「どれくらい大きかったんですか?」
セバスは両腕を広げた。
「このくらいでございます」
「本当ですか?」
「ええ。強い引きで、竿ごと持っていかれそうになりまして」
猫耳族の少女が釣り針に餌をつけながら口を挟む。
「でも、セバスさんは逃がしたよねにゃ」
「あれは魚が強かったのです」
「セバスさんが転んだだけだにゃ」
「……それは、どうか内密にお願いいたします」
少女が悪戯っぽく笑う。
佐竹は、セバスが獣人たちにからかわれていることに気づいた。
それでもセバスは怒ることなく、困ったように笑っている。
その様子を見ていた隊員たちの表情も、少しずつ和らいでいった。
「ところで、カサゴはどこにいる?」
佐竹が聞いた。
獣人の少年が、岩場の隙間を指差す。
「ああいうところにいるにゃ」
「あんなところに?」
「岩陰が好きなんだにゃ。掛かるとすぐに奥へ逃げようとするから、糸を出しすぎると取れなくなるにゃ」
「なるほど。釣ったらどうする?」
「焼いてもいいけど、汁にすると美味しいにゃ」
「汁?」
「頭や骨から出汁が出るにゃ」
日比野が佐竹を見る。
「隊長」
「何だ」
「今日は大漁にしましょう」
「分かった」
「隊長まで乗るんですか」
椎名が呆れたように言う。
「腹が減っているんだろう」
「それはそうですけど」
そんな会話をしながら、それぞれが釣り糸を垂らす。
糸が水面に落ちると、小さな水音が波の音に溶けていった。
しばらくすると。
日比野の竿が大きくしなった。
「来た!」
全員が振り向く。
「慌てなくてよろしいですよ」
セバスが声を掛ける。
「竿を立てて、ゆっくり引いてください」
「分かってる! 分かってるが、重いぞ、これ!」
日比野が踏ん張る。
魚が水面で暴れるたび、竿が大きく揺れた。
突然、魚が水面から飛び出した。
銀色の身体が朝日を反射する。
「跳ねた!」
日比野が叫ぶ。
「スズキです!」
獣人が声を上げた。
魚は水面に叩きつけられると、頭を激しく振った。
「これがエラ洗いです!」
日比野が必死に竿を支える。
「知識としては知ってた! 実際にやられると怖いな!」
「糸を緩めないでほしいにゃ!」
猫耳族の少年が叫ぶ。
「でも、引っ張りすぎると糸が切れます!」
「日比野さん、右へ寄せてください!」
別の獣人が声を掛ける。
「右ってどっちだ!」
「日比野さんから見て右です!」
「それは分かってる!」
隊員たちと獣人たちが一斉に指示を飛ばし、日比野は必死に竿を操った。
佐竹は思わず笑いながらも、魚の動きを目で追っていた。
「日比野、無理に引くな! 魚が疲れるのを待て!」
「隊長、最初に言ってくれ!」
「今言った!」
「遅い!」
そのやり取りに、獣人たちも声を上げて笑う。
魚が最後の力を振り絞って跳ねた。
「今だにゃ!」
セバスが網を差し出す。
日比野が竿を引き、セバスと少年が同時に魚をすくい上げた。
「やった!」
日比野が嬉しそうに魚を掲げる。
魚の鱗から冷たい水滴が落ち、日比野の腕を濡らした。魚はまだ力強く身を震わせ、そのぬめりと重みが、彼の手の中に確かな命の感触として残った。
「大きいですね! スズキですよ!」
「何センチくらいだ?」
佐竹が聞く。
獣人が魚を見ながら答える。
「この大きさなら、十分食べ応えがあります」
「どう食べる?」
日比野が聞く。
「身は淡白ですから、塩焼きもいいです。刺身にしても美味しいですよ」
「刺身……」
日比野の目が輝く。
「新鮮なら、刺身もいけるのか」
「はい。ただ、今日はまず焼きましょう。皆さん、まだ身体が戻ったばかりですから」
椎名が即座に止めた。
「正論だな」
日比野は残念そうに魚を見る。
「でも、いつか刺身にしよう」
「ああ」
佐竹も頷いた。
その直後。
別の竿が大きく跳ねた。
「来たにゃ!」
今度は猫耳族の少女だった。
少女が竿を握りしめる。
「これはアジだにゃ!」
「分かるのか?」
佐竹が聞く。
「引き方が違うにゃ」
少女は得意そうに言う。
「アジは走るけど、スズキみたいに水面から大きく跳ねることは少ないにゃ」
ほどなくして、水面から銀色の小魚が姿を現した。
「本当にアジだ」
佐竹が感心する。
「今日は群れが来てるにゃ」
少女が海面を覗き込む。
「あそこ、いっぱいいるにゃ」
その言葉を合図に、獣人たちが一斉に竿を振った。
次々と魚が掛かる。
「来たにゃ!」
「こっちも!」
「二匹掛かったにゃ!」
「俺にも来た!」
一気に岩場が騒がしくなった。
日比野は釣れたアジを見ながら笑う。
「これなら唐揚げにしたら最高だな」
「塩焼きもいいにゃ」
「南蛮漬けもいい」
「南蛮漬け?」
少女が首を傾げる。
「魚を揚げて、甘酸っぱいタレに漬ける料理だ」
「美味しそうだにゃ」
「うまいぞ」
日比野が自信満々に言う。
「今度、作ってみよう」
「本当かにゃ?」
「ああ」
少女の耳がぴんと立った。
「約束だにゃ!」
「分かった、約束だ」
その横では、佐竹の竿も震えた。
「来た」
佐竹が竿を立てる。
だが、魚はすぐに岩陰へ向かって走った。
「佐竹さん、糸を出しすぎないで!」
少年が叫ぶ。
佐竹が竿を立て直す。
魚の動きが止まる。
「今です!」
一気に引き上げる。
岩陰から姿を現したのは、赤茶色の魚だった。
「カサゴだにゃ!」
少年が嬉しそうに叫ぶ。
佐竹は魚を眺める。
「随分、顔が怖いな」
「顔は怖いけど、美味しいにゃ」
「どんな味だ?」
「身が白くて、甘いにゃ。煮ても焼いても美味しいけど、汁にするともっと美味しいにゃ」
「それは楽しみだな」
佐竹は魚をバケツへ入れた。
その後も釣りは続いた。
アジ。
カサゴ。
小さなサバ。
そして、砂地へ移動すると、今度は別の魚が掛かった。
「重い……」
隊員の一人が竿を握る。
魚は横へ走らず、海底へ張り付くように動いている。
「これは何だ?」
「無理に引かないでください」
セバスが言う。
「底に張り付いています」
しばらく待つ。
すると、魚がゆっくりと動き始めた。
「今です」
隊員が竿を立てる。
砂の中から、平たい魚が姿を現した。
「ヒラメです!」
「ヒラメって、こんな形だったのか」
日比野が目を丸くする。
「魚って、もっと普通の形だと思ってた」
「普通って何だよ」
佐竹が笑う。
ヒラメは平たい身体を波の中で揺らしている。
「これはどう食べる?」
佐竹が尋ねる。
「身がきれいで、癖がありません。刺身なら歯応えがありますし、焼いても上品な味になります」
日比野が頷いた。
「なるほど。魚によって、食べ方まで違うんだな」
「それが魚釣りの面白いところです」
セバスが笑った。
「釣った魚を見れば、その日の食卓まで想像できますから」
佐竹は海を見た。
森にいた頃は違った。
獲物が取れれば、それだけで良かった。
何の肉なのか。
どんな味なのか。
そんなことを考える余裕すらなかった。
だが今は違う。
アジなら唐揚げ。
サバなら塩焼きや味噌煮。
カサゴなら汁物。
スズキなら焼き物。
ヒラメなら刺身。
魚一匹を見るだけで、食卓が浮かんでくる。
そのことが、妙に嬉しかった。
しばらくすると、日比野の竿がまた大きくしなった。
「また来た!」
「今度は何だ?」
佐竹が身を乗り出す。
魚が横へ走る。
日比野が踏ん張った。
「これは……さっきのスズキより走るぞ!」
「サバだにゃ!」
猫耳族の少年が叫ぶ。
「サバは横へ走るにゃ!」
「本当に走るな、こいつ!」
日比野は笑いながら竿を操った。
魚は何度も方向を変える。
そのたびに日比野が振り回される。
「日比野さん、竿を寝かせすぎないでください!」
「分かってる!」
「魚に遊ばれてるにゃ!」
「遊ばれてない!」
「遊ばれてるにゃ!」
最後はセバスが網ですくい上げた。
銀色の魚体。
丸々としたサバだった。
日比野が魚を持ち上げる。
「……これ、うまそうだな」
セバスが頷く。
「脂が乗っていますね」
「塩焼きだな」
佐竹が言う。
「いや、味噌煮だ」
日比野が即答した。
「味噌煮に一票」
隊員の一人が手を挙げる。
「俺も」
「じゃあ、味噌煮だな」
佐竹が決めた。
日比野が満足そうに頷く。
「釣りに来て正解だった」
その言葉に、周囲から笑いが起きた。
その後、猫耳族の少年が佐竹に釣り竿を差し出した。
「次は佐竹さんの番だにゃ」
「俺か?」
「うん。さっき遠くへ投げる勝負をすると言ったにゃ」
「覚えていたのか」
「約束だからにゃ」
佐竹は苦笑しながら竿を受け取った。
「分かった。では、勝負だ」
少年が先に竿を振る。
餌は水面から少し離れた場所へ落ちた。
続いて佐竹が竿を振ると、餌は少年の倍近く遠くへ飛んだ。
「どうだ?」
佐竹が得意げに言う。
少年は悔しそうに耳を伏せた。
「遠くへ投げるだけなら、人間の勝ちだにゃ」
「だけなら、というのが気になるな」
「魚を見つけるのは、私の方が得意だにゃ」
少年は水面をじっと見つめた。
「あそこだにゃ」
「本当か?」
佐竹が糸を動かすと、すぐに竿先が震えた。
「来たにゃ!」
少年が叫ぶ。
佐竹が引き上げると、小さなアジが掛かっていた。
「……負けたな」
「引き分けだにゃ」
少年が胸を張る。
「遠くへ投げたのは佐竹さん。魚を見つけたのは私だにゃ」
佐竹は少年の頭に手を置いた。
「なるほど。では、次は二人で釣ればいい」
少年は驚いたように瞬きをし、それから笑った。
「うん。二人なら、もっと釣れるにゃ」
そのやり取りを見ていたセバスが、静かに目を細めた。
「皆さん、すっかり釣り仲間ですね」
「仲間、か」
佐竹はその言葉を口の中で繰り返した。
まだ、この世界のことをすべて理解したわけではない。
獣人たちのことも、アルカディアのことも、分からないことばかりだ。
それでも、同じ場所で竿を握り、魚を追い、笑い合っている。
その事実が、胸の奥に温かなものを残していた。
その日の昼。
釣った魚を焼いて食べた。
薪がぱちぱちと爆ぜ、白い煙が立ち上る。魚の皮が炭火の上でじゅうじゅうと音を立て、脂が落ちるたびに香ばしい匂いが広がった。焼けた皮はぱりぱりに縮み、身からは湯気が立っている。塩の粒が舌に触れ、淡白な身の甘みが口いっぱいに広がった。
スズキは皮が香ばしく、身は淡白で上品だった。
アジは小ぶりながら、身にしっかりとした旨味がある。
カサゴは身がふっくらとしていて、噛むほどに甘みが出る。
そしてサバは、焼いているだけで脂が炭火へ落ち、煙と一緒に食欲を刺激した。
「魚って、こんなに違うんだな」
隊員の一人が呟いた。
「森で食べていた魔物の肉とは、全然違いますね」
椎名も頷く。
「食感も脂の量も違う。栄養面でも、魚は貴重だな」
日比野はサバを頬張った。
「うまいな」
「味噌煮にしたら、もっと美味しいですよ」
セバスが言う。
日比野は箸を止めた。
「……次は絶対に味噌煮だ」
「そんなに気に入ったのか」
佐竹が笑う。
「半年ぶりにまともな魚を食べたんだぞ。気に入らないわけがない」
「確かにな」
佐竹も魚を口に運ぶ。
塩を振っただけの魚だった。
それでも、佐竹たちにとってはご馳走だった。
「日比野さん、骨に気をつけてほしいにゃ」
少女が心配そうに言う。
「大丈夫だ。俺は魚を食べるのが上手いんだ」
そう言った直後、日比野が小さく咳き込んだ。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。今のは魚が少し抵抗しただけだ」
「魚のせいにするのかにゃ?」
少年が笑う。
日比野も笑いながら、骨を取り除いた。
「君たちは魚を食べるのが上手いな」
「慣れてるからにゃ」
「俺たちの国では、骨を取って売っている魚もある」
「骨がない魚かにゃ?」
「正確には、骨を取ってある魚だ」
「それは便利だにゃ」
「便利だが、今日の魚の方がうまい気がする」
日比野がそう言うと、獣人たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
食事をしながら、少しずつ会話が増えていく。
森の中での生活。
日本にいた頃の話。
アルカディアの暮らし。
そして、この世界について。
隊員たちが森でどのように生き延びてきたのかを話すと、獣人たちは驚き、時には心配そうに眉を寄せた。
「そんなに長い間、誰にも会わなかったのかにゃ?」
「ああ。だから、最初に君たちを見たときは、正直かなり警戒した」
佐竹が答える。
「私たちもです。皆さんは見たことのない武器を持っていましたから」
セバスが苦笑する。
「銃のことか?」
「ええ。ですが、今は少し分かりました」
「何がだ?」
「皆さんが、武器を持っていても怖い人ではないということです」
佐竹は返事をせず、焼けた魚を見つめた。
炭火の熱が頬に残り、指先には魚の塩気と脂の感触があった。森の中で飢えと恐怖に耐えていた日々を思い出しながら、彼はゆっくりと息を吐いた。
やがて、静かに頷く。
「俺たちも、君たちが敵ではないと分かってきた」
その言葉に、セバスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらも同じだ。助けてもらった」
「では、お互い様ということにいたしましょう」
「ああ」
短い言葉だった。
だが、その場にいた者たちには、それで十分だった。
十人の自衛隊員たちは、少しずつアルカディアの一員になっていった。
そんな日々の中。
御劔だけは、別のものに目を奪われていた。
ある日。
アルカディアの訓練場。
そこでは、ファルカが剣を振っていた。
一振り。
二振り。
無駄がない。
木剣が空気を裂くたび、乾いた風切り音が響いた。踏み込む足が砂を押し、細かな砂粒が靴の周りで跳ねる。朝の冷気の中でも、ファルカの額には薄く汗が浮かび、呼吸は一定のリズムを刻んでいた。
その姿を見た御劔は、思わず息を呑んだ。
ただ剣を振っているだけではない。
一振りごとに、周囲の空気そのものが研ぎ澄まされていく。
鬼神ファルカ。
アルカディアの者たちがそう呼ぶ理由を、御劔は直感的に理解した。
鬼のような苛烈さと、神のような揺るぎなさ。
その剣は、荒々しいのに乱れていない。静かなのに、触れれば命を奪われると分かる。まるで戦場に立つ鬼神が、己の力を確かめるために刃を振るっているようだった。
御劔は足を止めた。
「……あの人は?」
近くにいた隊員が答える。
「ファルカさんです。アルカディアの騎士団を率いている人ですよ」
御劔は黙って見つめていた。
ファルカの動きには、御劔がこれまで知っている剣術とは違うものがあった。
力任せではない。
速さだけでもない。
相手の動きを読む。
距離を支配する。
そして、必要な瞬間だけ最小限の動きで斬り込む。
御劔は、自分でも気づかないうちに一歩前へ出ていた。
その視線に気づいたのか、ファルカが剣を止める。
「何か用か?」
御劔は姿勢を正した。
「すみません。邪魔をするつもりはありませんでした」
「構わない。……それより、君は?」
「御劔です。自衛隊員です」
「そうか」
ファルカは御劔を見た。
そして、その立ち方に気づいた。
「剣を使うのか?」
御劔は少し迷った。
「訓練は受けています。ただ……実戦経験はありません」
「そうか」
ファルカは木剣を一本、御劔へ投げた。
御劔が受け取る。
木剣の柄は硬く、手のひらにざらりとした感触が残った。握り込むと、これから始まる立ち会いへの緊張が指先から腕へ伝わってくる。
ファルカは御劔をまっすぐ見据えた。
「なら、少し相手をしてやろう」
御劔の目が変わった。
「お願いします」
二人が向かい合う。
周囲にいた者たちが自然と集まってくる。
佐竹も気づいて訓練場へやってきた。
「御劔、無理はするな」
「分かっています」
ファルカが構える。
御劔も構えた。
砂を踏む音が止み、訓練場に張り詰めた静けさが落ちた。遠くで鳥が鳴き、風が木の葉を揺らす。そのわずかな音さえ、二人の呼吸を際立たせていた。
次の瞬間。
ファルカの姿が消えたように見えた。
御劔が反応する。
木剣がぶつかる。
一度。
二度。
三度。
乾いた衝撃音が連続して響き、手のひらに痺れが走った。御劔は歯を食いしばり、木剣を握り直す。ファルカの剣が頬のすぐ横を通り過ぎるたび、冷たい風が肌を撫でた。
御劔は必死に食らいつく。
だが、届かない。
ファルカは強かった。
速い。
それだけではない。
御劔が何をしようとしているのか、その先を読んでいる。
御劔が踏み込む。
ファルカが半歩下がる。
御劔の剣が空を切る。
次の瞬間。
首元に木剣が止まっていた。
「そこまでだ」
御劔は動けなかった。
完敗だった。
荒い呼吸が喉を焼き、額から流れた汗が頬を伝う。悔しさで胸が熱くなる一方、目の前に立つファルカの静かな眼差しから、どうしても目を逸らせなかった。
ファルカは木剣を下ろした。
「悪くない」
御劔が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。技術はまだ足りない。だが、相手をよく見ている」
御劔はその言葉を聞いて、拳を握った。
「もう一度、お願いします」
ファルカの口元がわずかに緩んだ。
「いい。来い」
二度目の立ち会いが始まる。
そして、その日から。
御劔は時間があれば訓練場へ向かうようになった。
ファルカの剣を見る。
動きを真似る。
教えを受ける。
そして、自分の剣を振る。
木剣が空を裂く音、砂を踏みしめる足音、荒い呼吸の音が、日ごとに訓練場へ重なっていった。腕は痛み、掌には豆ができた。それでも御劔は剣を置かなかった。痛みの奥に、昨日より一歩進めたという確かな手応えがあった。
御劔には、剣を見ただけで相手の癖を読み取る才能があった。
ファルカが一度見せた動きを、御劔は次の稽古でほとんど正確に再現してみせた。踏み込みの角度、手首の返し、重心を移す瞬間。その一つひとつを、まるで目に焼きつけたかのように吸収していく。
もちろん、力も経験もまだ足りない。
だが、学ぶ速さだけは異常だった。
ファルカでさえ、御劔の成長には目を見張っていた。
ある日の稽古。
御劔の一撃を受け止めたファルカが、木剣を下ろした。
「君は、見たものを自分のものにするのが早いな」
「才能がある、ということでしょうか?」
御劔が尋ねると、ファルカは木剣を構え直した。
「才能だけでは、ここまで来られない」
ファルカは御劔を見据える。
「君には、才能を磨き続ける執念がある」
御劔はその言葉を胸に刻んだ。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次だ」
「はい!」
御劔は再び剣を構えた。
佐竹はそんな御劔を少し離れた場所から見ていた。
「……あいつ、すっかり夢中だな」
日比野が笑う。
「隊長、あれはもう駄目ですよ」
「何がだ?」
「完全にファルカさんに夢中です」
佐竹は苦笑した。
「まあ、分からなくもない」
ファルカは強い。
だが、強さだけではない。
御劔が惹かれているのは、その強さの先にあるものだった。
自分の力を誇示するためではない。
仲間を守るために剣を振るう。
同じ女性として、御劔はそんなファルカの強さに強く惹かれ、憧れていた。
自分もいつか、彼女のように強くなりたい。
その思いが、御劔を訓練場へと向かわせていた。
そしてファルカもまた、御劔の中にある真っ直ぐな向上心を感じ取っていた。
そんなある日のことだった。
訓練を終えた御劔たちが、訓練場の端で休んでいた。
ファルカは木剣を片付けている。
そこへ、りょうが歩いてきた。
「ファルカ、ここにいたのか」
その声を聞いた瞬間だった。
ファルカの動きが止まった。
振り返る。
そして。
「りょう!」
さっきまで鬼神のような顔で剣を振るっていたファルカが、まるで別人のように笑った。
「どうしたの?」
その声も、先ほどまでとはまるで違う。
御劔は目を見開いた。
日比野も固まった。
佐竹は無言でファルカを見る。
「……隊長」
「何だ?」
「あれ、誰ですか?」
佐竹は少し考えた。
「俺に聞くな」
日比野が思わず御劔を見る。
御劔も、何も言えなかった。
つい先ほどまで。
「いい。来い」
そう言っていた人物と、今目の前にいる人物が同じ人間だとは、とても思えなかった。
りょうはそんな周囲の反応に気づく様子もなく、ファルカへ近づいた。
「御劔のこと、よろしく頼む」
ファルカは嬉しそうに頷いた。
「任せて。大丈夫よ」
御劔の目がさらに大きくなる。
「……大丈夫よ?」
思わず口から漏れた。
ファルカが御劔を見る。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
御劔は言葉に詰まった。
つい先ほどまで、自分に木剣を突きつけていた女性。
厳しく、鋭く、近寄りがたいほどの強さを持った女性。
そのファルカが、りょうの前ではこんなにも柔らかい。
しかも本人は、それが当然だと言わんばかりの表情をしている。
りょうもまた、何の違和感もなくその姿を受け入れていた。
「じゃあ、俺は戻るから」
「ええ。また後でね、りょう」
「ああ」
りょうがその場を離れていく。
ファルカはその背中を見送った。
そして、振り返る。
「どうした?」
先ほどまでと同じ、凛とした声だった。
御劔はしばらく答えられなかった。
日比野が佐竹の肩を軽く叩く。
「隊長」
「何だ」
「やっぱり、あれ誰ですか?」
「だから俺に聞くな」
今度は佐竹も、わずかに笑っていた。
御劔はそんな二人のやり取りを聞きながら、ファルカを見つめる。
鬼神と呼ばれるほどの剣。
仲間を守る強さ。
そして、りょうの前で見せた柔らかな笑顔。
御劔は初めて知った。
強いということは、ただ厳しくあることではない。
守りたい誰かの前で、力を抜けることもまた強さなのかもしれない。
御劔の中で、ファルカへの憧れはさらに深くなった。
こうして。
アルカディアでの新たな日常が始まった。
魚を釣り。
飯を食い。
笑い。
働き。
剣を振る。
迷いの森で失っていたものを、一つずつ取り戻しながら。
十人の自衛隊員たちは、少しずつこの世界で自分たちの居場所を作り始めていた。




