33. ――この結婚は、無効だ。
しん、と静寂が落ちた。
白い霧が大広間に満ち、しゅうしゅうと音をたてている。
無数の氷の刃は、見る間に溶けて水になり、そして熱を持って白い湯気となって消えていく。
全部受け止め、すべてを消した。
特大の攻撃魔法を、小さな身体で。それも片手で、跡形もなく。
侵入者が初めて動きを止めた。焦ったように目が泳ぐ。
「ディーン」
幼女レティシアが、ゆっくりと前へ進み出た。
うっそりと微笑みながら、その目がディーンを真っ直ぐに見据える。
「……お前、この私に刃を向けたな?」
「は!?」
……幼女のふりは、もう終わり。
小首を傾げる姿は可愛らしく、だが凝縮されたレティシアの魔力が大広間を満たしていく。
魔法師達がひとり、またひとりと崩れ落ちた。
「ち、ちが……違うんです、レティシア様! 魔法国に帰りましょう。ボクが迎えに来ました」
その言葉に、国王の顔がますます色を失くしていく。
「ん? 何が違うんだ? ……困ったな、おかげで髪が乱れてしまった」
「い、いえいえ、あの程度、挨拶です。攻撃のうちには――」
「そうか」
レティシアはまた一歩、前に踏み出した。
借りてきたネコのように大人しくなった侵入者……ディーンが、レティシアに気圧され、反射的に半歩退く。
「では私も久しぶりに、特大の挨拶をお見舞いしてやろう」
にっこりと微笑みながら、幼女レティシアは続けた。
「覚悟しろ」
直後、ディーンの身体が何かに押しつぶされるようにして、ぐしゃりと地に伏す。
「ぐは……ッ」
重力魔法。音もなく、予備動作もなく、ただ一言で地に這わせる。
レティシアはゆっくりと歩み寄り、這いつくばるディーンを静かに見下ろした。
「私は『待て』と言ったはずだ」
幼女の口から、低く、静かで、冷たい音が零れ落ちる。
レティシアは屈み込み、身体を起こせないディーンへと、そっと手を伸ばした。
「……待てもできない駄犬には、相応の仕置きが必要だと思わないか?」
小さな指先が、ディーンの顎を持ち上げる。
いつもの無垢な笑顔は消え、影のある微笑みをたたえてそう告げる。
その場にいた者は圧倒され、誰一人として言葉を発することができなかった。
「し、仕置き……?」
この体制で、一体何をされるのか。
ちょっぴり期待をして、ドキドキした顔でレティシアを見つめる。
次の瞬間。
「ぎょえええええええッ!?」
身の毛もよだつような雄叫びが、大広間に響き渡った。
レティシアが触れた場所から、ディーンの魔力がごっそりと抜き取られていく。
「ま、魔力が……! 抜かれ……!」
「ほお」
レティシアは微笑みを絶やさない。
「驚いたな。この犬は、人の言葉を話すらしい」
「ちょ、レティシア様、もしかしてめちゃくちゃ怒って……それ以上は死にま――」
「黙れ」
「はいぃぃぃ……」
糸の切れた人形のように、ガクンとディーンが崩れ落ちた。
完全な魔力切れ。
レティシアはゆっくりと立ち上がった。
奪った魔力は体内に滞り、芯から熱を持ち始める。
ぶさねこヴェリアルが舞い降り、口に咥えていた物をパサリとレティシアの足元に落とした。
それは、大人物のワンピース。
すぐに脱ぎ着できるようにと、アリエッタが準備してくれたものだった。
(……随分と気が利くじゃないか)
《これ以上は、面倒なことになりそうだからな》
次の瞬間、ヴェリアルの周囲に風が巻き起こる。
竜巻状の風の壁が、レティシアをすっぽりと覆い隠した。
誰も動けない。息をするのも忘れたように、ただその光を見つめている。
ふと風が止み、そこに立っていたのは、見たこともないような絶世の美女だった。
白いワンピースが、光の残滓をまとってわずかに輝いている。
ロイドは大人になったレティシアの姿を見遣り、身動ぐことすらできなかった。
「レティ……レティシア・アルヴェーヌ?」
大切にしていた幼女と、目の前から消えた美女が同一人物だったと、ロイドはやっと気付いた。
そして敵国の魔法帝と同名なのが、偶然ではないことも。
視線を落とし、何を言うべきかレティシアは思案する。
大人の姿で言葉を交わすことは、あれが最後だと思っていたが、図らずもまた会うことになってしまった。
「……幼女を妻になどと、よく受け入れたものだ」
結局出てきたのは、自嘲めいた言葉だった。
「世話になったな。言っただろう? ……お前を開放してやると」
一ヶ月しか過ごしていないのに、ずっと昔から一緒にいたような気がする。
「さぁ、ヴェリアル。帰るか」
セシリオ辺境伯邸の飼い猫が、まさかの聖獣ヴェリアル。
もはや言葉も出ない国王を鼻で笑い、レティシアは満面の笑みで宣った。
「――この結婚は、無効だ」
誰一人として逆らうことは許されない、魔法帝としての言葉。
揺るぎない眼差しで、残酷な言葉を平然とロイドに言い放つ。
ロイドが何かを言いかけた次の瞬間、そこには誰もいなかった。
ぶさねこヴェリアルも、這いつくばるディーンも、魔法帝レティシアも、すべてが夢だったかのように消えている。
大広間に残されたのは、終わらない静寂だけ。
ロイドは誰もいなくなった場所を、ただ見つめていた。




