第12話
障子の隙間から白み始めた空を見上げ、俺は凝り固まった首を鳴らした。
徹夜の手術を終えた体は鉛のように重く、指先にはまだ微かに血の感触が残っているような気がした。
たらいの水を替え、煮沸消毒を終えた器具を清潔な布の上に並べていく。
静寂に包まれた診療所には、三輪の規則正しい寝息だけが響いていた。
出血性ショックの危機は脱したとはいえ、油断はできない。
俺は丸椅子に腰を下ろし、彼の顔色を観察し続けた。
朝日が障子越しに差し込み、土間に細い光の筋を落とし始めた頃。
背後の寝台で、くぐもった呻き声が上がった。
振り返ると、三輪敬十郎がゆっくりと目を開けていた。
焦点の合わない視線が天井をさまよい、やがて自分の胸元に巻かれた真新しいサラシへと落ちる。
「……ここは」
「動かない方がいい。出血は止めたが、まだ傷口が塞がったわけじゃない」
俺は手ぬぐいで手を拭きながら近づいた。
三輪の鋭い眼光が俺を射抜く。その視線が、部屋の隅に置かれた見慣れない医療器具や、俺の着物に向けられた。
そして、彼自身の傍らに置かれた、血に染まった倒幕派の羽織に気づく。
「貴様……幕府側の医者か」
かすれた声には、明確な敵意が混じっていた。
「新選組の犬に助けられるなど、武士の恥。なぜ拙者を斬らなかった!」
激昂して身を起こそうとする三輪の肩を、俺は無言で押さえつけた。
「やめろ。縫合した糸が切れる」
「触るな!」
三輪は俺の腕を振り払おうとしたが、失血した体には力が入っていない。
俺は彼の罵倒を意に介さず、たらいに汲んだ湯に清潔な布を浸し、固く絞った。
「あんたが誰を憎んでいようと勝手だが、俺の治療を無駄にするのだけは許さない」
傷口の周囲を丁寧に清拭していく。
昨夜の緊急手術では、切断された血管を木綿糸で結紮し、筋肉の層を縫い合わせた。
感染症を防ぐためには、この地道な術後管理が欠かせない。
焼酎を含ませた布で皮膚を拭うと、強いアルコールの匂いが鼻を突いた。
「痛むぞ」
三輪は歯を食いしばり、うめき声を漏らしたが、抵抗する気力は失せていた。
「俺は医者だ。あんたが倒幕派だろうと新選組だろうと関係ない。目の前に死にかけている患者がいれば、助けるだけだ」
三輪は息を呑み、俺の顔を凝視した。
「偽善だ……。敵を救うなど、この京で通用するはずがない」
「通用するかどうかじゃない。俺がそう決めているだけだ」
淡々と答える俺の態度に、三輪の表情に困惑が広がった。
理想に燃え、敵を斬ることだけを正義と信じてきた彼にとって、俺の存在は理解の範疇を超えているのだろう。
「あんたの命は、あんた一人のものじゃない。俺が徹夜で繋ぎ止めた命だ。勝手に捨てるな」
その言葉に、三輪は唇を噛み締めた。
やがて、彼は痛みに顔を歪めながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「安静にしていろと言ったはずだ」
「長居は無用だ。新選組の連中が戻ってくる前にな」
三輪はふらつく足取りで戸口へ向かい、一度だけ振り返る。
「……この恩は、いずれ返す。だが、次に会った時は敵かもしれんぞ」
その声には先ほどの鋭さはなく、明らかな迷いが滲んでいた。
三輪は何も言わずに診療所を去っていった。
◆ーーーー◆
三輪を見送った後、俺は机に向かい、竹の皮に記した記録に目を通した。
そこには、数日前に診察した沖田総司の所見が書かれている。
微熱、寝汗、そして特有の空咳。
間違いなく、労咳――結核の初期症状だ。
現代であれば、抗結核薬の投与で確実に治癒できる病。しかし、この時代には特効薬など存在しない。
本来の歴史通りであれば、彼はやがて病に倒れ、若くして命を落とす運命にある。新選組の最強の剣士が戦線を離脱することは、幕末の動乱において大きな意味を持つはずだ。
俺が彼に栄養指導を行い、休養を勧めることは、その死の運命という強大な力に抗うことを意味する。
歴史の勢力図に、取り返しのつかない歪みを生じさせてしまうかもしれない。
背筋に冷たいものが走る。
だが、俺は竹の皮を強く握りしめた。
「運命だろうが歴史だろうが、知ったことか」
俺は救急救命士だ。目の前の命を見捨てる選択肢はない。
特効薬がなくても、現代の知識を総動員して進行を遅らせ、自己免疫で封じ込める道を探る。諦めるのは、打てる手をすべて打ち尽くしてからだ。
具体的な治療方針を練り始める。
まずは栄養状態の改善だ。この時代の一般的な食事では、結核菌と戦うための体力が維持できない。
卵や獣肉など、高タンパクな食材を継続的に摂取させる必要がある。
しかし、武士の身分で肉食を公然と行うのは難しい。辰吉の裏の流通網を使って、薬膳という名目で食材を調達させるしかないだろう。
次に、屯所での生活環境の改善。
換気の悪い大部屋での雑魚寝は、他の隊士への感染リスクを高めるだけでなく、沖田自身の回復も妨げる。
個室への隔離と、定期的な換気。これを新選組の幹部たちにどう納得させるか。
近藤や土方に直談判する覚悟が必要だ。
歴史の修正力という見えない壁に挑むには、現代の医療知識という武器だけでは足りない。
周囲の人間を巻き込み、環境そのものを変えていく政治力も求められる。
前世で、救急車のモニターが平坦な線を描いた時の無力感。あの絶望を、二度と味わいたくない。
幕末の殺し合いという動乱の波に逆らい、俺は医者としての矜持を貫く決意を新たにした。
◆ーーーー◆
数日後の夜。
京の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
時折、遠くから犬の遠吠えや、見回りの提灯の明かりが通り過ぎるだけだ。
診療所の裏口が音もなく開き、見慣れた猫背の男が滑り込んできた。
「旦那、ちいとばかし厄介なことになってやすぜ」
辰吉は目深に被った手ぬぐいを取りながら、声を潜めた。
「どうした、怪我人か?」
「いや、あっしじゃねえ。外の話だ」
辰吉は窓の隙間から、暗闇に包まれた通りを指差した。
「妙な人斬りが、この診療所を嗅ぎ回ってまさぁ」
「人斬り?」
「ええ。ただの浪士じゃねえ。血の匂いが染み付いた、本物の狂犬だ。名前は黒鉄蔵人。倒幕派の中でも、過激な暗殺ばかりを請け負ってるヤバい奴でさ」
辰吉の言葉に、俺は息を詰めた。
「そいつが、なぜここを?」
「さあね。だが、敵も味方も関係なく治療する奇妙な医者がいるって噂は、裏の世界でも広まりつつある。黒鉄の野郎は、旦那のその『命を平等に扱う』ってやり方が気に食わねえのか、それとも別の狙いがあるのか……」
辰吉は飄々とした態度を崩さないが、その目は笑っていなかった。
「あいつは、人を斬る時に瞬き一つしねえそうですぜ。命を刈り取ることを、草むしりか何かと同じだと思ってる。気をつけなせえ。あいつは命の価値を紙切れほどにも思っちゃいねえ。旦那の思想とは、水と油だ」
俺は窓の外の暗がりに目を凝らした。
新選組の沖田を救い、倒幕派の三輪を助けた。
命を救うという純粋な行為が、この狂った時代においては異端となり、歴史の闇に潜む者たちを引き寄せている。
黒鉄の冷酷な視線が、どこからか俺を監視しているような錯覚に陥った。
京の闇が、確実にこの診療所へと迫ってきている。




