第10話
表の戸を勢いよく開け放つと、そこには血まみれの町人が倒れ込んでいた。
「助け……て……」
刃物で斬られたらしい。右太腿からどくどくと鮮血が溢れ出し、土間を赤く染めていく。
「お春、煮沸した布と精製酒だ! 急げ!」
「わかってるよ! ほら、あんたはそこをどきな!」
お春は野次馬を押し退けながら、湯気を立てる木綿布を抱えて駆け寄ってきた。江戸にいた頃よりもずっと動きが洗練されている。俺の無茶な要求にも、今では文句一つ言わずに的確な物を差し出してくる。
俺は患者の傷口の上部を布で強く縛り上げ、即席の止血帯として機能させた。出血の勢いが弱まったのを確認し、精製酒を浴びせて患部を洗い流す。
「痛ぇっ! ぎゃああっ!」
「動くな。すぐに縫う」
針と煮沸した糸を受け取り、迷いなく皮膚を縫い合わせていく。男が暴れないようお春に押さえさせ、一気に傷口を塞いだ。
処置を終え、患者の顔に血の気が戻るのを見届けると、俺は深く息を吐き出した。
数日が経ち、京での小さな診療所は早くも町民たちの間で噂になり始めていた。
大通りから離れた不便な場所にもかかわらず、怪我人や急病人が次々と戸を叩く。お春がテキパキと患者を捌き、俺が処置に当たる。その連携は、すでに一つの完成された流れになっていた。
ふと、手を洗う水盆の水面に映る自分の顔を見つめる。
過酷な労働の末に心臓が止まり、この幕末の世で目を覚ました日のことを思い出した。現代の高度な医療器具も、特効薬も、清潔な手術室もない。未発達な医療環境に放り込まれ、最初は絶望と戸惑いしかなかった。
だが今は違う。あり合わせの道具でも、工夫次第でやれることはある。新たな人生の歯車が、この京の地で力強く回り始めているのを感じていた。
その日の午後、診療所の戸が控えめに開いた。
「ごめんください。こちらに、江戸から腕利きの医者が来たと聞いて」
現れたのは、人懐っこい笑みを浮かべた若い男だった。身なりは質素だが、腰には立派な刀を差している。
「怪我ですか」
「ええ、稽古で少ししくじりましてね。良順先生から、京ならここへ行けと紹介状を預かってきました」
男が差し出した書状には、確かに見覚えのある流麗な筆跡が並んでいた。あの探求心に溢れる蘭方医は、遠く離れた京でも俺の存在を気にかけてくれているらしい。
「見せてください」
男が袖をまくると、前腕に鋭利な刃物で切られたような裂傷があった。浅いが、放置すれば化膿する恐れがある。
「縫った方が治りが早い。少し痛みますよ」
「構いません。お願いします」
俺は精製酒を含ませた布で傷口を拭い、手早く縫合の準備を整えた。男は痛がる素振りも見せず、興味深そうに俺の手元を見つめている。
「手際がいいですね。まるで、うちの局長を助けてくれた時の話みたいだ」
縫い針を進めていた手が、ピタリと止まった。
「……局長?」
「ええ。近藤勇と言います。私は沖田。沖田総司です」
背筋に冷たいものが走った。
かつて江戸の道場で、大量出血した大柄な男が運び込まれてきた日の記憶が鮮明に蘇る。あの時、俺は棒と布切れで作った止血帯で彼の命を救った。後になってその男が近藤勇だと知り、自分が歴史の巨大な転換点に立っているのだと思い知らされた。
そして今、新選組の天才剣士として名を馳せることになる男が、目の前で無邪気に笑っている。
「あの時の神業は、試衛館でもずっと語り草になってるんですよ。土方さんも、あんたのことは高く評価していました」
「……俺はただ、目の前の怪我人を手当てしただけです」
動揺を悟られないよう、努めて平坦な声で返し、縫合を再開する。歴史上の偉人を前にしているという緊張感が、指先をわずかに強張らせた。
処置も終盤に差し掛かった時だった。
「コンッ……コホッ」
沖田がふと口元を押さえ、小さく咳き込んだ。
「風邪ですか?」
「ん? ああ、最近少し喉の調子が悪くて。気にするほどじゃありませんよ」
沖田はあっけらかんと笑う。
乾いた、しかし肺の奥深くから響くような特有の擦過音。
俺は縫合を終え、糸を切りながら沖田の顔をさりげなく観察した。微熱を帯びたような頬の不自然な赤み。呼吸のたびに、鎖骨の上のくぼみがわずかに深く沈む。頸部のリンパ節にも、わずかな腫れが見て取れた。
脳裏に、現代の医学知識がフラッシュバックする。
結核。この時代では労咳と呼ばれ、不治の病として恐れられている感染症。その初期症状と、目の前の男の所見が恐ろしいほどに一致していた。
「沖田さん。その咳、いつ頃から出始めましたか」
「一月ほど前ですかね。夜になると少し息苦しい時もありますが、剣を振るうのには何の支障もありません」
間違いない。病魔はすでに、この若き天才の肺を蝕み始めている。
心臓が早鐘のように打ち始めた。
俺は切り取った糸を握りしめたまま、声もなく立ち尽くした。
歴史を変える恐怖が、重い鉛のように胃の奥にのしかかる。
だが、かつて江戸でコレラに苦しむ人々や、抗争で傷ついた者たちを前にした時の記憶が、俺の背中を強く叩いた。
患者の身分や所属、そして歴史的な役割など関係ない。目の前で失われようとしている命があるなら、やれることを全てやり尽くすまで絶対に投げ出さない。それが、俺がこの時代で貫くと決めた救急救命士としての確固たる矜持だったはずだ。
かつて手のひらから零れ落ちた命に対する後悔を、二度と繰り返さないために。
「沖田さん」
俺は真剣な眼差しで、彼を真っ直ぐに見据えた。
「傷の具合を見るために、三日後にもう一度ここへ来てください。それと……その咳のことも、少し詳しく調べさせてほしい」
沖田はきょとんとした顔をした後、ふっと柔らかく微笑んだ。
「医者というのは、皆そうやって心配性なんですかね。わかりました、また寄らせてもらいます」
立ち上がった沖田は、腰の刀を軽く押さえ直し、表の戸へ向かって歩き出す。
「ありがとうございました。あんたが京に来てくれて、心強いですよ」
軽やかな足取りで去っていくその背中を見つめながら、俺はその場から動けずにいた。
腕の傷の治療という小さな前進は得られた。だが、彼の肺に巣食う病魔に対して、今の俺に何ができるのか。
歴史の巨大な重圧と、目の前の命を救いたいという本能。
その狭間で立ち尽くす俺の懐で、壊れたはずの時計が、チクタクと幻聴のような音を刻み続けていた。




