第13話
「人斬り?」
「ええ。ただの浪士じゃねえ。血の匂いが染み付いた、本物の狂犬だ。名前は黒鉄蔵人。倒幕派の中でも、過激な暗殺ばかりを請け負ってるヤバい奴でさ」
辰吉の言葉に、俺は息を詰めた。
「そいつが、なぜここを?」
「さあね。だが、敵も味方も関係なく治療する奇妙な医者がいるって噂は、裏の世界でも広まりつつある。黒鉄の野郎は、旦那のその『命を平等に扱う』ってやり方が気に食わねえのか、それとも別の狙いがあるのか……」
辰吉は飄々とした態度を崩さないが、その目は笑っていなかった。
「あいつは、人を斬る時に瞬き一つしねえそうですぜ。命を刈り取ることを、草むしりか何かと同じだと思ってる。気をつけなせえ。あいつは命の価値を紙切れほどにも思っちゃいねえ。旦那の思想とは、水と油だ」
俺は窓の外の暗がりに目を凝らした。
新選組の沖田を救い、倒幕派の三輪を助けた。
命を救うという純粋な行為が、この狂った時代においては異端となり、歴史の闇に潜む者たちを引き寄せている。
黒鉄の冷酷な視線が、どこからか俺を監視しているような錯覚に陥った。
京の闇が、確実にこの診療所へと迫ってきている。
◆ーーーー◆
辰吉が去った後の診療所は、嫌な静寂に包まれていた。
戸締まりを確認し、ランプの火を落とす。薄暗い土間に立ち尽くし、俺は自分の両手を見つめた。
新選組の天才剣士の肺に巣食う病魔を見つけ、倒幕派の志士の命を繋ぎ止めた。彼らがこの先も生き延びれば、俺が知っているはずの歴史は確実に狂っていく。
本来なら死ぬはずだった人間が生き残り、その剣で別の誰かの命を奪うかもしれない。俺の施した治療が、結果として歴史の歯車を歪め、より多くの血を流す引き金になるのではないか。
その恐怖は、京へ来てからずっと俺の足元にまとわりついていた。
だが、目を閉じれば浮かぶのは、苦痛に顔を歪める患者たちの姿だ。
かつて別の時代で、手のひらからこぼれ落ちた命への悔恨。あの冷たい感触を、二度と味わいたくはない。
歴史のうねりがどれほど巨大だろうと、目の前で息絶えようとしている人間を見捨てる理由にはならない。やれることを全てやり切るまでは投げ出さない。それが、俺の譲れない矜持だ。
「……やるしかないんだ」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は拳を握りしめた。
翌朝からも、診療所には様々な患者がやってきた。
京の町は、表面上は平穏を保っているように見えるが、その裏では血みどろの抗争が絶え間なく続いている。
最初に診たのは、額から血を流す町人だった。
「荷車の車輪が外れて、跳ねた木片が当たっちまって」
痛みに顔をしかめる男の傷口を、焼酎を含ませた布で丁寧に拭い清める。
「少し沁みるぞ。動かないでくれ」
煮沸しておいた木綿糸を針に通し、手早く縫合していく。
現代の麻酔などない。男は歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「よし、処置は済んだ。化膿を防ぐために、清潔な布で覆っておく。三日後にまた見せに来てくれ」
「ありがとうございます、先生」
町人が頭を下げて帰っていく。
次から次へと、身分も思想も関係なく患者がやってくる。
刀傷を負った浪士、栄養失調で倒れた子供、流行り病に苦しむ老人。
俺はただ黙々と、手に入る限りの道具を使って処置を続けた。
不安が消えたわけではない。黒鉄蔵人という暗殺者の影は、常に意識の隅に張り付いていた。
それでも、目の前の傷口を縫い合わせ、熱を下げることに没頭している間だけは、歴史の重圧を忘れることができた。
数日が過ぎた。
昼下がりの診療所。患者の波が一段落し、俺は薬研で薬草をすり潰していた。
ゴリ、ゴリという単調な音が、静かな空間に響く。
その静寂を破るように、辰吉が血相を変えて飛び込んできた。
「旦那! 大変だ!」
いつもは飄々としている男が、肩で息をしながら土間に転がり込んでくる。目深に被った手ぬぐいがずれ、焦燥に駆られた顔が露わになっていた。
「どうした、辰吉。落ち着け」
「落ち着いてられるかよ! 斬られやがったんだ!」
辰吉は乱暴に息を吐き出し、俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「三日前に、旦那が腹を縫って助けた幕府側の小者がいただろう。あいつが、裏の路地で……!」
心臓が冷水を浴びたように縮み上がった。
三日前の夜、ひどい刀傷を負って担ぎ込まれてきた若い男。腸管の損傷をなんとか縫合し、感染症の危機を乗り越えて、昨日ようやく歩けるまでに回復したばかりだった。
「どこだ」
「四条の裏路地だ。だが、もう……」
辰吉の言葉を最後まで聞かず、俺は薬箱を掴んで駆け出した。
表通りは行き交う人々で賑わっていた。
その人波を掻き分け、俺は無我夢中で走った。
「どいてくれ!」
すれ違う人々の怪訝な視線を背に受けながら、ひたすら足を動かす。
息が上がり、肺が焼けつくように痛む。
四条の裏路地。
表通りの喧騒が嘘のように、そこは薄暗く、じめじめとした湿気が漂っていた。
鼻を突く鉄の匂い。
足を踏み入れた瞬間、靴底がぬちゃりと嫌な音を立てた。
土壁に寄りかかるようにして、一人の男が倒れていた。
三日前に俺が命を救った、あの小者だった。
だが、その姿はあまりにも無残だった。
首筋から胸にかけて、袈裟懸けに深く斬り裂かれている。周囲の土は赤黒く染まり、水たまりのように血が広がっていた。
「おい……しっかりしろ!」
血だまりの中に膝をつき、男の頸動脈に指を当てる。
脈はない。体温は急速に失われつつあり、瞳孔は完全に開ききっていた。
事切れてから、すでに小一時間は経過している。
「……くそっ」
それでも、俺は諦めきれずに薬箱を開けた。
止血のための布を取り出し、傷口に押し当てる。
「戻ってこい……!」
心臓マッサージを試みようと、胸に両手を重ねる。
だが、手のひらから伝わってくるのは、すでに生命活動を停止した肉体の冷たい感触だけだった。
現代の知識も、あり合わせの道具も、すでに失われた命の前では何の役にも立たない。
「だから言ったんだ、旦那」
背後から追いついてきた辰吉が、忌々しそうに舌打ちをした。
「黒鉄の仕業だ。あいつは、旦那が助けた人間をわざわざ狙ったんだ。革命の障害になる奴を生かしておくわけにはいかねえってな」
辰吉の言葉が、遠くの出来事のように鼓膜を滑り落ちていく。
俺が三日三晩、寝ずに看病して繋ぎ止めた命。
彼が生き延びることで歴史が変わるかもしれないという恐怖と戦いながら、それでも救うことを選んだ命。
それが、たった一振りの暴力によって、こうもあっさりと奪われた。
『チクタク……チクタク……』
不意に、耳の奥で幻聴が響き始めた。
俺はたまらず、血に染まった両手で耳を塞いだ。
だが今は、誰も救うことができない。処置すべき傷も、止めるべき出血もない。それなのに、無機質な音が頭蓋骨の中で反響し続けている。
俺のやっていることは、何の意味があるのだろうか。
必死に水を汲み出しても、底の抜けた桶のように、命は理不尽にこぼれ落ちていく。
黒鉄蔵人という男は、命の価値を紙切れほどにも思っていない。俺がどれだけ血まみれになって命を繋ごうと、奴は瞬き一つせずにそれを刈り取る。
「旦那……」
辰吉が気遣うような声をかけたが、俺は答えることができなかった。
血に染まった両手を見つめる。
指先が小刻みに震えていた。
怒りではない。ただ、圧倒的な無力感と、底知れぬ絶望が全身を侵食していく。
歴史という巨大な暴力の前で、医者一人の矜持など、どれほどの重さがあるというのか。
『チクタク……チクタク……』
秒針の音が、冷たく時を刻み続ける。
俺は血だまりの中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




