第1話
救急車の激しい揺れと、耳をつんざくサイレンの音。夜の街を切り裂くように走る車内には、赤色灯の光が規則正しく差し込んでは消えていく。
相良誠は、ストレッチャーの上に横たわる初老の男性の胸に両手を重ね、絶え間なく心臓マッサージを続けていた。
手のひらから伝わる肋骨の軋む感触。額から流れ落ちた汗が目に入り、視界を滲ませる。車内に響くモニターの電子音は、一定の間隔で無機質な警告を発し続けている。
「相良、代わろう。お前、もう三十六時間ぶっ通しだぞ」
同乗している若い隊員の声が、ひどく遠くに聞こえる。だが、誠は首を横に振って手を止めなかった。
ここで圧迫を緩めれば、脳への血流が途絶える。この命が、完全に消えてしまう。
しかし、モニターが示す波形は、無情にも平坦な線をなぞるばかりだった。
「くそっ……戻ってこい!」
祈るような思いで体重をかけ続けるうち、救急車が急停車して後部ドアが勢いよく開けられた。
病院の救命救急センターに到着し、ストレッチャーを押し込みながら医師に引き継ぐ。その後、待合室の隅で結果を待った。
十分後、告げられたのは蘇生ならずという宣告だった。
冷たいベンチに崩れ落ちるように座り込む。ポケットの中を探ると、指先が冷たい金属に触れた。
文字盤のガラスがひび割れ、針が止まったままの古い懐中時計。かつて現場で救えなかった患者の遺族から、なぜか託されたものだった。
『お前がもっと早く来ていれば!』
遺族の悲痛な叫びが、今も耳の奥にこびりついている。
立ち上がろうと床に手をついた瞬間、強烈な目眩に襲われた。
視界が急速に暗転していく。胸の奥を鷲掴みにされたような、息もできないほどの激痛。
冷たいリノリウムの床に倒れ込みながら、誠はただ無念だけを噛み締めていた。
どれだけ技術を磨いても、届かない命がある。また、救えなかった。
自分の命が尽きることへの恐怖よりも、その事実だけが重くのしかかっていた。
◆ーーーー◆
「……おい。いつまで寝ているつもりだ、貴様」
冷ややかな声と、脇腹を小突く鈍い痛みで意識が浮上した。
目を開けると、煤けた木の天井が視界に入る。アルコールや消毒液の匂いはない。代わりに、カビと埃、それに独特の薬草の青臭い匂いが鼻を突いた。
「申し訳ありません、宗庵先生」
口から勝手に出た言葉に、自分自身が一番驚いた。
起き上がると、そこは時代劇でしか見たことのないような古い日本家屋の一室だった。
目の前に立っているのは、神経質そうに眉間に皺を寄せた痩せ型の男。林宗庵。
なぜか、その名前と顔が頭にすんなりと浮かんでくる。
「丁稚の分際で白昼堂々居眠りとはな。身分が低い者は、これだから困る。さっさと庭の薬草を干しておけ」
宗庵は吐き捨てるように言い、足早に去っていった。
誠は自分の手を見下ろした。荒れ果てた、見知らぬ若い男の手。
襷掛けにされた粗末な着物の袖を引くと、見知らぬはずのその感触に、なぜか妙な馴染みがあった。
相良誠としての記憶はある。だが同時に、「誠太郎」という蘭方医の弟子としての記憶も混在していた。
どうやら、死んだはずの自分は幕末の江戸に転生してしまったらしい。
外からは、見慣れぬ着物姿の人々が行き交う足音や、物売りの声が聞こえてくる。
庭に出て、ざるに広げられた薬草を裏返す。乾燥した葉が擦れ合うカサカサという音が、虚しく響く。
現代の救急救命士としての知識と経験。それが今の自分にはある。しかし、ここには除細動器も、気管挿管の道具も、アドレナリンの注射もない。
あるのは、すり鉢と薬研、そして気休め程度の薬草だけだ。
ふと懐を探ると、硬い感触があった。
取り出してみると、それはガラスの割れた古い懐中時計だった。
現代で倒れた時にポケットに入っていたものと全く同じだ。針はやはり、動いていない。
「……なんで、こんなものまで」
ため息をつき、時計を懐に戻す。
数日が経ち、誠太郎はこの時代の医療の現実を嫌というほど思い知らされていた。
宗庵は蘭方医としてそれなりの名声を得ているようだが、その治療法は現代から見ればあまりにも原始的だった。
感染症の概念は乏しく、外科的な処置も不十分。
何より、身分制度の壁が厚い。
先日も、軽い風邪を引いた武士が訪れた際には、宗庵は揉み手をして奥の座敷へ通し、高価な薬を処方した。
しかしその直後、荷車の下敷きになって腕の骨を折った町人が運び込まれてきたとき、宗庵は「忙しい」と一蹴し、ろくな処置もせずに追い返したのだ。
患者の身分や所属で治療の優先順位を決めない。
それが救命士としての誠の信条だった。だが、この時代でそれを主張すれば、ただの狂人扱いされるだけだ。
無力感に苛まれながら、誠太郎はただ黙々と下働きをこなすしかなかった。
その日の午後、診療所の静寂は唐突に破られた。
「頼む! 先生、助けてくれ!」
激しい戸を叩く音と共に、数人の男たちが転がり込んできた。
彼らが担いでいた戸板の上には、大柄な男が横たわっていた。
道着は赤黒く染まり、床にボタボタと血の滴が落ちる。鉄の錆びたような血の匂いが、一気に室内に充満した。
「なんだ、この騒ぎは」
奥から宗庵が顔を出した。その表情が、血まみれの男を見て引きつる。
「道場の稽古中に、真剣を持った暴漢に襲われたんだ! 先生、どうかこいつを!」
男の一人が必死にすがりつく。
誠太郎は反射的に患者のそばに駆け寄っていた。
大柄な男は、苦悶の表情を浮かべながらも、その眼光には凄みが宿っていた。
右の大腿部。深い裂傷。動脈をいっている可能性が高い。
顔面は蒼白で、呼吸は浅く速い。出血性ショックの初期症状だ。
「どけ、素人が」
宗庵が誠太郎を突き飛ばし、患者の傷口を覗き込んだ。
脈を診て、傷の深さを確認した宗庵の顔に、明らかな諦めの色が浮かんだ。
「……駄目だ。これほどの出血では、もはや手の施しようがない」
「そんな! 先生、金ならいくらでも払う! だから……!」
「金の問題ではない! 医者の私がないと言っているのだ。さっさと連れて帰れ。ここで死なれては迷惑だ」
冷酷な宣告。
周囲の男たちが絶望に顔を歪める。
誠太郎の脳裏に、現代で救えなかった患者の顔がフラッシュバックした。
『医者のくせに見殺しにするのか!』
遺族の悲痛な声が、耳の奥で反響する。
幕末の技術的限界。道具がない。薬がない。
だから、見殺しにするしかないのか。
諦めるのは、すべての手段を尽くした後だけだ。
その時だった。
――チクタク、チクタク。
耳元で、規則正しい音が響いた。
誠太郎はハッとして周囲を見回す。誰も時計など持っていない。
音の出所は、自分の懐だった。
動くはずのない、壊れた懐中時計。
それが今、確かに時を刻む音を立てている。
幻聴か?
戸惑う誠太郎の身体が、思考よりも先に動いた。
「あんた、そこをどけ!」
誠太郎は宗庵の肩を掴み、強引に引き剥がした。
「なっ……貴様、何を血迷って!」
宗庵の怒鳴り声を無視し、誠太郎は患者の右脚を両手で強く圧迫した。
「手ぬぐいを持ってる奴はいないか! なるべく清潔なやつだ! それと、丈夫な短い棒か扇子を貸してくれ!」
男たちは、普段は下働きをしているはずの丁稚が放つ、異様な気迫に圧倒されて動けずにいた。
「早くしろ! 死なせたいのか!」
誠太郎の鋭い一喝に、一人の男が慌てて懐から手ぬぐいと扇子を取り出し、差し出した。
受け取った手ぬぐいを傷口の少し上、心臓に近い位置に固く巻きつける。
その結び目の下に扇子を差し込み、ギリギリと回転させて縛り上げた。
扇子を回転させ、布を締め上げる。皮膚が食い込み、血流が遮断される感覚を指先で確かめる。
即席の止血帯だ。
「うおおおっ……!」
激痛に患者がうめき声を上げる。
「我慢しろ。ここで死ぬよりマシだろう」
出血の勢いが、目に見えて弱まっていく。
「な……貴様、いったい何をしている……?」
宗庵が震える声で呟いた。
誠太郎自身も、自分の行動に戸惑っていた。
なぜ、こんな無謀な真似をしているのか。
現代の器具も、輸血用の血液もないこの場所で、止血したところでその先どうするつもりなのか。
懐からは、依然としてチクタクという幻聴が鳴り続けている。
まるで、止まっていた時間が再び動き出したかのように。
血に染まった手を見つめながら、誠太郎はただ荒い息を吐いていた。




