第7話
布の準備をしながら、手のひらに残る銀貨の冷たい感触を確かめる。
相場よりもはるかに多いその金額は、あの飄々とした男の底知れない余裕を示していた。
次の患者を迎えるため、煮沸用の鍋に火を入れ直す。
パチパチと薪が爆ぜる音を聞いていると、ふいに耳の奥で、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた気がした。
救急車の激しい揺れ。夜の街を切り裂く赤色灯。モニターの無機質な電子音。
三十六時間連続の勤務の末、俺は過労で倒れ、そのまま命を落とした。そして目を覚ましたのは、現代の医療器具も薬も一切存在しない、この幕末の江戸だった。
すり鉢と薬研しかない未発達な医療環境。身分によって命の価値が決められる理不尽な社会。最初は絶望しかなかった。
だが、道場で大怪我を負ったという大柄な浪士が運び込まれてきたあの日、すべてが変わった。
大量出血により周囲の医者たちが匙を投げる中、俺はあり合わせの布と棒で即席の止血帯を作り、現代の救命技術で命を繋ぎ止めた。後になって、その患者が新選組局長となる近藤勇だと知った時の衝撃は、今でも忘れられない。
窓の外を行き交う丁髷姿の武士たちを眺め、小さく息を吐き出した。
少しでも介入すれば、未来がどう歪むか分からない。その恐怖は常に付き纏っている。現代の器具があれば確実に助けられる命を、幕末の技術的限界のせいで見殺しにせざるを得ない状況に直面する恐れも消えない。
前世で救えなかった命への強い後悔が、胸の奥を締め付ける。
それでも、先ほどの男に言った言葉に嘘はない。
コレラが流行ろうが、抗争で血を流そうが、俺は目の前の命を救う。患者の身分や所属で治療の優先順位を決めない。諦めるのはすべての手段を尽くした後だけだ。
医療従事者としての矜持を絶対に曲げない。それが、俺の生きる道だ。
◆ーーーー◆
診療所から少し離れた路地裏で、私は足を止めた。
周囲に人影がないことを確認してから、袖をまくり、先ほど処置を受けたばかりの腕を確認する。
痛みはほとんどなく、傷口は信じられないほど綺麗に塞がれていた。
「……見事な腕だ。噂以上ですね」
独り言ちて、私は静かに笑みをこぼした。
あの若い医者。身分を隠した私に対しても、一切の詮索をせず、ただ淡々と最善の治療を施した。
『大義がどうであれ、命の重さは変わりません』
その言葉には、確かな信念が宿っていた。有能な人材は身分や思想を超えて評価すべきだというのが、私の持論だ。彼のような傑出した医術を持つ者を、我々倒幕派の陣営に引き入れることができれば、これほど心強いことはない。
だが、同時に冷たい懸念が胸の奥で渦を巻いていた。
彼は、試衛館の浪士たちを救った「神医」として名を馳せている。つまり、幕府側の人間も分け隔てなく治療しているということだ。
新しい時代を創るためには、時に非情な決断を下さねばならない。我々が命を賭して倒すべき敵を、彼がその神業で次々と戦線に復帰させたらどうなるか。
敵味方を問わないその平等な姿勢は、いずれ我々の理想とする新しい国作りの最大の障壁となるかもしれない。
「彼が幕府側に完全に取り込まれるようなことがあれば……厄介なことになりますね」
古い価値観に縛られたままでは、この国は諸外国の脅威に屈して滅びる。それを防ぐための犠牲は厭わない。大義のためには泥を被る覚悟が私にはある。
私は袖を下ろし、鋭い眼光を隠すようにいつもの穏やかな笑みを浮かべると、足早に京へ向かうための手配へと戻った。
◆ーーーー◆
「先生、急患だよ!」
診療所の戸が乱暴に開け放たれ、切羽詰まった声が響いた。
振り返ると、血まみれの男が二人がかりで担ぎ込まれてくるところだった。
「こっちへ寝かせてくれ!」
俺は即座に指示を飛ばし、土間に敷かれたむしろの上へ患者を誘導する。
運び込まれたのは、ひどく貧しい身なりの浪士だった。着物は擦り切れ、泥と血にまみれている。右脇腹から太ももにかけて、深い斬り傷が走っていた。
「頼む、助けてやってくれ! 金はないんだが……見捨てるわけにはいかないんだ!」
付き添いの男が、土下座をする勢いで懇願してくる。
「金の話は後だ。お前、すぐに煮沸した糸と針を用意してくれ! それから焼酎もだ!」
俺は傍らにいたお春に声を張り上げた。
「ちょっと、金にならないのにやる気かい!? あんたも本当に物好きだねえ!」
お春はチャキチャキとした江戸っ子口調で文句を言いながらも、すでに竈の方へ駆け出している。手際よく鍋の湯を確認し、必要な道具を揃える動きに迷いはない。
「諦めるのはすべての手段を尽くした後だけだ。急げ!」
俺は患者の傷口に清潔な布を押し当て、体重をかけて圧迫止血を試みる。
出血量は多いが、動脈は傷ついていない。これならいける。
「焼酎、持ってきたよ!」
「傷口にかける。押さえていてくれ」
お春が患者の肩を強く押さえつけるのと同時に、俺は傷口に焼酎を浴びせた。
「ぐあああっ!」
激痛に患者が身をよじるが、容赦はしない。感染症を防ぐためには、この時代の乏しい環境下ではこれが最善だ。
「動くな、すぐに終わらせる」
俺は冷静な口調で告げ、煮沸消毒した木綿糸と針を手に取った。
手先は荒れているが、患者の状態を見極める観察眼は鈍っていない。現代の救命現場で培った反射神経と縫合技術を駆使し、素早く、かつ確実に傷口を縫い合わせていく。
「……相変わらず、気味が悪いほどの手際だね」
血の海を前にしても顔色一つ変えないお春が、呆れたように呟く。
「無駄口を叩く暇があるなら、汗を拭いてくれ。視界が滲む」
「はいはい、人使いの荒い先生だこと」
お春の的確な補助もあり、処置は十分足らずで完了した。
患者の呼吸は落ち着き、顔色も少しずつ戻ってきている。
「終わった。もう大丈夫だ」
俺が告げると、付き添いの男はその場にへたり込み、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……本当に、何とお礼を言えばいいか……」
「安静にさせてやってくれ。傷口が開くから、数日は無理に動かさないようにな」
俺は血のついた手を水桶で洗いながら、淡々と応じた。
男は立ち上がると、懐から何かを取り出し、診療所の隅にある文机の上にそっと置いた。
「今は、これしかお渡しできるものがありません。ですが……いつか必ず、役に立つはずです」
男はそれだけ言い残し、仲間の浪士を背負って去っていった。
「なんだい、あれ」
お春が首を伸ばして文机の上を覗き込む。
俺も手を拭きながら近づき、置かれたものを手に取った。
それは、手のひらに収まるほどの小さな木札だった。表面には、見たこともない奇妙な紋様が彫り込まれている。
「ただのガラクタじゃないのか? 質屋に入れても一文にもならなそうだが」
ため息をつきながら、俺はその木札を引き出しの中に放り込んだ。
「まあ、命が助かったんだ。治療費の代わりがこれでも、文句は言えないさ」
引き出しを閉めようとした瞬間、お春が横から手を伸ばし、木札を拾い上げた。
「ちょっと待ちなよ。これ……」
お春は木札の紋様をじっと見つめ、眉をひそめた。
「どうした?」
「いや……あたし、これどこかで見たような気がするんだけど……」
お春は木札の表面に彫られた紋様の溝を、指先でゆっくりとなぞる。
その横顔は、いつもの明るい表情とは違い、どこか強張っていた。
ただの木札のはずだ。だが、お春の反応を見ていると、何かの暗号のような不穏な気配が漂ってくるのを感じた。
この奇妙な紋様には、一体どんな意味が隠されているというのか。
俺は引き出しを閉める手を止め、お春の手元にある木札を無言で見つめ返した。




