第5話
「治療費の代わりと言っちゃなんですが……必要なものがあれば、何でも言ってくだせぇ。あっしの伝手を使えば、大抵のものは手に入りやすぜ。薬草でも、珍しい道具でも、旦那が望むなら地の果てからでも引っ張ってきやすよ」
誠太郎は辰吉の言葉に、少しだけ目を細めた。
現代の医療器具がないこの時代で、裏社会の調達屋のパイプ。
それは、誠太郎の医療をさらに前進させる、新たな可能性の提示だった。
「なら、さっそく頼みたいものがある」
誠太郎は辰吉のそばにしゃがみ込み、声を潜めた。
「度数の高い酒。飲めないくらい強いやつだ。それから、刃渡りが短く、先が少し曲がった小刀。あとは細くてしなやかな管。竹じゃ駄目だ、曲げても折れないものがいい」
「酒はともかく、妙な形の刃物に管、ですか。そいつは何に使うんで?」
「酒は傷口を洗うためだ。刃物は、人の体を切るため。管は……息ができなくなった者の喉に通すかもしれない」
辰吉は一瞬息を呑んだが、すぐにニヤリと笑った。
「へへっ……こいつは面白え。あっしの裏の細道、存分に使ってくだせぇ」
辰吉が闇夜に消えていくのを見送り、誠太郎は深く息を吐いた。
夜風が火照った頬を撫でていく。
ふと、遠い日の記憶が脳裏をよぎった。
救急車の激しい揺れと、耳をつんざくサイレンの音。手のひらから伝わる肋骨の軋む感触。額から流れ落ちた汗が目に入り、視界を滲ませる。
同僚の声が遠くに聞こえる中、三十六時間ぶっ通しで心臓マッサージを続けた。
そして、プツリと糸が切れるように意識が暗転した。
過労死という結末を迎えた相良誠は、目を覚ますと幕末の江戸で蘭方医の弟子「誠太郎」になっていた。
モニターの電子音も、アドレナリンの注射もない。あるのはすり鉢と気休め程度の薬草だけ。
未発達な医療環境に放り込まれ、最初は絶望しかなかった。
だが、今は違う。
新たな人生を歩み始め、ようやく自分の手足となる道具を揃えられる段階に来たのだ。
◆ーーーー◆
数日後の午後。診療所の裏手には、もくもくと白い湯気が立ち込めていた。
「先生、これでいいのかい? 布切れをグツグツ煮込むなんて、料理じゃあるまいし。出汁でも取るつもりかい?」
お春が大きな鍋をかき混ぜながら、額の汗を手の甲で拭う。
「出汁は取らない。お春さん、火加減はそのままで頼む。沸騰させてから、さらにしばらく煮込むんだ」
「へいへい。まったく、あんたのやることは奇天烈なことばかりだね」
文句を言いながらも、お春の手つきは手慣れたものだ。
彼女は賄い娘だったが、誠太郎の神業的な医術を間近で見て以来、誰よりも彼を信頼している。
「傷口に当てる布は、こうして熱湯で煮てから干すんだ。そうしないと、目に見えない悪いものが傷から入り込む」
「目に見えない悪いものねえ。まあ、あんたがそう言うなら信じるけどさ。あの時だって、あんたの言う通りにしたら、死にかけてた人が助かったんだから」
お春は菜箸で布を引き上げ、手際よくざるに移していく。
「干す時は、風通しのいい日陰だ。土埃がかからないように気を付けてくれ」
「わかってるよ。あんたの言う『清潔』ってやつだろ?」
「ああ。次は糸だ。これも同じように煮てくれ」
「あいよ。糸まで煮るとは思わなかったけどね。これで縫い合わせるんだろ?」
息の合った連携だ。彼女の明るくチャキチャキした動きは、緊迫した現場でも頼りになる。
誠太郎は湯気を上げる布をざるごと受け取り、軒下へと運びながら、ふとある患者のことを思い出した。
先日、この診療所に運び込まれてきた大柄な浪士。
大量出血で誰もが匙を投げた中、あり合わせの布と棒で即席の止血帯を作り、命を繋いだ。
後に近藤勇と名乗ったあの男を救ったことで、自分が歴史の転換点に立っていることを痛感させられた。
あの時、もし処置が少しでも遅れていれば、歴史上の重要人物はあの場で命を落としていたはずだ。
歴史を変えるつもりはない。
だが、目の前で失われようとしている命を見過ごすことなど、できるはずがなかった。
患者が誰であろうと、どんな身分であろうと関係ない。
俺は救急救命士だ。すべての手段を尽くすまで、絶対に諦めない。
◆ーーーー◆
その日の夜。診療所の裏口が控えめに叩かれた。
戸を開けると、目深に手ぬぐいを被った辰吉が立っていた。
「旦那、頼まれてた品、揃えやしたぜ」
辰吉は土間に上がり込むと、背負っていた風呂敷包みを解いた。
中から出てきたのは、要求通りの鋭利な小刀、陶器の瓶に入った精製酒、そして獣の腸を加工したと思われる細い管だった。
「驚いたな。こんなに早く揃うとは」
誠太郎は小刀を手に取り、刃の角度を確かめる。
「見事な職人仕事だ。刃の厚みもちょうどいい。これならメスの代わりとして、より緻密な切開ができる」
「あっしを誰だと思ってんで。鍛冶屋の親父に、特別に打たせた代物でさぁ」
辰吉はニヤリと笑い、懐から煙管を取り出して指先で弄んだ。
「管の方も、獣の腸を洗って何度も鞣して管状にしたもんでさ。職人が首を傾げてやしたぜ」
「これでいい。弾力があって、折れ曲がらない」
誠太郎は管の感触を確かめながら頷いた。気道確保や排液に使えるかもしれない。
「それに、旦那の噂は裏の連中だけじゃねえんですよ」
「噂?」
「試衛館の連中……土方って男や沖田って若い剣客も、旦那の腕をえらく買ってるらしいじゃねえですか。神医、なんて呼ばれてるらしいですぜ」
「よしてくれ。俺はただの医者の弟子だ」
誠太郎は小刀を置き、精製酒の瓶の栓を抜いた。ツンとしたアルコールの匂いが鼻を突く。これなら十分な消毒ができる。
「謙遜しなさんな。最近は物騒でさぁ。抗争の怪我人も増えてるし、コロリの噂も聞こえ始めてる。旦那の腕を頼りにする奴は、これからもっと増えやすよ」
辰吉の言葉に、誠太郎は瓶の栓を戻して静かに頷いた。
江戸の街は、確実に動乱の足音を響かせている。
どんな患者が運び込まれてこようと、身分や所属で治療の優先順位を決めるつもりはない。
目の前の命を救う。救急救命士としての矜持を貫くだけだ。
「辰吉、助かった。これだけのものがあれば、もっとやれる」
「へへっ、そいつは楽しみだ。また入り用があったら、いつでも言ってくだせぇ」
辰吉が闇に紛れて帰っていくのを見送り、誠太郎は手に入れたばかりの道具を診療室の棚に並べた。
小刀は刃こぼれを防ぐため厚手の布で包み、酒の瓶と管はすぐに取り出せるよう棚の手前へ配置した。
江戸での医療活動の基盤が、少しずつ固まってきている。
確かな手応えが、胸の奥に熱を灯した。
この新しい器具は、次に誰の命を救うことになるのか。
誠太郎は棚の前に立ち、静かに夜明けを待った。




