第17話
冷たい闇の中に溶けていった問いの答えは、すぐには見つからなかった。
狭い隠れ家の隅で、俺は膝を抱えたまま動けずにいた。手のひらには、まだ乾ききっていない血の感触がこびりついているような気がする。どれだけ必死に命を繋ぎ止めても、暴力の連鎖はそれをいとも簡単に断ち切っていく。
「いつまでそうやって縮こまってるつもりだい」
不意に、背後から声が降ってきた。お春だった。彼女は両手に手ぬぐいと桶を抱え、仁王立ちになって俺を見下ろしている。
「……すまない。今は少し、一人にしてくれ」
「馬鹿言わないでよ」
お春は桶を床にドンと置き、俺の目の前にしゃがみ込んだ。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「あんたが止まったら、助かるはずの命も助からないんだよ。あんな人斬りのせいで、あんたの腕まで死んじまうのかい」
彼女の言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
「あたしはね、あんたがどんな身分の奴でも、敵でも味方でも関係なく助けるところを見てきたんだ。そのあんたが、ここで折れちまってどうするのさ」
お春の震える声に、俺は顔を上げた。彼女の言う通りだ。ここで俺が立ち止まれば、救えるはずの命まで見殺しにすることになる。
「……わかった。悪かったよ」
俺がゆっくりと立ち上がると、お春は袖で乱暴に目元を拭い、小さく頷いた。
そこへ、戸を叩く音が響いた。辰吉だ。
「旦那、お迎えにあがりやした。ここはもう潮時でさあ。別の場所を手配してありやす」
お春が手早く医療器具をまとめ、俺たちは辰吉の提灯を頼りに夜の裏路地を急いだ。逃げ込んだ先は、大通りから外れた小さな町家だった。
京の町は今、かつてないほどの動乱の渦中にある。新選組と尊王攘夷派の志士たちが、毎夜のように血で血を洗う抗争を繰り広げていた。
そんな中、俺はこの新しい隠れ家で、密かに治療を続けていた。新選組の隊士であろうと、桂小五郎ら倒幕派の志士であろうと、運び込まれてくれば分け隔てなく処置をする。その結果、いつしか両陣営の間で、俺の存在は奇妙な不可侵の領域として扱われるようになっていた。
だが、それは同時に危険な綱渡りでもあった。
特に、沖田総司の労咳の初期症状を見抜き、治療に介入してしまったことは、俺の心に重くのしかかっていた。本来ならば死ぬはずの運命にある重要人物。その命を永らえさせることは、歴史の大きな流れに逆らう行為だ。
歴史を変えてしまう恐怖。俺の些細な行動が、この国の未来をどう歪めてしまうのか。その重圧に押し潰されそうになる夜は、一度や二度ではなかった。
数日後の夜。新しい隠れ家に、思いがけない客が訪れた。
「……夜分にすまない」
戸口に立っていたのは、三輪敬十郎だった。以前、俺が治療した倒幕派の若武者だ。傷は順調に塞がっているようだが、その表情には深い迷いが影を落としていた。
「どうした。傷口が開いたのか」
俺が尋ねると、三輪は首を横に振った。
「いや、傷の具合は良い。ただ……貴様の顔を見たくなっただけだ」
三輪は上がり框に腰を下ろし、刀の柄から手を離した。彼にしては珍しく、警戒を解いた姿勢だった。
「拙者はずっと、幕府を倒し、新しい世を創ることだけが正義だと信じてきた。そのためなら、命を捨てることも、他者の命を奪うことも厭わなかった」
三輪の視線が、床の木目に落ちる。
「だが、貴様は違う。新選組だろうが、我ら志士だろうが、ただ目の前の傷を縫い、血を止める。その姿を見ていると……拙者の信じていた大義が、ひどくちっぽけなものに思えてくるのだ」
不器用な告白だった。凝り固まっていた彼の思想が、少しずつ揺らぎ始めている。
「俺はただ、医者としての仕事をしているだけだ。大義なんて立派なものは持っていない」
「それでもだ」三輪は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。「貴様のその手は、確実に何かを変えている。拙者の心も、な」
その時だった。
外の通りから、鋭い金属音と怒声が響いてきた。斬り合いだ。
数分後、戸が激しく開き、辰吉が血まみれの男を背負って転がり込んできた。
「旦那! 急患でさあ! 辻斬りにやられやした!」
床に降ろされた男は、腹部から大量に出血していた。顔面は蒼白で、呼吸も浅い。
俺は一瞬、息を呑んだ。あの夜の黒鉄の刃が脳裏をよぎり、指先が微かに震える。
「先生!」
お春の声が飛んだ。彼女はすでに、煮沸した木綿糸と清潔な布、そして焼酎を用意して待機している。
三輪も立ち上がり、自身の刀を部屋の隅に置いた。
「拙者にも手伝わせろ。布を押さえるくらいはできる」
二人の視線が、俺の背中を押した。
歴史の修正力だの、暗殺者の恐怖だの、今はどうでもいい。目の前に、消えかかっている命がある。それを見捨てる理由など、どこにもない。
「お春、焼酎を傷口に。三輪は男の肩を押さえてくれ」
俺は震えをねじ伏せ、代用品のメスを握った。
指示を出しながら、無心で処置を進める。腹部の傷は深かったが、致命的な臓器の損傷は免れていた。出血点を素早く見つけ出し、木綿糸で結紮する。
手のひらに伝わる血の温かさが、俺の中の救命士としての本能を完全に呼び覚ましていた。
誰が死ぬ運命にあるのか。歴史がどう変わるのか。そんな強大な力に抗うことは、恐ろしい。だが、俺は医者だ。全ての命を救うという使命を、歴史の都合で曲げるわけにはいかない。
「よし、出血は止まった。あとは縫合する」
額の汗をお春に拭ってもらいながら、俺は手際よく傷口を縫い合わせていった。
一時間後。男の呼吸は落ち着き、顔色にも少しずつ赤みが戻ってきていた。
「……助かったのか」
三輪が、信じられないものを見るような目で男を見下ろしている。
「ああ。峠は越えたよ」
俺は血に染まった手を洗いながら、深く息を吐き出した。
胸の奥にあった重い塊が、少しだけ溶けていくのを感じる。俺のやっていることは、決して無駄ではない。歴史の暴力に抗う小さな決意が、確かな手応えとなって俺の心に根を下ろしていた。
「旦那、見事な手際でさあ」
辰吉が額の汗を拭い、お春は血のついた布を桶にまとめた。
ようやく取り戻した、静かで穏やかな時間。
だが、俺が手ぬぐいで手を拭き終えた直後だった。
窓の外の暗がりに、ふと異質な気配が混じった。風の音とは違う、衣擦れのような微かな音。
俺は動きを止め、視線を外に向けた。
三輪も即座に反応し、部屋の隅に置いた刀へ手を伸ばす。
小さな前進の手応えを得たばかりだというのに、夜の闇はまだ俺たちを逃がしてはくれないらしい。
冷たい空気が、再び部屋の中に流れ込んできた。




