第15話
昨夜の絶望的な孤立感から一夜明けた朝。
診療所の冷たい板間にへたり込んでいた俺の前に、松本良順が静かに立っていた。
障子越しに差し込む朝日が、彼の厳しい横顔に深い影を落としている。
「相良君。昨夜の件だがね」
良順の低い声に、俺はビクッと肩を揺らした。師匠が遺したローマ字のメモ。それが異国の言葉ではないと見抜かれた件だ。
「あれは……その、俺が勝手に作った暗号のようなものでして。他意はありません」
必死に言葉を紡ぐが、声が上ずっているのが自分でも分かった。額から冷や汗が流れ落ち、畳の上に染みを作っていく。
良順は鋭い眼光で俺をじっと見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「昨夜も言った通り、無理に聞き出すつもりはない。だが、君のその手はあまりにも鮮やかに命を救いすぎる。その特異な医術が、いずれ君自身を窮地に追いやるのではないかと案じているのだ」
良順の言葉に、俺は顔を上げた。
「君が何者であれ、その技術は守らねばならない。私は君を庇護するつもりだ。だが、君の存在を危惧する者もいる。気をつけたまえ」
それだけを告げると、良順は踵を返して去っていった。
俺は大きく息を吐き出し、往診用の鞄を手に取った。
京の街は、今日も不穏な空気に包まれている。
往診先は、新選組の屯所だけではない。時には倒幕派の志士が潜伏する長屋にも呼ばれる。
身分や所属で治療の優先順位を決めない。その信条に従い、俺は新選組の隊士も、尊王攘夷派の浪士も分け隔てなく処置してきた。
薄暗い長屋の一室。血と汗の匂いが充満する中、刀傷を負った浪士の腕に巻かれた包帯を取り替える。
焼酎で傷口を拭い、煮沸した木綿糸で縫合した箇所を確認する。化膿することなく塞がりつつあった。
「先生、助かりました」
「あんたがいなけりゃ、腕を切り落とすところだった」
浪士たちは深く頭を下げる。
敵味方なき治療は、いつしか両陣営から奇妙な敬意を集めるようになっていた。だが、それは同時に、俺自身を危険な綱渡りに追い込んでいることでもあった。
◆ーーーー◆
往診を終え、鴨川沿いの道を歩く。
川面を撫でる風が、火照った頬を冷やしていく。
ふと、沖田総司の顔が頭をよぎった。
彼の咳と身体所見から、労咳の初期症状を見抜いた。本来ならば数年後に命を落とすはずの彼に、俺は栄養指導と隔離、安静を指示し、運命に介入してしまった。
「俺はまだ戦えますよ」と笑う彼に、俺は厳しく接した。
新選組の要である剣豪が生き延びれば、幕末の勢力図はどうなるのか。
歴史を変えてしまう恐怖が、胃の奥を冷たく撫で上げる。
だが、目の前の命を見捨てることはできない。歴史の修正力がどれほど強大だろうと、医者として全ての命を救う。その覚悟は決めたはずだった。
「奇遇ですね、相良の先生」
不意に声をかけられ、俺は足を止めた。
編み笠を深く被った男が、柳の木陰に立っている。笠を少し持ち上げたその顔には、見覚えがあった。
「……桂、さん」
以前、俺が傷を縫合した倒幕派の男、桂小五郎だった。
「無事で何よりです。あなたの神業のような医術は、新しい時代を創るために不可欠なものだ。どうか、我々の力になっていただきたい」
桂は穏やかな笑みを浮かべている。だが、その理知的な瞳は、俺を戦力として値踏みしているようだった。
「俺は医者です。あんたたちの戦いには加担しない。怪我人がいれば治す、ただそれだけだ」
「ええ、分かっています。ですが、時代はあなたを放ってはおかない。有能な人材は、身分や思想を超えて評価されるべきですから」
桂の言葉に、自分が歴史の巨大なうねりの中心に引きずり込まれていることを痛感する。
「古い体制を壊すには、血が流れる。だが、あなたの技術があれば、その血を最小限に抑えることができる」
「俺は、自分の手の届く範囲の命を拾うだけです」
言葉少なに返し、俺は桂に背を向けた。
桂はそれ以上追ってこなかったが、背中に刺さる視線はいつまでも消えなかった。
◆ーーーー◆
桂と別れ、診療所へ戻るための細い路地に入る。
夕暮れが迫り、周囲から人影が消えていく。土壁に囲まれた薄暗い道には、俺の足音だけが響いていた。
ふと、背後の空気が凍りついた。
耳の奥で、カチ、カチと秒を刻む幻聴が鳴り始める。
「敵を生かす医者は、悪だ」
低く、感情の起伏が全くない声だった。
振り返ると、数歩後ろに黒ずくめの着流し姿の男が立っていた。
三輪が警告していた暗殺者、黒鉄蔵人。
感情を読み取れない虚ろな瞳が、俺を真っ直ぐに捕らえている。
「お前が新選組の連中を治すせいで、死ぬべき人間が生き残る。それは自然の理に反している」
黒鉄は音もなく間合いを詰めてくる。
逃げなければ。
頭では分かっているのに、圧倒的な殺気に足がすくんで動けない。
「命など、ただの肉の塊だ。斬れば死ぬ。それだけのことだ。お前が必死に繋ぎ止めているものは、ただの幻想に過ぎない」
「俺は……ただ、目の前の怪我人を……」
「偽善だな」
短い断定。
次の瞬間、黒鉄の右手がブレた。
抜刀の閃きが視界を横切る。
冷たい刃が、俺の首筋にピタリと当てられた。
皮膚を薄く切り裂き、一筋の血が首を伝い落ちる。
「貴様の命は、ここで終わる」
死の恐怖。現代の医療知識も、これまでに救ってきた命の数も、この圧倒的な暴力の前では何の意味も持たない。
喉が渇き、声が出ない。
迫り来る死の淵で、俺はただ、冷たい刃の感触に震えることしかできなかった。




