第3話
良順の瞳の奥底で渦巻く、医学への狂気的なまでの情熱が、誠太郎の素性を丸裸にしようとしていた。
ただ目の前の命を救いたかっただけだ。それなのに、この男の介入は、俺をどこへ引きずり込もうとしているのか。
懐の奥で、止まっているはずの時計が、再びチクタクと不穏な音を立てて鳴り始めたような気がした。
「答えなさい、相良君。君はどこで、その神業とも呼べる技術を身につけたのかね?」
良順が一歩踏み出し、逃げ道を塞ぐように立ちはだかったその時だった。
「何事だ、この騒ぎは!」
診療所の奥から、荒々しい足音と共に怒声が響いた。
血相を変えて飛び込んできたのは、この診療所の主である林宗庵だった。彼は神経質そうに眉間に皺を寄せた痩せ型の男で、江戸でもそれなりに名の知れた蘭方医である。
宗庵は、血に染まった床と、誠太郎が処置を終えたばかりの剣客、そして散乱する焼酎の瓶や煮沸用の鍋を見て、顔を真っ赤に染め上げた。
「貴様……私の留守に、勝手に何という真似を!」
宗庵は誠太郎に歩み寄ると、その胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
「酒を傷口に注ぐなど、正気の沙汰ではない! 素人が見よう見まねで、神聖なる医術を穢す気か!」
「……傷口を清潔に保つための処置です。これをしなければ、後から熱を出して命を落とす危険があった」
誠太郎は静かに答えた。現代の医療知識からすれば、消毒は基本中の基本だ。だが、宗庵は聞く耳を持たなかった。
「口答えをするな! 貴様のような丁稚のまぐれ当たりなど、医術への冒涜に他ならん!」
激しい叱責を浴びながら、誠太郎は唇を噛み締めた。
現代の医療器具も、抗生物質もない。限られた環境の中で、あり合わせの道具を使って最善を尽くしたつもりだった。だが、この時代の権威にとって、それはただの異端でしかないのだ。
「江戸で蘭方医として看板を掲げる私の顔に泥を塗る気か! そもそも、貴様のような素性の知れぬ丁稚が、医術の真似事など片腹痛い!」
誠太郎は反論を飲み込んだ。ここで現代の医学理論を説いたところで、狂人扱いされるだけだ。
身分制度の壁と、旧態依然とした知識への固執。
どれほど目の前の命を救おうと足掻いても、この厚い壁を打ち破ることはできないのか。深い無力感が、誠太郎の胸の奥に澱のように溜まっていった。
良順はそんな二人のやり取りを、口元に微かな笑みを浮かべながら興味深そうに傍観していた。彼は誠太郎を庇うでもなく、ただその反応を観察しているようだった。
◆ーーーー◆
それから数日後。
誠太郎の行った型破りな処置は、先日の剣客が所属する道場の者たちの間で、密かな噂となっていた。
「あの診療所には、どんな傷でも治してしまう凄腕の若者がいるらしい」
道場の者たちの間で広まったその噂は、誠太郎にとって決して歓迎すべきものではなかった。目立てば目立つほど、歴史の表舞台に引きずり出される危険が高まるからだ。
しかし、怪我人は待ってくれない。
その日の午後も、診療所の静寂は唐突に破られた。
「頼む、先生! 助けてやってくれ!」
激しく戸を叩く音と共に、数人の男たちが血相を変えて飛び込んできた。彼らが担いでいたのは、まだ十代半ばと思われる若い剣士だった。
市中での抗争に巻き込まれたのか、腹部を深く斬られており、着物は赤黒い血でべっとりと染まっている。床に滴り落ちる血の量が、事態の深刻さを物語っていた。
「おい、丁稚! 貴様は下がっておれ!」
宗庵が意地になったように前に出た。先日の騒ぎ以来、彼は誠太郎を露骨に遠ざけ、自分の権威を示そうと躍起になっていた。
「私が診る。……ひ、ひどい出血だ」
宗庵は傷口を見るなり、顔面を蒼白にさせた。
脈打つように溢れ出す鮮血。動脈を傷つけているのは明らかだった。患者の顔からは急速に血の気が引き、唇は紫色に変色し始めている。
「早く、薬草をすり潰したものを持て! 布を重ねて押さえるのだ!」
宗庵は震える手で傷口に薬草を押し当てようとするが、血の勢いに流されるだけで、全く止血の役に立たない。
「だ、駄目だ……血が止まらん。これほど深く斬られていては、もう助からん。手遅れだ……」
宗庵は完全にパニックに陥り、血まみれの手を震わせながら後ずさった。彼の古い知識では、この大量出血を止める術はなかった。
「そんな……先生、なんとかしてくだせえ! まだ若いんだ!」
男たちがすがりつくが、宗庵は首を横に振るばかりだった。
誠太郎は、その光景を部屋の隅から見つめていた。
自分が前に出れば、また宗庵の逆鱗に触れる。それに、これ以上目立つ真似をすれば、歴史のうねりに巻き込まれてしまうかもしれない。目立たず、静かにやり過ごすのが一番安全なはずだ。
だが——。
『どうせ助からない命だったんだ』
不意に、前世で救えなかった患者の遺族の言葉が脳裏に蘇った。
諦めの言葉。見殺しにすることへの言い訳。
青ざめた若い剣士の唇から、微かな呻き声が漏れた。
現代の医療器具があれば、確実に助けられる命だ。それを、この時代の技術的限界のせいにして見殺しにするのか。
患者の身分や所属で治療の優先順位を決めない。諦めるのはすべての手段を尽くした後だけだ。
それが、救急救命士としての俺の矜持ではなかったか。
胃の奥が冷たくなるような恐怖をねじ伏せ、誠太郎は一歩を踏み出した。
◆ーーーー◆
「……どいてくれ」
誠太郎は静かに、だが有無を言わさぬ声で告げると、へたり込んでいる宗庵の脇をすり抜けて患者のそばに膝をついた。
「き、貴様、また勝手な真似を……!」
「あんたじゃ無理だ。黙って見ててくれ」
誠太郎の冷たく鋭い気迫に圧倒され、宗庵は言葉を失った。
「お前ら、患者の腕と足を押さえてろ! 絶対に動かすなよ!」
誠太郎は周囲の男たちに的確な指示を飛ばすと、あらかじめ煮沸しておいた木綿糸と、清潔な布を手にした。
「今から傷口の中を探る。少し痛むが我慢しろよ」
出血点を素早く見極め、迷いのない手つきで血管を縛り上げていく。
その動きには、一切の無駄がなかった。指先は血に染まりながらも、正確に命の綱を繋ぎ止めていく。
「……見事だ」
ふと、背後から静かな感嘆の声が漏れた。
声の主は、いつの間にか診療所に足を踏み入れていた松本良順だった。
良順の瞳には、先日のような追及の色はない。ただ、目の前で繰り広げられる未知の医療技術を、一瞬たりとも見逃すまいとする探求者の熱が宿っていた。
誠太郎は良順の存在に気づきながらも、手を止めることはなかった。
今はただ、目の前の命を繋ぎ止めることだけがすべてだ。
やがて出血が完全に止まり、患者の呼吸が落ち着きを取り戻したのを確認して、誠太郎は深く息を吐き出した。
「……終わった。あとは安静にしていれば、命に別状はない」
「ありがとうございます、先生! 本当に、なんとお礼を言ったら……!」
男の一人が床に額を擦りつけるようにして泣き崩れ、他の者たちも次々と誠太郎の足元に平伏した。
その喧騒の中で、誠太郎はふと良順の方へ視線を向けた。
良順は壁際に寄りかかり、懐から取り出した小さな手帳に羽ペンを走らせていた。
誠太郎の処置の手順を記録しているのだろうか。
だが、誠太郎の目に映ったその手帳の紙面には、奇妙な文字列が並んでいた。
蘭学で用いられるオランダ語の筆記体ではない。
『T-O-U-R-N-I-Q-U-E-T』
それは、この時代の日本に存在するはずのない、異国の言葉のようだった。
なぜ、幕府の奥医師である良順が、あのような文字を書いているのか。
良順は手帳から顔を上げると、誠太郎に向かって意味深な笑みを浮かべた。
底知れぬ探求心を持つ男のペン先が、紙の上を滑る微かな音が、診療所の静寂の中に不穏に響き続けていた。




