第14話
血だまりの中で立ち尽くす俺の腕を、辰吉が強く引いた。
「旦那、早く! 辻番が来ちまう!」
その声に弾かれるようにして、俺は惨殺現場から背を向けた。裏路地を抜け、息を殺しながら京町家の診療所へと逃げ帰る。
裏手の井戸端にしゃがみ込み、冷たい水で何度も手を洗った。だが、指先の皺にまで入り込んだ赤黒い染みは、いくら擦っても落ちない。鼻腔にこびりついた鉄の匂いが、胃の腑をかき回す。
手ぬぐいを差し出したお春が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「あんた、ひどい顔してるよ。少し休んだらどうだい」
「……平気だ。すぐに次の患者が来るかもしれない」
差し出された手ぬぐいを受け取ったが、喉から絞り出した声はひどく掠れていた。
京へ来てからの日々が脳裏をよぎる。新選組の隊士だろうと、桂小五郎ら尊王攘夷派の志士だろうと、怪我人を前にすれば区別なく処置をしてきた。時には同じ屋根の下に、両陣営の負傷者が並ぶこともあった。俺は彼らに「ここでは刀を置け」と命じ、彼らもその場では大人しく従った。その結果、両陣営の者たちから一目置かれるようになった。
だが、それは同時に、どちらの陣営にとっても「敵を回復させる厄介な存在」になることを意味していた。
先日も、徹夜で縫合した尊王派の若者が、退院したその日の夜に黒鉄蔵人の凶刃に倒れた。遺体となって運び込まれた彼の傷口は、俺が縫い合わせた糸ごと無残に引き裂かれていた。救急車内で心臓マッサージを続けても救えなかった命の記憶がフラッシュバックし、俺は血まみれの遺体を前にただ立ち尽くすしかなかった。
さらに恐ろしいのは、自分が歴史の歯車を狂わせているという実感だ。
沖田総司の労咳。本来なら不治の病として彼を蝕むはずの運命に、俺は介入してしまった。栄養状態を改善し、初期症状を抑え込もうとしている。幕末の殺し合いという動乱の波と、死の運命という強大な力に抗うことで、歴史の勢力図に決定的な歪みが生じ始めている。俺の行動が、さらなる死を招いているのではないか。
「あたしには難しいことは分からないけどさ」
お春が、冷たくなった俺の手を両手で包み込んだ。
「あんたが助けた命は、確かにそこにあったんだ。それを奪う奴が悪いんであって、あんたが自分を責めるのは筋違いってもんだよ」
その言葉に、胸の奥が締め付けられた。
歴史を変えてしまう恐怖。暴力による修正力。
だが、目の前で苦しむ患者を見捨てることなどできない。医者として、すべての命を救う。その使命だけは、どんな重圧があろうと手放してはならない。
小さく息を吐き出し、震える指先を強く握り込む。覚悟は決めた。
しかし、心の底にへばりついた冷たい不安は、どうしても拭い去ることができなかった。
数日後。
診療所の土間に、不意に威厳のある足音が響いた。
「相良君、少し時間は取れるかね」
現れたのは松本良順だった。江戸から京へ移ってからも、何かと気にかけてくれている恩人だ。着物の裾には泥が跳ねており、どこかの現場から直接足を運んできたらしい。
「ええ、今は落ち着いています」
奥の座敷へ案内すると、良順は懐から丁寧に折り畳まれた和紙を取り出し、文机の上に広げた。
それは、江戸の診療所で俺の処置を見ていた師匠が、時折書き留めていたメモだった。
「君の師が遺したこの書き付け。私はずっと気になっていてね。長崎のオランダ商館に出入りする通詞に、こっそりと見せてみたのだよ」
心臓が跳ねた。
「蘭語の医学書からの引用かと思ったのだが、通詞は首を傾げた。文字の形は異国のものだが、蘭語としては全く意味を成さないと」
良順の鋭い眼光が、俺の顔を真っ直ぐに射抜く。
「だが、私は気づいたのだ。君が治療の最中に無意識に口走る奇妙な言葉。トリアージ、ショック、バイタル……。この文字の羅列は、その発音をそのまま書き写したものではないのかね」
背筋に冷たい汗が伝う。
ローマ字だ。師匠は、俺が呟く現代医療の用語を、見よう見まねでアルファベットに似た記号として記録していたのだ。
「相良君。君の持つ技術は、この国の医学を百年は進める代物だ。だが、その知識の出所がどこにもない。君は一体、どこでそれを学んだ?」
喉が干からびたように張り付き、言葉が出てこない。
良順の目は、純粋な医学への探求心に満ちていた。日本の医学が旧態依然としたまま、世界から取り残されてしまうことを誰よりも恐れている彼にとって、俺の技術は希望の光なのだろう。だからこそ、その正体を知りたがっている。
だが、未来から来たなどと、どうして説明できるだろうか。
沈黙が続く中、良順は静かにメモを畳み、懐にしまった。
「無理にとは言わん。だが、隠し事は身を滅ぼす。君が何者であれ、私は君の技術を日本の宝だと信じている。何かあれば、すぐに私を頼りなさい」
良順はそれだけ言い残し、診療所を後にした。
彼の背中を見送りながら、俺は深い溜息をついた。最大の理解者である良順にすら、正体を疑われ始めている。足元が崩れていくような感覚だった。
その夜。
診療所の裏手、薬草を干している勝手口のあたりで、微かな衣擦れの音がした。
泥棒かと思い、手近な木刀を握ってそっと戸を開ける。
暗がりの中に立っていたのは、見覚えのある若武者だった。
「……三輪、お前か?」
以前、倒幕派の志士として重傷を負い、俺が手術をした男、三輪敬十郎だ。傷は順調に癒えかけているはずだが、その表情は夜の闇よりも暗く、険しかった。
「声を出さないでくれ」
三輪は周囲を警戒しながら、低い声で告げた。
「貴様に恩を返すのは、これが最初で最後だ」
「恩って……どういうことだ」
「逃げろ、相良。一刻も早く、この京から離れるんだ」
三輪の言葉に、俺は息を呑んだ。
三輪は、かつて俺の治療を受けた際、隣の部屋に新選組の隊士が寝かされているのを知って激昂した。それでも、傷が癒えるにつれて、敵味方なく治療する俺のやり方に何かを感じ取っていたはずだ。その彼が、わざわざ危険を冒してまで警告に来たのだ。
「倒幕派の過激な連中が、貴様を『革命の障害』として本格的に排除する決定を下した。新選組の連中を治療し、戦線に復帰させていることが問題視されたのだ」
「俺は、ただ目の前の怪我人を……!」
「それが通じる相手ではない!」
三輪は声を荒らげそうになり、慌てて口元を押さえた。
「黒鉄蔵人が動く。あの男は、貴様がどこに逃げようと必ず探し出し、その首を刎ねるだろう。拙者には、それを止める力はない」
三輪は苦渋に満ちた顔で、俺から目を逸らした。
「拙者は貴様に命を救われた。だが、同志を裏切ることはできない。だから、これが精一杯の報いだ」
それだけを言い残し、三輪は足音もなく闇の中へ消えていった。
夜風が、開け放たれた勝手口から吹き込んでくる。
俺は木刀を取り落とし、その場にへたり込んだ。
良順には正体を疑われ、過激派からは命を狙われる。
新選組に助けを求めれば、それこそ倒幕派との全面衝突を引き起こし、さらなる血が流れることになる。
誰を信じ、どう動くべきか、全く分からなかった。
暗闇の中、どこからか秒を刻む幻聴が聞こえるような気がした。
迫り来る黒鉄の刃。
逃げ場のないこの京の底で、俺はただ一人、深い孤立感と静かな絶望に沈んでいくしかなかった。




