第2話
「おい、何をぼやっとしている!」
誠太郎は自らを叱咤するように叫んだ。止血帯はあくまで一時しのぎだ。長時間このままにしておけば、血流が途絶えた手足が壊死してしまう。一刻も早く、切れた血管を直接縛って止血し、傷口を塞がなければならない。
だが、ここは現代の救命救急センターではない。煌々と照らす無影灯も、電気メスも、滅菌された縫合糸も、抗生剤もない。あるのは薄暗い行灯の光と、埃っぽい畳の匂いだけだ。
腰を抜かして震える宗庵や、血の海を前に青ざめて立ち尽くす付き添いの男たちから次々と視線を外す。
「そこのあんた!」
誠太郎の視線が、部屋の隅で立ち尽くしていた小柄な少女を捉えた。診療所の賄い仕事をしている、お春だ。普段は明るくチャキチャキとした江戸っ子娘だが、今は目の前の惨状に目を丸くし、たすき掛けにした袖を固く握りしめている。
「あ、あたしかい!?」
「そうだ。強い酒、焼酎はあるか! それから木綿の糸と針を、熱湯でぐらぐらに煮立てて持ってこい! 急げ!」
矢継ぎ早の指示に、お春は目を白黒させた。
「酒ぇ!? 傷口にぶっかける気かい!? それに糸を煮るって、あんた正気……」
「いいから早くしろ! この男が死んでもいいのか!」
誠太郎の怒鳴り声に、お春はビクッと肩を揺らした。普段の温厚で控えめな丁稚からは想像もつかない、圧倒的な気迫。そのただならぬ空気に当てられたのか、彼女は「わ、わかったよ! すぐ持ってくる!」と叫び、台所へと駆け出していった。
待っている間にも、患者の顔色は蒼白になり、呼吸が浅くなっている。
誠太郎は男の頸動脈に指を当てた。速く、弱い。出血性ショックが進行している証拠だ。
「しっかりしろ。あんた、まだ死ぬような歳じゃないだろう」
声をかけながら、誠太郎は傷口を観察した。深くえぐられた裂傷。太い血管が断裂し、拍動に合わせて血が湧き出しているのが見える。現代の医療器具や薬品があれば確実に助けられる。だが、この幕末の技術的限界のせいで見殺しにするなど、絶対に許されない。
「持ってきたよ! 焼酎と、煮え湯から引き上げたばかりの糸と針だ!」
お春が息を切らして戻ってきた。盆の上には、湯気を立てる茶碗と、徳利が乗っている。
「助かる。お春さん、あんたは俺の向かい側に回って、傷口が開くように布で押さえてくれ」
「ええっ、あたしが!? 医者でもないのに、そんな恐ろしいこと……」
「いいから! 俺の指示通りに動けばいい。あんたならできる」
文句を言いながらも、お春は素早く誠太郎の向かいに座り、血まみれの布を掴んだ。その手は微かに震えていたが、逃げ出そうとはしなかった。
「よし。少し痛むぞ」
誠太郎は徳利を傾け、傷口に直接焼酎を注ぎ込んだ。
「ぐおおおおっ!」
アルコールの強烈な刺激に、男が身をよじって絶叫する。付き添いの男たちが慌てて体を押さえつけた。
消毒の概念が乏しいこの時代、傷口から入る菌は死に直結する。気休めかもしれないが、やらないよりはマシだ。
誠太郎は煮沸した木綿糸を針に通した。手先は荒れているが、その動きに迷いはない。前世で何度も繰り返した、体に染み付いた動作だ。
「お春さん、そこをもっと広げてくれ。……よし、見えた」
血の海の中から、断裂した血管の端をピンセット代わりの竹箸でつまみ出す。そこに糸を回し、確実に結紮する。一つ、また一つ。出血源を次々と潰していく。
「なんだい、その手つき……」
お春が息を呑む音が聞こえた。
「あんた、ただの丁稚じゃないのかい……?」
誠太郎は答えない。視界にあるのは、縫合すべき組織だけだ。
血管の処置を終えると、次は筋肉と皮膚の縫合に移る。等間隔で針を進め、傷口を寄せていく。現代のナイロン糸とは違い、木綿糸は滑りが悪く扱いにくい。それでも、誠太郎は限られた道具の性質を見極め、最適な力加減で結び目を作っていった。
やがて、最後の結び目を切り落とす。
「……終わった」
誠太郎は大きく息を吐き出し、額の汗を腕で拭った。
止血帯として使っていた手ぬぐいと扇子を慎重に緩める。新たな出血はない。脈拍も、先ほどより力強さを取り戻していた。
「嘘だろ……血が、止まっちまった」
付き添いの男が、信じられないものを見るような目で呟いた。
腰を抜かしていた宗庵も、這うようにして近づき、縫合された傷跡を見て絶句している。
「お春さん、よくやってくれた。あんたのおかげだ」
誠太郎が声をかけると、お春はへなへなとその場に座り込んだ。
「心臓が縮み上がるかと思ったよ……。あんた、本当に何者なんだい?」
その時、寝台の上で男が小さく呻いた。
「……う……」
「気がついたか。無理に動くな、傷が開くぞ」
誠太郎が覗き込むと、男はゆっくりと目を開け、焦点の合わない視線をさまよわせた後、誠太郎の顔を捉えた。
「……助けて、いただいたのか……」
かすれた声だったが、確かな意志の力が宿っていた。
「ああ。だが、まだ油断はできない。しばらくは絶対安静だ」
「かたじけない……。この御恩は、生涯忘れぬ」
男は僅かに首を動かし、誠太郎を見据えた。
「拙者、天然理心流……近藤勇と申す。先生の、お名前は……?」
その名を聞いた瞬間、誠太郎の心臓が大きく跳ねた。
近藤、勇。
幕末の動乱を駆け抜け、後に新選組局長として歴史に名を刻む男。
まさか、自分が助けたこの大柄な浪士が、あの近藤勇だというのか。
「俺は……相良、誠太郎だ」
無意識のうちに、前世の名を名乗っていた。
自分が歴史の転換点に立ち、あろうことかその中心人物の命を救ってしまった。その事実に、背筋に冷たいものが走る。
◆ーーーー◆
静寂が戻った診療所に、突然、パンパンと手を叩く乾いた音が響いた。
「いやはや、驚いた。まさかこんな場末の診療所で、これほどの神業を拝めるとはな」
入り口の土間に、一人の男が立っていた。
身なりの良い着物を着流し、威厳のある顔つきをしている。だが、その瞳には、新しい知識に対する貪欲な探求心がギラギラと燃えていた。
「松本、先生……!」
宗庵が弾かれたように立ち上がり、床に額を擦りつけるようにして平伏した。
幕府の奥医師であり、蘭方医学の第一人者、松本良順。
誠太郎も、その名は師匠の口から何度か聞いたことがあった。
良順は平伏する宗庵には目もくれず、真っ直ぐに寝台へと歩み寄った。着物の裾が汚れることも厭わず、近藤の傷口に施された縫合の跡を、食い入るように見つめる。
「見事だ。傷口の洗浄に強い酒を用い、糸を煮沸して穢れを払う。理にかなっている。だが、それ以上に……この縫合の手際。血管を直接縛り上げるなど、異国の書物で読んだことはあるが、これほど完璧に実践できる者がこの日本にいるとは」
良順はゆっくりと顔を上げ、誠太郎を射抜くような視線で見据えた。
「君がやったのかね?」
「……俺は、ただの丁稚です。見よう見まねで、無我夢中でやっただけで……」
誠太郎は視線を逸らし、ごまかそうとした。目立ってはいけない。歴史を変えるつもりなどないのだ。
だが、良順はふっと口角を上げ、誠太郎の血まみれの手を指差した。
「見よう見まねで、そのように迷いのない結び目ができるはずがない。お前さん、どこでその術を学んだ?」
良順の一歩が、ひどく重圧を伴って誠太郎に迫る。
「私に嘘は通じないよ、相良君。君のその手は、数え切れないほどの命を救ってきた者の手だ」
逃げ場のない問いかけ。
良順の瞳の奥底で渦巻く、医学への狂気的なまでの情熱が、誠太郎の素性を丸裸にしようとしていた。
ただ目の前の命を救いたかっただけだ。それなのに、この男の介入は、俺をどこへ引きずり込もうとしているのか。
懐の奥で、止まっているはずの時計が、再びチクタクと不穏な音を立てて鳴り始めたような気がした。




