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第18話

冷たい空気が、再び部屋の中に流れ込んできた。


窓の外の暗がりに混じった異質な気配。風の音とは違う、衣擦れのような微かな音が、障子の向こうから確かに聞こえた。


俺は血を洗い流したばかりの手を止め、視線を外に向けた。


三輪も即座に反応し、部屋の隅に置いた刀へ手を伸ばす。彼は無言のまま、治療を終えたばかりの急患とお春を庇うように立ち塞がった。


「旦那、不味いですね」


辰吉が声を潜め、目深に被った手ぬぐいを引き下げた。彼の声には、普段の余裕のある響きは微塵もない。


「表に何人かいる。だが、一番厄介なのは裏口に回った奴だ。気配の消し方が尋常じゃねえ。ただの浪士じゃないですよ」


「どうする」


「あっしが裏から出て囮になります。その隙に、旦那たちは表の連中をやり過ごして……」


「いや、俺も行く」


俺は即座に答えた。狙われているのは十中八九、俺だ。ここに留まれば、お春や三輪、そして命を繋ぎ止めたばかりの患者まで巻き込むことになる。


「無茶だ、旦那! あっし一人なら逃げ切れる公算もありますが、あんたを連れてじゃ……」


「ここで全員が危険に晒されるよりマシだ。三輪、お春たちを頼む」


三輪は鋭い視線を向けた後、短く頷いた。


俺は最低限の医療道具を布に包んで懐に押し込み、辰吉の背中を追って勝手口の戸を静かに開けた。


夜の冷気が頬を刺す。


墨を流したような暗闇に沈む京の裏路地へ足を踏み入れる。月明かりすら届かない狭い通路で、湿った土の匂いにむせ返りながら、ぬかるみを音もなく跨ぎ越えた。


江戸からこの激動の地へ移って以来、俺を取り巻く環境は激変した。


新選組の隊士であろうと、桂小五郎ら尊王攘夷を掲げる志士であろうと、傷ついて運ばれてくれば等しく治療台に乗せた。身分や思想で命の優先順位を決めない。その姿勢は、殺し合いを日常とする彼らからすれば異端そのものだった。


いつしか俺は、両陣営から特異な目で見られるようになっていた。敵味方なき治療を続ける謎の医者。そんな噂が広まるにつれ、俺は常に薄氷を踏むような思いを抱えていた。


どちらの陣営にも属さないということは、どちらからも命を狙われる危険を孕んでいるからだ。


特に、沖田の労咳の初期症状を見抜き、本来なら失われるはずの命に手を伸ばした時の重圧は、今も胸の奥にこびりついている。


一人の重要人物が生き延びることで、勢力図が歪み、未来がどう変わるのか。


幕末の殺し合いという動乱の波と、死の運命という強大な力に抗うことで、歴史の歯車を狂わせてしまうのではないか。


その恐怖に直面し、俺は何度も立ち止まりそうになった。現代の医療器具も薬もないこの時代で、運命という強大な力に抗うことがどれほど無謀なことか、痛いほど理解していたからだ。


だが、決して。


目の前で消えゆく鼓動を見捨てることなどできなかった。歴史の修正力という見えない波に抗ってでも、医者として全ての命を救う。


激しい葛藤の末に選んだその使命が、今の俺を突き動かしている。


路地を急ぎ足で進む俺たちの前に、ふらりと影が立ち塞がった。


雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、黒ずくめの着流し姿を浮かび上がらせる。


黒鉄蔵人。


感情の抜け落ちた虚ろな瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。


「……逃げられると思ったか」


ひどく平坦な声が、夜気に溶ける。手には既に、抜身の刃が握られていた。


「お前は生かしておけない。革命の障害は排除する」


黒鉄が一歩、距離を詰める。


命を平等に扱うという俺の矜持は、彼のような暗殺者にとっては、都合の悪い障害でしかなかったのだ。


「あっしが時間を稼ぎます。旦那は走ってくだせえ!」


辰吉が前に出た。


懐から取り出した何かを地面に叩きつける。パァンという破裂音と共に、白い粉煙が路地に広がった。


目潰しだ。


だが、黒鉄の動きは止まらない。


「小細工を」


黒鉄は白煙ごと辰吉を両断すべく、無造作に刀を振り下ろした。


辰吉が短い仕込み杖を抜いて応戦する。金属が激突する甲高い音が、夜の静寂を切り裂いた。


俺は逃げ出そうと足を踏み出したが、体が鉛のように重かった。


現代の知識があろうと、俺はただの医者だ。人を殺すための技術が極まったこの時代において、俺の存在はあまりにも無力だった。


辰吉は裏社会で培った身のこなしで、黒鉄の斬撃を紙一重で躱していく。


仕込み杖の先端から小さな刃を飛ばし、あるいは足元の砂を蹴り上げて視界を奪おうとする。


だが、黒鉄の剣技は圧倒的だった。


どんな奇襲も、感情のない瞳で見切られ、最小限の動きで弾き返される。


「ぐあっ……!」


数合の打ち合いの末、辰吉がくぐもった声を上げた。


仕込み杖が弾き飛ばされ、辰吉の肩口から鮮血が舞う。彼はそのまま地面に転がり、苦痛に顔を歪めた。


「辰吉!」


俺が駆け寄ろうとした瞬間、冷たい刃先が俺の首筋にピタリと当てられた。


肌を刺すような鉄の冷気に、全身の産毛が逆立つ。


黒鉄の虚ろな瞳が、俺を見下ろしていた。


「貴様の偽善も、ここで幕引きだ」


振り上げられる白刃。死の恐怖が脳髄を焼き尽くし、俺は無意識に後ずさった。


足がもつれ、無様に尻餅をつく。


その拍子だった。


懐に入れていたものが、ポロリと地面にこぼれ落ちた。


以前、名もなき患者の治療費代わりに受け取った、奇妙な紋様の彫られた木札。


それが石畳に落ち、カラ、と乾いた音を立てた。


その瞬間。


時が止まったかのような静寂が訪れた。


振り下ろされようとしていた黒鉄の刃が、空中でピタリと静止している。


俺は目を疑った。感情の起伏など一切ないはずの黒鉄が、驚愕に見開かれた目で、地面の木札を凝視していたのだ。


「……なぜ、お前がそれを持っている」


声が微かに震えていた。


黒鉄は殺気を完全に収め、一歩、また一歩と後ずさる。


「あり得ない……だが、その紋様は……」


彼は混乱したように呟くと、刀を鞘に収めることも忘れ、逃げるように暗闇の奥へと姿を消した。


足音だけが遠ざかり、後には不気味なほどの静寂が残された。


俺は荒い息を吐きながら、地面に落ちた木札を拾い上げた。


肩を押さえて立ち上がった辰吉が、痛みに顔をしかめながら近づいてくる。


「旦那……無事ですか」


「ああ。あんたこそ、傷を見せてくれ」


辰吉の肩口の傷は浅かった。布を当てて圧迫すれば、すぐに血は止まるだろう。


処置をしながら、俺たちは手の中の木札を見つめた。


ただの木切れではない。黒鉄のあの異常な反応。これは間違いなく、裏の世界で絶対的な意味を持つ何かの暗号だ。


この木札の正体は何なのか。そして、これを持つ俺の運命は、これからどこへ向かっていくのだろうか。


冷たい夜風が吹き抜ける中、俺はただ、手のひらの木札を強く握りしめていた。


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