第11話
沖田の背中が表通りの喧騒に紛れて見えなくなった後も、俺はしばらくその場から動けずにいた。
腕の傷の治療という小さな前進は得られた。だが、彼の肺に巣食う病魔に対して、今の俺に何ができるのか。
歴史の巨大な重圧と、目の前の命を救いたいという本能。その狭間で立ち尽くす俺の懐で、壊れたはずの時計が、チクタクと幻聴のような音を刻み続けていた。
「先生、どうかしましたか? さっきのお侍さん、えらくご機嫌で帰っていきましたけど」
診療所の土間へ戻ると、お春が血のついた布をたらいで洗いながら、不思議そうな顔を向けてきた。彼女の明るい声が、俺を現実へと引き戻す。
「いや……なんでもない。少し疲れただけだ」
俺は手元の薬研に視線を落とし、ゴリゴリと薬草を挽き始めた。
結核——この時代では労咳と呼ばれる死の病。現代であれば、複数の抗結核薬を長期間投与することで確実に治癒が見込める。だが、ここは幕末の京だ。抗生物質はおろか、まともな顕微鏡すら存在しない世界で、肺を蝕む菌を死滅させる手段はない。
俺にできるのは、栄養価の高い食事を摂らせ、十分な休養を取るよう指導することくらいだ。自己免疫力を高め、病の進行を遅らせる。それしか道はない。
だが、あの新選組の剣士が大人しく休むとは思えない。動乱の最前線に立つ彼にとって、剣を置くことは己の存在意義を捨てることに等しいはずだ。
三日後に来る彼に、どうやってそれを納得させるか。
特効薬がない現実に歯痒さを覚えながらも、俺は無意識に拳を握りしめていた。
歴史がどうなろうと知ったことか。俺は医者として、あの青年を見過ごすわけにはいかないのだ。
◆ーーーー◆
その夜。京の町は、日が落ちると異様な静けさに包まれる。
最近は浪士たちの抗争が激化しており、夜歩きする者は少ない。特にこの界隈は、幕府側の見廻り組や新選組が頻繁に巡回しているため、日が暮れれば町人たちは逃げるように戸締まりをしてしまう。
俺が奥の部屋で、現代の知識を書き留めた手帳を整理していると、表の戸が乱暴に叩かれた。
ドンドン、と木枠が軋むような強い音が静寂を切り裂く。
「誰か……開けてくれ!」
苦しげな声が響く。隣の部屋で休んでいたお春が、青い顔をして顔を出した。
「先生、こんな夜更けに……絶対に関わっちゃ駄目ですよ。最近は物騒なんだから」
だが、助けを求める声を聞いて無視できるわけがない。俺は立ち上がり、土間へ向かった。
かんぬきを外して戸を引くと、濃密な血の匂いが鼻を突いた。鉄錆のような、生々しい匂いだ。
「うおっ……」
戸に寄りかかっていた人影が、そのまま土間へ転がり込んでくる。年齢は二十代前半。鋭い眼光を残した若武者だった。
着物はべっとりと血に染まり、左腕から脇腹にかけて深い裂傷を負っている。刃物で斜めに切り裂かれたような、酷い傷だ。
「おい、しっかりしろ!」
駆け寄って肩を抱き起こすと、男はうわ言のように呟いた。
「壬生の狼どもめ……拙者を、舐めるな……」
壬生の狼。新選組のことだ。つまりこの男は、新選組と敵対する倒幕派の志士ということになる。
「お春! 灯りを持ってきてくれ! それから、強い酒と煮沸した糸だ!」
俺の怒鳴り声に、お春が慌てて行灯を持って駆けつけてくる。だが、倒れている男の姿と、彼が固く握りしめている刀を見て、お春は悲鳴を飲み込んだ。
「せ、先生……この人、さっき新選組の悪口を……」
「ああ、おそらく倒幕派の志士だろう」
「そんな! 昼間は新選組のお侍さんを診たばかりじゃないですか! もしこの人を助けたのがバレたら、あたしたちまで斬られちまいますよ!」
お春の言う通りだ。京の町で、両陣営の人間を分け隔てなく治療するなど、狂気の沙汰かもしれない。どちらかに肩入れすれば、もう一方から命を狙われる。それがこの時代の常識だ。
だが、俺の心に迷いはなかった。
「患者に敵も味方ない。目の前に怪我人がいるなら、俺は助ける。それだけだ」
俺は男の着物を引き裂き、傷口を露出させた。
出血量が凄まじい。動脈は傷ついていないようだが、静脈からの持続的な出血が男の体力を奪っている。このままでは出血性ショックで命を落とす。
「早くしろ、お春! 手遅れになるぞ!」
「……っ、もう! 知りませんからね!」
お春は文句を言いながらも、すぐに奥へ駆け出し、要求した道具を抱えて戻ってきた。この手際の良さは、江戸から一緒にやってきた彼女ならではだ。
「酒をかけるぞ。押さえていてくれ」
俺は傷口に直接、度数の高い焼酎を浴びせた。
「ぐああっ!」
激痛に男が身をよじり、濁った目で俺を睨みつけた。右手で刀の柄を握ろうと、必死に腕を動かす。
「貴様……何者だ。幕府の犬か……!」
「動くな。俺はただの医者だ」
俺は男の手を力強く押さえ込み、まっすぐにその目を見返した。
「あんたを死なせはしない。だから大人しく治療を受けろ」
男——三輪敬十郎は、俺の気迫に押されたのか、それとも単に力尽きたのか、ふっと体の力を抜いた。
「……勝手に、しろ……」
再び意識を手放した三輪を確認し、俺は縫合の準備に取り掛かる。
「お春、布を丸めて傷の周りを圧迫してくれ。俺はその間に縫う」
「はいっ!」
お春の的確な補助を受けながら、俺は煮沸した木綿糸を通した針を握る。
現代の無影灯も、清潔な手術室もない。薄暗い行灯の光だけが頼りだ。だが、俺の手は震えなかった。
皮膚と筋肉の層を確認し、迷いのない動きで針を通していく。組織を寄せ、糸を結ぶ。
その反復作業に没頭するうち、周囲の音は消え去り、ただ目の前の命の鼓動だけが伝わってくる。
「……よし、止血完了だ」
最後の結び目を切り落とし、俺は大きく息を吐いた。三輪の呼吸は浅いが、安定している。出血性ショックの危機は脱したはずだ。
「終わった……」
お春がへたり込み、額の汗を拭った。
「先生、本当にやっちまいましたね。これで私たち、どっちの味方でもなくなっちゃいましたよ」
「味方なんていらないさ。俺たちは医者だ。それでいい」
俺は血まみれの手をたらいの水で洗いながら、窓の外を見た。いつの間にか、夜が白み始めている。
新選組の沖田総司を診たその日の夜に、彼らと敵対する倒幕派の志士を救った。この京の町で、俺は最も危険な綱渡りを始めているのかもしれない。
だが、後悔はなかった。
俺は三輪の寝顔を見下ろした。
彼が目を覚ましたとき、新選組の出入りするこの診療所で助けられたと知って、どう反応するのか。
厄介なことになりそうだという予感とともに、俺は静かに夜明けの光を見つめていた。




