第16話
冷たい刃が首筋の皮膚を薄く切り裂き、一筋の血が伝い落ちる。
黒鉄蔵人の虚ろな瞳が、俺の命を刈り取ろうと細められた。
死の恐怖に喉が渇き、声が出ない。
現代の医療知識も、これまでに救ってきた命の数も、この圧倒的な暴力の前では何の意味も持たない。
黒鉄の右手が、とどめを刺すべくわずかに引かれた。
その瞬間だった。
足元で、鼓膜を破るような破裂音が轟いた。
「なっ……」
黒鉄の動きが止まる。
同時に、強烈な硫黄の匂いとともに真っ白な煙が路地裏に爆発的に広がった。
視界が完全に奪われる。咳き込むほどの煙の中、誰かに力強く腕を掴まれた。
「旦那、走れ!」
聞き慣れた声。辰吉だ。
俺は状況も飲み込めないまま、辰吉に強引に引っ張られるようにして駆け出した。
背後で舌打ちの音が聞こえた気がしたが、振り返る余裕などない。
裏社会の仲間らしき男たちが数人、煙の向こうで何かを投げつける音が続く。発煙筒の目眩ましだ。
「こっちだ、足元に気をつけな!」
辰吉の案内に従い、迷路のような京の裏路地を無我夢中で走り抜ける。
息が上がり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打っている。
首筋の傷から流れた血が襟元を濡らし、生温かい不快感が広がっていた。
どれくらい走っただろうか。
大通りから外れた、ひっそりとした京町家の裏口に辿り着いた。俺たちの拠点である診療所だ。
「……ここまで来りゃ、ひとまずは安心だ」
辰吉が息を整えながら、周囲を警戒するように視線を巡らせる。
俺は膝に手をつき、激しく咳き込んだ。
「辰吉……助かった。あんたが来てくれなかったら、俺は……」
「礼には及びやせんよ。得意先が死んじゃあ、あっしの商売もあがったりですからね。それにしても、あんな化け物に目をつけられるとは、旦那も難儀な人だ」
辰吉は飄々とした口調を崩さないが、その額には脂汗が浮いていた。彼にとっても命がけの救出劇だったはずだ。
「あっしらは念のため、外で見張りを立てておきやす。旦那はしばらく、大人しくしてなすって」
辰吉はそれだけ言い残すと、闇に溶け込むように姿を消した。
◆ーーーー◆
重い足取りで診療所の中へ入る。
土間を抜けた先で、灯りを手にしていたお春が振り返った。
「遅かったじゃないか。往診先で何か……って、あんた、その血!」
お春が血相を変えて駆け寄ってくる。
俺は壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。足の力が完全に抜けていた。
「大した傷じゃない。ただの擦り傷だ」
「馬鹿言わないで。首筋じゃないか。ちょっと待ってな、今すぐ手当てするから」
お春は小柄な体を素早く動かし、手拭いと湯桶を用意して戻ってきた。
たすき掛けにした袖をまくり、湯に浸した手拭いを固く絞る。
「痛むかい?」
「いや……」
お春の手が、震えている俺の首筋にそっと触れる。
温かい布が血を拭い去り、清潔な布が傷口に当てられた。
彼女の的確な手つきは、これまで共に数々の修羅場をくぐり抜けてきた証だ。
京へ舞台を移してからというもの、幕末の動乱は激しさを増す一方だった。
俺はただ無我夢中で、運び込まれる怪我人の治療にあたってきた。
新選組の隊士だろうが、桂小五郎のような尊王攘夷派の志士だろうが、目の前に血を流して倒れている人間がいれば、身分も所属も関係ない。
敵味方なく命を繋ぐ。それが俺の譲れない矜持だった。
両陣営から奇妙な医者として一目置かれるようになっても、俺のやることは変わらなかった。
沖田総司の咳を聞き、労咳の初期症状だと見抜いた時もそうだ。
本来なら、彼はこの病で命を落とす運命にある。
それに介入し、彼を生き延びさせれば、歴史の勢力図に決定的な歪みが生じるかもしれない。
歴史を変えてしまう恐怖は、常に俺の足元に口を開けていた。
夜も眠れないほどの激しい葛藤の末に、俺は決断したのだ。
歴史の修正力という見えない巨大な力よりも、医者として全ての命を救う使命を優先する。
目の前の命を見捨てるくらいなら、どんな罰でも受けてやる。
そう覚悟を決めたはずだった。
それなのに。
「あんた、ひどく震えてるじゃないか」
お春の声が、俺を現実に引き戻した。
彼女は傷口に布を当てたまま、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「俺は……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ただ、目の前の怪我人を治したかっただけだ。誰の命も無駄にしたくなかった。それなのに……なぜ、殺されなきゃならないんだ」
黒鉄の冷たい言葉が脳裏に蘇る。
『お前が必死に繋ぎ止めているものは、ただの幻想に過ぎない』
「あんたは間違ってないよ」
お春が、少しだけ強い口調で言った。
「あんたが助けた命は、確かにここにある。あたしだって、その神業みたいな医術を信じてるんだ。だから、そんな弱気なこと言わないでくれ」
彼女の言葉は温かかった。
だが、俺の心の奥底にこびりついた氷のような恐怖を溶かすには至らなかった。
「……すまない。少し、一人にしてくれないか」
俺の拒絶めいた言葉に、お春は一瞬だけ悲しそうな顔をした。
それでも彼女は何も言わず、新しい布を傷口に巻き終えると、静かに立ち上がった。
「湯桶はここに置いておくからね。何かあったら、すぐに呼ぶんだよ」
足音が遠ざかり、襖が閉まる。
診療所は深い静寂に包まれた。
薄暗い部屋の中で、俺は膝を抱えてうずくまった。
首の傷が、脈打つたびにズキズキと痛む。
痛みが、俺がまだ生きていることを証明していた。だが、それがひどく虚しい。
現代の救命技術を持っていようと、幕末の暴力の前ではあまりにも無力だ。
俺がどれだけ血まみれになって命を繋ぎ止めても、黒鉄のような暗殺者が一太刀振るえば、命は簡単に散っていく。
沖田の労咳を治そうと足掻いても、俺自身が暗殺者の刃に倒れれば、すべては終わるのだ。
俺のやっていることは、本当にただの偽善なのだろうか。
歴史の大きなうねりの中で、俺という存在がどれほどちっぽけなものか。
夜の静寂が、その事実を容赦なく突きつけてくる。
窓の外では、風が木々を揺らす音が聞こえる。
辰吉たちはまだ外で見張ってくれているのだろうか。
彼らを危険に巻き込んでいるという罪悪感が、さらに俺の心を重くした。
解決の糸口は見えない。
黒鉄は必ずまた現れるだろう。
その時、俺は再び逃げ延びることができるのか。
いや、逃げ延びたとして、その先に何があるというのか。
暗い夜の底で、俺はただ静かな不安に苛まれていた。
目の前の命を救うという決意すら、今はひどく脆く感じられる。
底に落ちた俺は、再び医者として立ち上がることができるのだろうか。
答えのない問いだけが、冷たい闇の中に溶けていった。




