第9話
遠くの空には、新たな戦火を予感させるような、重く黒い雲が立ち込めていた。
「結局、あたしも付いてきちゃいましたね」
東海道を下る道中、隣を歩く小柄な少女が、背負った風呂敷包みを揺らしながら笑った。
江戸の出立時、見送りに来てくれたはずのお春は、なぜかそのまま旅の列に加わっていた。
「江戸の留守は宗庵に任せておけば大丈夫ですよ。それに、あんた一人じゃ、布を煮るのも一苦労でしょう?」
「助かるよ。お春がいてくれると心強い」
俺は苦笑しながら頷いた。
良順殿の供として進む旅路は、思いのほか順調だった。
街道沿いの宿場町で休息を取るたび、良順殿は京の情勢について語って聞かせた。
「京は今、日本中の志士が集まる坩堝だ。尊王攘夷を叫ぶ者、幕府を支えようとする者。思想がぶつかり合い、毎日のように刃傷沙汰が起きている」
茶を啜りながら、良順殿は険しい表情で言った。
「お前のその腕は、間違いなく多くの命を救うだろう。だが、同時に危険も伴う。特定の陣営に肩入れしていると見なされれば、命を狙われることにもなりかねん」
「分かっています」
俺は静かに答えた。
「俺は医者として、ただ目の前の患者を治療するだけです。そこに思想や身分は関係ありません」
良順殿は少しだけ目を細め、深く頷いた。
「その覚悟があるなら、何も言うまい」
揺れる駕籠の横を歩きながら、俺はふと、自分がこの時代に放り出された日のことを思い返していた。
救急車の中で絶え間なく心臓マッサージを続け、そのまま意識が途切れた。過労死だった。
次に目覚めたとき、俺は幕末の江戸で、蘭方医の弟子「誠太郎」になっていた。
現代の医療器具も、抗生剤も、アドレナリンもない。
未発達な医療環境に直面し、最初は絶望しかけた。救えるはずの命が、道具がないというだけで指の間からこぼれ落ちていく感覚に、何度も胃の奥が冷たくなった。
前世で救えなかった命への後悔が、夜ごと夢に現れて俺を苛んだ。
遺族から投げつけられた言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
だが、新たな人生は確実に動き出していた。
転機となったのは、あの日の出来事だ。
道場で大怪我を負ったという大柄な浪士が運び込まれてきた。
大量出血で周囲が匙を投げる中、俺は無我夢中で手ぬぐいと扇子を手に取った。即席の止血帯を作り、焼酎で消毒し、煮沸した糸で血管を結紮した。
あり合わせの道具でも、現代の知識と反射神経があれば命を繋ぐことができる。
後になって、その患者が近藤勇だと知った。
自分が歴史の転換点に立っている。その事実に背筋が粟立つような恐怖を覚えたが、同時に、俺のやるべきことは明確になった。
歴史を変えてしまうかもしれないという恐れよりも、目の前の命を見捨てることへの恐怖の方が、はるかに勝っていたのだ。
◆ーーーー◆
数週間の旅を経て、俺たちは三条大橋を渡った。
大通りには華やかな着物をまとった人々が行き交い、活気に満ちている。西陣織の鮮やかな色彩が目に飛び込み、茶屋からは三味線の音が漏れ聞こえてくる。
だが、一歩路地裏に入ると、空気は一変した。
どぶ板の隙間から漂うのは、饐えたような生活臭と、微かな血の匂い。
すれ違う浪士たちの目は血走り、腰の刀には生々しい刃こぼれがある。江戸以上に張り詰めた、殺伐とした空気が肌を刺した。
建物の壁には、刀で斬りつけられたような深い傷跡がいくつも残っている。
「……ひどい有様ですね」
お春が顔をしかめ、手ぬぐいで口元を覆う。
道端には、満足な治療も受けられずにうずくまる者たちの姿があった。
足に巻かれた包帯は黒ずみ、傷口からは膿が滲み出している。
衛生状態は劣悪で、感染症が広がるのも時間の問題だろう。
俺は、江戸で出会った試衛館の面々を思い出した。
土方や沖田から向けられた、あの真っ直ぐな信頼の目。彼らは俺の技術を信じ、命を預けてくれた。
これからこの街で、コレラや抗争による負傷者が次々と運び込まれてくるはずだ。
歴史がどう動くかは分からない。だが、俺は救急救命士だ。
やれることを全てやり尽くすまで、命から手は引かない。
患者の身分や所属が何であろうと、目の前の命を救う。その確固たる矜持だけは、絶対に曲げるつもりはなかった。
指定された路地を曲がると、見慣れた猫背の男が壁に寄りかかっていた。
目深に被った手ぬぐいの下から、飄々とした笑みが覗く。
「お待ちしてましたぜ、旦那」
「辰吉。早いな」
「あっしは商売柄、足が速いんでね。それに、旦那の頼みとあっちゃあ、手を抜くわけにはいきやせん」
辰吉は先回りして、京での拠点を確保してくれていた。
案内されたのは、大通りから少し離れた小さな京町家だった。
外観は古びているが、中に入ると、土間には真新しい竈が据えられ、大きな鍋がいくつも用意されている。
棚には清潔な木綿布が山積みにされ、強い匂いを放つ精製酒の瓶が並んでいた。
「裏の伝手を辿って、必要なもんはあらかた揃えときやした。これで、いつでも店開きできやすよ」
「ありがとう。これだけあれば十分だ」
俺は棚の布を手に取り、その感触を確かめた。
辰吉の抜け目のない手配と、隣で袖をまくり上げているお春。
頼もしい仲間たちの存在に、確かな手応えを感じる。
ここが、俺の新しい戦場だ。
荷物を解き、即席の診療所としての準備を整え始めた矢先だった。
外の通りから、鋭い金属音が響いた。
「……っ!」
お春が手を止め、辰吉が目を細める。
怒号と悲鳴が入り混じり、ドタドタと駆けずり回る足音が近づいてくる。
風に乗って、生暖かい血の匂いが鼻腔を突いた。
懐の壊れた時計が、幻聴のようにチクタクと鳴り始める。
京での最初の患者は、一体誰になるのか。
俺は襷を掛け直し、表の戸へ向かって駆け出した。




