第4話
松本良順は、誠太郎の施した止血帯の構造を、手帳へ克明にスケッチしていた。
やがて、松本良順は満足げに手帳を閉じると、誠太郎に向かって意味深な笑みを浮かべた。彼は何も言わず、ただ静かに夜の闇へと消えていった。
残されたのは、息を吹き返した患者とその仲間たち、そして呆然と立ち尽くす林宗庵だけだった。
誠太郎は血のついた手を水盆で洗いながら、深く息を吐き出した。良順が書き留めていた『T-O-U-R-N-I-Q-U-E-T』という文字列が脳裏をよぎるが、今は目の前の患者の容態を安定させることが最優先だった。
過労死という呆気ない最期を迎え、この幕末の江戸で目を覚ましてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
手のひらから伝わる肋骨の軋む感触。無機質な警告を発し続けるモニター。あの日の無念が、今も誠太郎の胸の奥にこびりついている。
現代の救急救命士「相良誠」としての記憶を持ったまま、蘭方医の弟子「誠太郎」として転生したあの日。現代の医療器具も薬も存在しない、未発達な医療環境に直面し、幾度となく絶望しかけた。
気休め程度の薬草と、不衛生な道具。感染症への無理解。そして何より、身分制度という理不尽な壁。武士の軽い風邪には高価な薬を処方し、大怪我を負った町人は見捨てる。そんな光景を目の当たりにするたび、前世で救えなかった命への強い後悔がフラッシュバックし、無力感に苛まれた。
それでも、誠太郎は新たな人生を歩み始めている。限られた道具を工夫し、目の前の命を繋ぎ止めるために。
「……相良」
背後から声をかけられ、誠太郎は振り返った。
宗庵が重い足取りで近づいてくる。神経質そうに眉間に寄っていた皺は消え、その表情にはどこか憑き物が落ちたような静けさがあった。
「私の負けだ。いや、最初から勝負にすらなっていなかったな」
宗庵は己の未熟さを恥じるように、深く頭を下げた。
「お前のその医術……素人のまぐれなどでは決してない。お前の手捌きには、迷いがない。まるで、人の体の構造を隅々まで知り尽くしているかのようだ。私には救えなかった命を、お前は確かに救ってみせた」
プライドが高く、伝統的な蘭方医学に固執していた宗庵が、素直に敗北を認めた瞬間だった。
「私は今まで、自分の知識が絶対だと信じ込み、どれだけの命を見捨ててきたのだろうか……」
自嘲気味に呟く宗庵に、誠太郎は静かに首を振った。
「宗庵先生の知識があったからこそ、助かった命もたくさんあるはずです。俺はただ、少しばかり血の流れる現場に慣れているだけですよ」
「慰めは無用だ。だが……これからは、お前のやり方を咎めはしない。この診療所で、存分に腕を振るうがいい。私がお前の立場を保証する」
誠太郎は驚きつつも、深く頷いた。少しずつだが、この時代における自分の居場所が形成されていく確かな手応えがあった。
◆ーーーー◆
数日が過ぎた。
誠太郎の噂は、江戸の町で密かに広まり始めていた。
特に、以前道場で大怪我を負った大柄な浪士の命を救ったことは、誠太郎にとって大きな転機だった。即席の止血帯という現代の救命技術を用いて救ったその男が、後の新選組局長となる近藤勇だと知ったとき、誠太郎は自分が歴史の転換点にいることに気づいた。
試衛館の面々からは絶大な信頼を寄せられ、「神医」という身に余る呼び名まで囁かれている。
だが、歴史がどう動こうと、誠太郎のやるべきことは変わらない。コレラが流行ろうと、抗争の負傷者が増えようと、ただ目の前の命を救う。それが、救急救命士としての確固たる矜持だった。
その日の夜。
診療所の裏手で、鈍い物音が響いた。
誠太郎が裏口の戸を開けると、血の匂いが夜風に乗って鼻を突いた。
目深に被った手ぬぐい。猫背の男が、腹部を押さえてうずくまっている。
「……助け、てくれ……」
男は呻き声を上げ、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
騒ぎを聞きつけて奥から出てきた宗庵が、行灯の光で男の顔を照らし、息を呑む。
「こ、こいつは……裏の顔役の辰吉ではないか!」
「辰吉?」
「関わるな相良! こいつは抗争の絶えない裏社会の人間だ。巻き添えを食うぞ!」
宗庵は怯えたように後ずさる。
だが、誠太郎はすでに辰吉の体を仰向けにし、傷口の確認に入っていた。
右脇腹に深い刺し傷。黒みがかった静脈血ではなく、鮮やかな赤い動脈血が溢れ出ている。腹壁動脈からの出血だ。顔面は蒼白で、脈も弱く速い。出血性ショックの初期症状が出始めている。
「宗庵先生、焼酎と煮沸した糸を! それから清潔な布をありったけ!」
「だ、だからこいつは裏の人間で……」
「患者の身分や所属なんて関係ない! 目の前に死にかけている人間がいるんだ!」
誠太郎の鋭い声に、宗庵は弾かれたように準備に走った。改心したとはいえ、まだ身分や素性への偏見は抜けきっていない。だが、今は議論している暇はなかった。
誠太郎は辰吉の傷口を布で強く圧迫し、止血を試みる。
(諦めるのはすべての手段を尽くした後だけだ)
指先から伝わる微かな脈動。命の灯火が消えかかっている。
その瞬間、誠太郎の耳の奥で、チクタクという規則正しい秒針の音が鳴り響いた。
懐に入れた、ガラスの割れた古い懐中時計。針は動いていないはずなのに、緊迫した現場でだけ、誠太郎にしか聞こえない幻聴が響く。
時間が、極限まで引き延ばされていく感覚。
宗庵が震える手で持ってきた焼酎を傷口にかけ、消毒する。激痛に辰吉の体が大きく跳ねた。
「あっしは……もう、駄目か……」
意識が混濁する中、辰吉がうわ言のように呟く。
「喋るな。あんたは俺が絶対に死なせない」
誠太郎は冷静に、だが力強く答えた。
「宗庵先生、そこを押さえていてくれ!」
「わ、わかった!」
かつては誠太郎を素人と見下していた宗庵が、今は必死に誠太郎の指示に従っている。
煮沸した木綿糸を使い、手早く血管を結紮していく。現代の無影灯も、精巧な持針器もない。薄暗い行灯の光だけを頼りに、誠太郎は己の指先の感覚と反射神経のすべてを注ぎ込んだ。
額から流れ落ちた汗が目に入るが、拭う余裕はない。ただひたすらに、破れた血管を繋ぎ、傷口を縫い合わせていく。
◆ーーーー◆
二時間後。
縫合を終え、辰吉の呼吸は安定していた。
夜明け前、辰吉がゆっくりと目を開ける。
「……ここは」
「俺の勤めている診療所だ。あんた、運が良かったな」
誠太郎は襷掛けにした袖を解きながら言った。
辰吉は自分の腹部に巻かれた清潔な布を見て、目を丸くする。
「旦那が、あっしを助けてくれたんで?」
「俺はただの医者の弟子だ。治療費はきっちりもらうからな」
辰吉は飄々とした笑みを浮かべようとして、痛みに顔をしかめた。
「へへっ……裏の人間と知ってて助けるとは、旦那も相当な物好きでさぁ」
「医者が患者を選ぶかよ」
辰吉は誠太郎の顔をじっと見つめ、深く息を吐いた。
「旦那の目は、ただの医者の目じゃねえ。命ってやつに、ひどく執着してる目だ」
「……」
「恩に着やす、旦那。あっしは辰吉。この界隈じゃ、ちょっとは顔が利く男でさ」
辰吉は懐を探り、何かを取り出そうとしたが、やめた。代わりに、抜け目のない商人のような目を向けてくる。
「治療費の代わりと言っちゃなんですが……必要なものがあれば、何でも言ってくだせぇ。あっしの伝手を使えば、大抵のものは手に入りやすぜ。薬草でも、珍しい道具でも、旦那が望むなら地の果てからでも引っ張ってきやすよ」
誠太郎は辰吉の言葉に、少しだけ目を細めた。
現代の医療器具がないこの時代で、裏社会の調達屋のパイプ。
それは、誠太郎の医療をさらに前進させる、新たな可能性の提示だった。




