第8話
俺は引き出しを閉める手を止め、お春の手元にある木札を無言で見つめ返した。
「……長州の、どこかの藩邸に出入りしてた商人が、似たような意匠の印半纏を着てたような……」
お春は木札の表面に彫られた奇妙な紋様を指先でなぞりながら、小さく首を傾げる。
「長州?」
「いや、気のせいかもしれない。あたしも色んな客を見てきたから、記憶がごっちゃになってるのかもね」
お春は木札を机の上にコトリと置いた。その表情には、まだ微かな警戒の色が残っている。
「まあ、あんたはただの医者なんだ。変な厄介事に巻き込まれないようにしなよ。このご時世、どこの誰と関わってるかで、首が飛ぶことだってあるんだから」
「ああ。ただの患者からの礼だ。深く考えるのはよそう」
俺は木札を引き出しの奥に押し込み、鍵をかけた。
誰が相手であろうと、目の前の命を救う。その結果として何が残ろうと、俺のやるべきことは変わらない。そう自分に言い聞かせながらも、胃の奥に冷たいものが沈んでいく感覚は拭えなかった。
◆ーーーー◆
翌朝。診療所の前には、夜明け前から長い列ができていた。
「神医」の噂は江戸中に広まり、身分を問わず多くの患者が押し寄せている。
俺は袖を襷掛けにし、次々と運び込まれる患者の処置に当たっていた。
「先生、この子の熱が下がらないんです!」
「大丈夫だ、落ち着いて。まずは水分を摂らせて、体を冷やそう」
母親から子供を受け取り、手早く状態を確認する。脈拍、呼吸、皮膚の温度。現代の機器がなくても、指先と視覚から得られる情報は多い。
過労死の末に、この時代で目覚めた日のことをふと思い出す。
救急車の激しい揺れ。耳をつんざくサイレンの音。電子モニターの無機質な警告音。そして、心臓マッサージを続ける両手に残る、命が消えていく感触。
気がつけば、現代の器具も薬もない江戸の町で、蘭方医の弟子として下働きをさせられていた。未発達な医療環境と、身分制度という理不尽な壁。最初は戸惑い、無力感に苛まれるばかりだった。
だが、今は違う。
「相良、こちらの骨折は私が添え木で固定しておく。お前は奥の裂傷を診てやれ」
「助かります、宗庵先生」
林宗庵が、額の汗を拭いながら隣で的確に患者の仕分けを行っている。
かつて俺の処置を素人のまぐれと見下していたプライドの高い男は、今やその意地を捨て、俺の技術を吸収しようと必死に裏から支えてくれている。
「おい、痛むなら無理に動かすな。相良の指示通りにしろ」
宗庵はぶっきらぼうに言い放ちながらも、泥だらけの患者の傷口を躊躇いなく素手で押さえ込んだ。
彼もまた、目の前の命を救うという医者としての本能に目覚めつつあるのだ。
昼近くになると、診療所の熱気はさらに増していく。
擦り傷から重度の火傷、さらには町同士の喧嘩による刃物傷まで、あらゆる外傷が持ち込まれる。
俺は焼酎で消毒した木綿糸を使い、手早く縫合を進めていく。
「よし、これで塞がった。数日は安静にして、傷口を清潔に保つんだ」
「へへっ、ありがてえ。神医の先生に診てもらえば、こんな傷あっという間だ」
患者が笑いながら去っていくのを見送り、俺は小さく息を吐いた。
◆ーーーー◆
昼下がり、患者の波が一段落した頃、立派な身なりの男が診療所を訪れた。
松本良順だ。
「相良君。相変わらず、凄まじい活気だな」
「松本先生。わざわざ足を運んでいただけるとは」
良順は威厳のある佇まいを崩さず、しかしどこか急いた様子で奥の座敷へと進んだ。
俺と宗庵が向かい合って座ると、良順は真剣な眼差しで俺を見据えた。
「単刀直入に言おう。私と共に、京へ行かないか」
「京、ですか」
「そうだ。今、京は動乱の中心地となっている。各藩の志士たちが集い、血で血を洗う抗争が日常茶飯事だ。幕府の医官として私も赴くことになったのだが……君のその類まれなる腕が、どうしても必要なのだ」
良順は身を乗り出し、熱弁を振るう。
「毎日のように斬り合いが起き、多くの若者が命を落としている。だが、現地の医者たちは旧態依然とした治療しかできず、救えるはずの命が次々と失われているのだ。日本の医学は、このままでは世界から取り残されてしまう。君の持つ未知の医療技術は、この国を救う希望だ。京という最も過酷な現場でこそ、その真価が発揮されるはずだ」
俺の脳裏に、道場で大怪我を負った近藤勇を救った日のことが蘇る。
大量出血で誰もが匙を投げた中、あり合わせの布と棒で止血帯を作り、現代の知識で命を繋ぎ止めた。あの時、自分が歴史の転換点にいると自覚した。
その後も、試衛館の面々から絶大な信頼を得て、コレラ騒ぎや抗争の負傷者を前に、俺は目の前の命を救うという救命士としての確固たる矜持を貫いてきた。
京へ行けば、さらに多くの命が危機に瀕している。
だが、それは同時に、歴史の巨大なうねりの中心に身を投じることを意味していた。
俺の処置一つで、本来なら命を落とすはずだった人間が生き延びる。それがこの国の行く末をどう変えてしまうのか。
「……怖いか、相良君」
沈黙を察したのか、良順が静かに問いかける。
「ええ。正直に言えば、恐ろしいです」
俺は手元の荒れた指先を見つめた。
前世で救えなかった命への強烈な後悔。それが俺を突き動かしている。もしあの時、もっと早く処置できていれば。もしあの時、別の判断を下していれば。
その思いがあるからこそ、俺は幕末の技術的限界を言い訳にしたくない。
「だが……目の前で血を流している患者を見捨てることは、俺にはできません。それが誰であっても」
顔を上げ、良順の目を真っ直ぐに見返す。
「打てる手をすべて尽くす前に見切りをつけることだけは、絶対にしない。それが、俺の譲れない信条です」
良順は満足そうに頷き、口元に笑みを浮かべた。
「君ならそう言うと思っていた。君の技術は、私が責任を持って保護しよう。身分や所属に関わらず、君が存分に腕を振るえる環境を整えると約束する」
「松本先生……」
すると、隣で黙って話を聞いていた宗庵が、静かに口を開いた。
「行け、相良」
「宗庵先生?」
「ここでの留守は私が守る。お前の技術は、この小さな診療所に留めておくべきものではない。もっと広い世界で、多くの命を救ってこい」
宗庵は神経質そうに眉間に皺を寄せたまま、しかし力強い声で背中を押してくれた。
「ただし、無茶をして死ぬような真似は許さんぞ。お前にはまだ、私に教えなければならない技術が山ほどあるのだからな」
「……はい。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
江戸での日々が、俺を医者として、いや、一人の救命士として再び鍛え上げてくれた。
だが、俺の戦いはまだ終わらない。
「松本先生。よろしくお願いします。俺も、京へ行きます」
良順は力強く頷いた。
◆ーーーー◆
数日後。
俺は最低限の荷物と医療道具をまとめ、江戸を後にした。
見送りに来てくれたお春や宗庵に別れを告げ、良順の供として東海道を下る。
道中、ふと懐を探ると、硬い感触があった。
ガラスの割れた古い懐中時計。針は止まったままだが、俺の時間は確実に動き出している。
激動の京都。
そこでどれほどの凄惨な現場が待ち受けているのかは分からない。
だが、俺は命を救い続ける。ただそれだけだ。
遠くの空には、新たな戦火を予感させるような、重く黒い雲が立ち込めていた。




