第6話
白み始めた空から、薄青い光が診療所の土間に差し込んでくる。
誠太郎は棚に並べたばかりの代用品を見つめながら、ふと自分の手のひらを裏返した。荒れた指先には、いくつもの小さな傷跡が刻まれている。
現代日本で救急救命士の相良誠として過労死し、幕末の江戸で蘭方医の弟子・誠太郎として目覚めてから、どれだけの時間が経っただろうか。
心電図モニターもアドレナリンもない環境に絶望する暇などなかった。俺は手に入る限りの代用品をかき集め、少しでも現代の救急現場に近づけようと足掻き続けてきた。
道場で大怪我を負った浪士が運び込まれてきた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
あの時、俺は無我夢中で現代の救急救命技術を振るい、後に新選組局長となる近藤勇の命を救い出した。限られた道具しかなくても、培ってきた知識と経験は決して裏切らない。その事実が、俺にこの時代で医者として生きていく確かな自信を与えてくれたのだ。
あの神業とも言える処置は、瞬く間に試衛館の面々に知れ渡った。
今では土方や沖田といった面々からも、身に余るほどの信頼を寄せられている。江戸の街では抗争による負傷者が増え、コロリと呼ばれる恐ろしい感染症の噂も聞こえ始めていた。
歴史を変えてしまうかもしれない。その恐れは常に胸の奥底にへばりついている。
だが、俺は救急救命士だ。目の前に失われそうな命があるなら、持てる知識と技術のすべてを注ぎ込んで救う。その矜持だけは、絶対に曲げない。
「相良君。朝早くからすまないね」
不意に背後から声をかけられ、誠太郎は弾かれたように振り返った。
診療所の入り口に立っていたのは、松本良順だった。威厳のある蘭方医の身なりだが、その瞳には少年のように貪欲な探求心がギラギラと燃えている。
「松本先生。こんな朝早くに、どうされたんですか」
「いや、近くまで往診に来ていてね。君の顔を見たら、どうしても聞いておきたいことができてしまった」
良順は土間を上がり、誠太郎が棚に並べていた精製酒の瓶や特注の小刀に鋭い視線を向けた。
「君が近藤君の傷を縫合した手技についてだ。あの時、君は血管を直接縛って止血した。だが、体内に残った糸はどうなる? 腐敗して毒を発することはないのかね」
いきなりの高度な医学的議論に、誠太郎は内心で舌を打ちそうになった。
現代医療における吸収糸や、非吸収糸による結紮の安全性など、この時代の医学では説明のしようがない。未来の知識だとバレるわけにはいかなかった。
「……それは、糸を煮沸して清潔にしているからです。汚れさえ落とせば、体は異物をある程度許容してくれます」
「煮沸、か。熱で毒を消すという考え方は興味深い。では、最近流行り始めているコロリについてはどう考える? あれも目に見えない毒が原因だと?」
「俺はただの下働きです。難しいことは分かりませんよ」
「謙遜はよしたまえ。君の頭の中には、私の知らない医学の体系が詰まっているはずだ」
良順は一歩踏み込み、誠太郎の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
その熱意に圧倒されそうになりながらも、誠太郎は必死に表情を取り繕う。
「オランダの古い書物で、似たような記述を読んだことがあるだけです。俺の知識なんて、その程度のつまみ食いですよ」
「ふむ……オランダの書物か」
良順は納得したような、していないような曖昧な顔で頷いた。そして、懐から古びた手帳を取り出した。
「実は今日、君に見せたいものがあってね」
「見せたいもの、ですか」
「私の師が遺したメモだ。時折、不自然な異国語で記録を残す癖があってね。私にはどうしても解読できないのだが、君なら読めるのではないかと思って持ってきた」
良順が手帳のページを開き、誠太郎の目の前に差し出す。
そこには、羽ペンで殴り書きされたような文字が並んでいた。
誠太郎は目を細め、その文字列を追う。そして、心臓が早鐘のように打ち始めた。
オランダ語ではない。それは、見慣れたアルファベットの羅列だった。
『TOURNIQUET』
『TRIAGE』
『ANAPHYLAXIS』
ローマ字で書かれた、現代の医療用語。
(なんだ、これは……)
胃の奥が急速に冷えていくのを感じた。
良順の師匠がこれを書いた? いや、あり得ない。これは明らかに、現代の医学教育を受けた者が書いた言葉だ。
過去にも、自分と同じようにこの時代へ転生してきた者がいたのか。そして、その人物は良順の師匠と接触していた……?
「どうだね、相良君。何か分かるか?」
良順の問いかけに、誠太郎はハッと我に返った。
手帳を持つ指先が微かに震えているのを悟られないよう、ゆっくりと手を下ろす。
「……いえ。俺にもさっぱり読めません。オランダ語の綴りとは違うようですし」
「そうか。君なら分かると思ったのだが、残念だ」
良順は少しだけ肩を落とし、手帳を懐にしまった。
「無理を言ってすまなかったね。また近いうちに、ゆっくり医学の議論をさせてもらおう」
良順が診療所を去った後も、誠太郎はしばらくその場から動けなかった。
壊れた懐中時計の幻聴が、耳の奥でチクタクと鳴ったような気がした。
昼下がりになると、診療所にはいつものように数人の患者が訪れた。
誠太郎は賄い娘と連携しながら、手際よく処置をこなしていく。辰吉が調達してくれた精製酒のおかげで、傷口の消毒が格段にスムーズになっていた。
「先生、次の方です」
娘の声に促され、誠太郎は待合の土間へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、身なりを整えた上品な着物姿の男だった。年齢は三十代前半だろうか。鋭い眼光を隠すように、穏やかな笑みを浮かべている。
「怪我ですか。こちらへどうぞ」
誠太郎が声をかけると、男は静かに頷いて診療室の丸椅子に腰を下ろした。
「お忙しいところ申し訳ない。少し、刃物を扱い損ねましてね」
男が左腕の袖をまくると、前腕に浅い切り傷が走っていた。出血はすでに止まっているが、傷口に泥が混じっている。
「刃物、ですか。ずいぶんと鋭利なもので切ったようですが」
「ええ。少しばかり、物騒な輩に絡まれまして」
男は飄々とした口調で答える。その立ち振る舞いには一切の隙がなく、ただの町人ではないことは明らかだった。
だが、誠太郎にとって患者の素性はどうでもよかった。
「精製酒と清潔な布を」
「はいっ」
受け取った布に精製酒を含ませ、傷口の泥を丁寧に拭き取っていく。ツンとしたアルコールの匂いが漂う。
男は痛みに顔をしかめることもなく、誠太郎の手元を興味深そうに観察していた。
「……丁寧な仕事をされる。噂の神医殿は、身分を問わず治療すると聞いていたが、本当のようですね」
「俺はただの医者の端くれです。目の前に患者がいれば、できる限りのことをするだけですよ」
誠太郎は淡々と答えながら、傷口に軟膏を塗り、包帯を巻いていく。
「素晴らしい心がけだ。しかし、この時代にその理想を貫くのは、さぞ骨が折れるでしょう」
男の言葉には、どこか試すような響きがあった。
「新しい時代を創るためには、古い価値観を壊さねばならない。時には、泥を被る覚悟も必要になる。あなたは、自分の技術が誰かの大義のために利用されることを、どうお考えですか?」
誠太郎は包帯の端を結び終え、男の目を真っ直ぐに見返した。
「大義がどうであれ、命の重さは変わりません。俺は、あんたが誰であろうと、次も同じように治療します。それだけです」
男は一瞬だけ目を丸くし、やがて静かに笑い声を漏らした。
「……なるほど。これは一本取られました」
男は立ち上がり、袖を下ろして身なりを整えた。
「治療費は、これで足りるでしょうか」
男が差し出したのは、相場よりもはるかに多い銀貨だった。
「多すぎます。お釣りを出しますから……」
「いや、取っておいてください。その確かな技術への敬意です」
男はそう言うと、背を向けて土間へ向かった。
出口の敷居を跨ぐ直前、男は一度だけ振り返り、誠太郎の顔を意味深に見つめた。
「……良い腕だ。いずれまた、お世話になるかもしれませんね」
男は静かに去っていった。
残された誠太郎は、手のひらに乗った銀貨の冷たい感触を確かめながら、小さく息を吐いた。
あの飄々とした態度の裏に、底知れない熱と知略を隠し持っていた男。
この身分を隠した浪士は、誠太郎に何をもたらすのか。
確かな手応えと、新たな謎の予感を抱えながら、誠太郎は次の患者を迎え入れるために布の準備を始めた。




