日本と異世界
迷いの森。
その森に入ってから、すでに半年以上が過ぎていた。
最初の頃は、まだ希望があった。
通信が復旧するかもしれない。
救助が来るかもしれない。
森を抜ければ、元の世界に戻れるかもしれない。
だが、時間が経つにつれて、その希望は一つずつ消えていった。
洞窟の奥。
湿った岩肌に背を預け、十人の自衛隊員が身を寄せ合っていた。
焚き火にくべられる薪は、もう細い枝しか残っていない。炎は弱く、暖を取るには頼りなかった。
全員、身体だけを見れば十代半ば。
だが、その目に宿っているものは、少年少女のものではなかった。
隊長の佐竹大尉。
副隊長の御劔中尉。
通信兵の日比野少尉。
衛生科医官の椎名大尉。
そして六名の隊員。
彼らは軍人ではない。日本国に仕える国家公務員であり、戦闘訓練やサバイバル訓練を受けてはいるものの、それは有事の際に任務を遂行できるよう備えるためのものだった。海外の軍隊や傭兵部隊のような実戦経験はなく、命のやり取りを経験した者もいない。これまで主に災害救助などの任務に従事してきた、いわば日本最高峰の「戦えるレンジャー」だった。
身体は若返っている。
だが、記憶も精神も変わっていない。
彼らは半年以上、この森で生きてきた。
魔物を避け。
食料を探し。
怪我をすれば自分たちで処置し。
夜になれば洞窟の入口を見張った。
食料は、木の実と小動物、それに魔物の肉を少しずつ分け合っていた。まともな調味料はなく、塩はとっくに尽きている。腹を満たすことだけが目的の食事だった。
水場を見つけても、煮沸するための薪が惜しくて、そのまま飲むことも増えていた。腹を壊しても、椎名が残り少ない薬を使って処置するしかない。
最初は交代で眠っていた。
今では、誰かが必ず起きている。
眠ることすら、贅沢になっていた。
靴底はすり減り、衣服は裂け、包帯は何度も洗って使い回している。誰もが痩せ、頬はこけていた。それでも、武器だけは手放さなかった。
日比野が、壊れかけた通信機を手に取る。
何度確認しても結果は同じだった。
「……駄目です」
佐竹は何も言わない。
「電源も限界です。もう、まともに使える部品がありません。予備の電池も、残りは一つです」
沈黙。
誰も、その一つを使えとは言わなかった。
使っても救助を呼べる保証はない。だが、使わなければ、最後の可能性まで消えてしまう。
椎名が小さく息を吐いた。
「食料も、あと二日分が限界です。狩りに出ても、獲物が取れるとは限りません」
誰も返事をしなかった。
分かっている。
このままでは長くない。
それでも、佐竹は隊長として口にした。
「今日も生きるぞ」
誰かが小さく笑った。
「……隊長。それ、何回目ですか」
「覚えていない」
「俺もです」
ほんの少しだけ笑いが起きる。
だが、それもすぐに消えた。
笑うための体力すら、惜しくなっていた。
そのときだった。
洞窟の外から、音がした。
全員が一斉に武器を取る。
眠っていた者も飛び起き、壁際に身を寄せた。佐竹が指を立て、声を出すなと合図する。
御劔が入口を見る。
佐竹が手で制した。
音は近づいてくる。
一歩。
また一歩。
だが、魔物の足音とは違う。
重くない。引きずるような音でもない。
そして。
ひょこっと、猫耳が現れた。
「……にゃ?」
全員が固まった。
猫耳の少女。
いや、少女に見えるが、人間ではない。
ニャーレだった。
彼女も洞窟の中を覗き込み、目を丸くする。
「……人間?」
佐竹が銃を構える。
ニャーレは驚いて後ずさった。
だが逃げない。
「武器を下ろすにゃ!」
「お前は何者だ」
「ニャーレにゃ」
「……」
「お腹、空いてるにゃ?」
その言葉に、全員が黙った。
空腹という言葉に反応した腹が、誰かの身体の中で小さく鳴った。
ニャーレは少し考えてから言った。
「ご飯、あるにゃ」
誰も動かなかった。
罠かもしれない。
魔物かもしれない。
これまで何度も、甘い考えをした人間が死んだ。
佐竹は銃を下ろさない。
「どこへ連れていく」
「アルカディアにゃ」
「アルカディア?」
「安全な場所にゃ」
佐竹は仲間を見る。
全員、疲れ切っていた。
まともに眠れていない。腹も減っている。傷は塞がりきらず、装備も限界だった。
だが誰一人として、警戒を解いてはいない。
やがて佐竹が口を開いた。
「……案内してくれ」
ニャーレは嬉しそうに笑った。
「分かったにゃ!」
そこからの道中、彼らは何度も警戒した。
先頭と最後尾を入れ替えながら進み、森の外から魔物が追ってこないか、何度も振り返った。ニャーレが差し出した水にも、最初は誰も口をつけなかった。
だが、喉の渇きに耐えきれず、日比野が少しだけ飲んだ。
毒も、異常もなかった。
それでも彼らは、最後まで武器を手放さなかった。
森を抜ける。
木々の隙間から光が見える。
そして。
目の前に広がった景色に、十人は言葉を失った。
建物。
畑。
家畜。
人。
煙突から上がる煙。
そして、電灯。
日比野が立ち止まった。
「……電気?」
ニャーレが振り返る。
「そうにゃ」
日比野は絶句した。
半年以上。
電気のない生活をしていた。
夜は焚き火の明かりだけを頼りにし、通信機の電池を惜しんで、暗闇の中で地図を確認していた。
その光を見ただけで、胸の奥が震えた。
さらに歩く。
やがて、森の向こうに建物が見えてきた。
それは、ただの屋敷ではなかった。
そこには、かつて人々が暮らしていた一つの市町村が、ほとんど損なわれることなく残っていた。
道路には交通標識が立ち、交差点には動いていない信号機まで設置されている。道端には、乗り捨てられた車やバイク、自転車が残されていた。風雨にさらされていたとは思えないほど、建物はしっかりとした状態を保っていた。
そこにあったのは、まごうことのない日本だった。
石造りや木造の家々が整然と並び、道はきれいに整えられ、畑や家畜小屋も配置されている。看板には日本語が使われ、見慣れた町の風景が、異世界の森の向こうにそのまま現れたように見えた。
人々が、この街を捨てていったのだ。
国の誘導によって、住民たちはこの市町村を離れたのだろう。生活の痕跡だけを残し、車もバイクも自転車も置き去りにして、誰もいなくなった街を後にした。
その街を離れた人々の代わりに、今では新たに建てられた家や施設が少しずつ加わっている。異国情緒の漂う石造りの建物や木造の建物が、もともとの日本の町並みに寄り添うように並び、ところどころには見慣れない文字の看板や、新しく作られた施設も見えた。
日本の町が、そのまま異世界の中に取り残されている。
その隣に、異世界の住人たちが新たな建物を建て、別の文化を持ち込んでいる。
街そのものは、綺麗な状態で残っている。
だが、その規模に反して、人の気配はまだ少ない。
捨てられた都市。
それでも、そこには生活の痕跡があった。
誰かが建物を使い、畑を耕し、煙突から煙を上げている。
道路脇には、動かなくなった信号機が立っている。
その光景は、彼らが知る日本と、異世界の街が混ざり合ったものだった。
日比野が、呆然と呟く。
「……日本?」
誰も答えなかった。
そんなはずはない。
日本の都市が、こんな場所にあるはずがない。
それでも、目の前に広がる建物群は、彼らが知っている日本の村や町を思い起こさせた。
佐竹は、街の一角に残る建物の壁に目を留めた。
そこには、見覚えのある文字が刻まれていた。
完全に読めるわけではない。
長い年月を経て、ところどころ欠けている。
だが、間違いなく日本語だった。
「……日本人がいたのか」
御劔が低く呟く。
その瞬間、彼らの中で何かが変わった。
ここは異世界だ。
そう思い続けていた。
だが、ここには日本人がいた。
日本の言葉を残し、日本の町を作り、そして国の誘導によって、この場所を捨てていった人々がいた。
日比野は、震える指で壁の文字に触れた。
「日本……やっと、帰ってこれたのか……?」
帰ってきた。
そう思いたかった。
たとえ、知っている日本ではなくても。
たとえ、誰もいない街だったとしても。
そこには確かに、日本の痕跡があった。
ニャーレが不思議そうに首を傾げる。
「ここはアルカディアにゃ」
その言葉で、彼らは現実に引き戻された。
日本ではない。
ここは、異世界の中に残された、かつて日本人が暮らしていた都市。
そして今は、りょうたちが再び人の住める場所へと変えようとしている町だった。
大きな屋敷が見えてきた。
その前に、一人の男が立っていた。
りょうだった。
ニャーレが駆け寄る。
「りょう! 森で人間を見つけたにゃ!」
りょうは十人を見る。
そして、少しだけ目を細めた。
服はボロボロ。
装備は傷だらけ。
顔には疲労が刻まれている。
手足には古い傷が残り、誰もが立っているだけで精一杯に見えた。
それでも、立っている。
りょうは何も聞かなかった。
まず言った。
「お腹が空いているだろう」
その言葉に、佐竹の胸の奥で、遠い記憶が揺れた。基地で交わした何気ない食事の誘い。任務を終えた仲間たちと囲んだ、温かな食卓。もう二度と戻れないと思っていた日常の気配が、目の前の少年の声に重なった。
誰も答えない。
答える余裕もなかった。
りょうは振り返る。
「食事を用意してくれ」
「待ってください」
佐竹が声を上げた。
りょうが振り返る。
「何だ?」
佐竹は銃口を下げ、仲間たちに目を向けた。半年以上、誰も背中を預けられない場所で生きてきた。疑い、警戒し、眠ることさえ恐れていた。その手を下ろすのは、戦いを終える合図のように思えた。
そして、初めて自分たちの素性を明かした。
「俺たちは、日本国陸上自衛隊の隊員です」
りょうが目を見開く。
「……自衛隊?」
「はい。俺は佐竹大尉。隊長です。こちらが副隊長の御劔中尉、通信兵の日比野少尉、衛生科医官の椎名大尉です。そして、残りの六人も同じ部隊の隊員です」
りょうは十人を見回した。
「……日本人、なんだよな?」
「そうです」
佐竹が答える。
りょうは、少しだけ表情を緩めた。
「そうか……」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
同じ日本から来た人間。
それだけで、警戒する理由はなかった。
りょう自身もまた、その言葉に胸の奥を掴まれていた。日本という名を聞くたび、遠い故郷の景色と、そこへ戻れないかもしれないという寂しさが蘇る。目の前の十人は、その記憶を共有できる初めての人間だった。
「だったら、ここにいていい」
佐竹が驚いた顔をする。
「……ここにいても、いいんでしょうか」
「もちろん」
その一言が、張り詰めていた何かを静かに断ち切った。
佐竹は少し黙った。
そして、静かに頭を下げる。
「俺たちは、何も返せません」
りょうは首を横に振った。
「今は、それでいい」
そして、十人を見渡す。
「怪我している奴は治したらいい。腹が減っている奴は食べたらいい。疲れている奴は寝たらいい」
その言葉は、命令ではなかった。
帰ってこい、と迎え入れる声だった。
誰も口を挟まなかった。
御劔は唇を噛み、日比野は俯いた。椎名は目を閉じ、残る隊員たちは震える手を握りしめる。泣くことさえ忘れていた彼らの胸に、ようやく安堵が流れ込んできた。
りょうは続けた。
「これからどうするかは、そのあと考えればいいだろう」
佐竹はしばらくりょうを見つめていた。
やがて、背筋を伸ばす。
半年以上、彼は隊長として仲間を守り続けてきた。だが今、初めて自分たちを守ってくれる場所を見つけたのだと、ようやく理解した。
そして、敬礼した。
それに続くように、御劔も。
日比野も。
椎名も。
残る隊員たちも。
十人全員が、りょうに向かって敬礼した。
それは軍人としての礼ではない。国家公務員として任務に就いてきた彼らが、救ってくれた相手へ捧げる感謝であり、ここにいてもいいのだという許しへの返礼だった。
りょうは一瞬戸惑い、それから静かに敬礼を返した。
その姿を見た佐竹の視界が滲んだ。隣では日比野が顔を伏せ、御劔が何度も瞬きをしている。誰も声を上げて泣かなかった。ただ、張り詰めていた半年分の孤独が、敬礼の形のまま少しずつほどけていった。
半年以上。
迷いの森で、生きることだけを考えてきた。
そして今日。
ようやく彼らは、帰る場所を見つけた。
それは、かつての日本ではなかった。
それでも、同じ言葉を話し、同じ記憶を抱えた者たちが迎えてくれる場所だった。
彼らは初めて、武器を握らずに立っていられる場所を得た。
そしてりょうもまた、遠い故郷へつながる仲間を、ここで見つけたのだった。




