第19話
あの不気味な夜から、数日が過ぎていた。
京の裏通りにひっそりと構えた隠れ家のような町家には、今日も密かに患者が訪れていた。障子越しに差し込む陽光が、土間に細長い影を落としている。
「息を吸って。……はい、ゆっくり吐いて」
俺は目の前に座る青年の背中に竹筒を当て、慎重に胸の音を聴き取る。竹の空洞を通して伝わってくる呼吸音に、全神経を集中させた。微かな摩擦音や、空気が通り抜ける際の異音がないかを探る。
「……少し、肺の雑音が減っているな。咳の頻度はどうだ?」
「おかげさまで、夜も随分と眠れるようになりましたよ、先生」
新選組の沖田総司は、屈託のない笑みを浮かべて衣の胸元を合わせた。その顔色は、初めて診察した時よりもわずかに血の気が戻っているように見える。
労咳——結核の初期症状。現代の薬がないこの時代で、俺ができることは限られている。栄養指導と徹底した衛生管理、そして辰吉が裏の流通網を使って調達してくる薬膳食材。それらを組み合わせることで、彼の病状は確実に進行を遅らせていた。
本来なら、彼はこの動乱の中で病に倒れ、命を落とす運命にある。俺の処置は、明確に歴史の歯車を狂わせているのだ。
「無理は禁物だ。少しでも息苦しさを感じたら、すぐに休むように」
「わかっています。ですが、近藤さんたちを放っておくわけにもいきませんからね。京の町は、日に日にきな臭くなっていますから」
沖田は刀を帯に差し込み、軽い足取りで町家を後にした。歴史を変える重圧に胃を痛めつつも、目の前の命を救う覚悟は揺るがない。俺は土間に座り込み、夕刻までひたすら薬草を挽き続けた。
土間に座り込み、すり鉢で薬草を挽き始める。ゴリ、ゴリという鈍い音が、静かな空間に響く。手元を動かしながら、俺の思考は自然と自らの行いの重さへと向かっていた。
歴史を変えてしまう恐怖。俺の介入によって、本来死ぬはずだった重要人物が生き延びれば、この国の未来はどうなってしまうのか。幕末の殺し合いという動乱の波と、死の運命という強大な力に抗うことで、歴史の勢力図に歪みが生じ始めている。
その重圧が、時折胃の奥を冷たく締め付ける。もし俺のせいで、より多くの血が流れることになったらどうするのか。
だが、手元の薬草を見つめると、前世で救えなかった命の記憶が鮮明に蘇ってくる。救急車のサイレン、平坦な波形を示すモニター、そして冷たくなっていく患者の手。あの無力感だけは、二度と味わいたくない。
幕末の動乱があろうと、歴史の修正力という見えない力が働こうと、目の前に救える命があるなら、俺は絶対に手を止めない。医者として、すべての命を救う。その覚悟は、もう揺るぎないものになっていた。
◆ーーーー◆
その日の夕刻。
裏口の戸が控えめに叩かれ、二人の男が姿を現した。
「邪魔をするよ、相良君」
「……失礼する」
桂小五郎と、その後ろに控える三輪敬十郎だった。
京へ舞台を移して以来、俺は新選組の隊士だけでなく、桂たち尊王攘夷派の志士も分け隔てなく治療してきた。その結果、奇妙なことに両陣営から一目置かれる存在になりつつあった。
「怪我人か?」
俺が立ち上がって問うと、桂は静かに首を横に振った。
「いや、今日は君の安否を確認しに来ただけだ。最近、妙な輩が君の周辺を嗅ぎ回っているという報告を受けてね」
桂は部屋の隅に視線を走らせ、周囲に誰もいないことを確認してから、ゆっくりと敷居を跨いだ。三輪も周囲を警戒しながら、それに続く。
俺は数日前の夜、黒鉄蔵人に襲撃された顛末を淡々と語った。辰吉が負傷したこと、絶体絶命の危機に陥ったこと。
そして、懐からあの木札を取り出し、卓の上に置いた。
「黒鉄は、これを見て殺気を収めました。ただの木切れじゃないはずだ。あんたなら、これが何かわかるんじゃないか」
桂は卓上の木札を一瞥した。
その瞬間、彼の細められた目が微かに見開かれた。
取り乱すことはなかったが、その場の空気が一変する。桂は静かに木札を手に取り、指の腹で表面に刻まれた奇妙な紋様をなぞった。
「……なるほど。黒鉄が退くのも無理はない」
桂はいつもの飄々とした口調のまま、しかし確かな重みを持って告げた。
「これは、我々倒幕派の最重要人物——いや、朝廷の奥深くに連なる御方が発行した、絶対的な不可侵を示す暗号札だ」
「不可侵の札……」
「そうだ。これを持つ者への危害は、大義そのものへの反逆と見なされる。黒鉄のような暗殺者であっても、この札を持つ者を殺めれば、裏の世界で生きていくことはできなくなる」
桂は木札を光にかざし、その精巧な彫りを確かめるように目を細めた。
「なぜ君がこれを持っているのかは聞かないでおこう。だが、君のその命を救うという姿勢は、これからの新しい日本に必ず必要になる」
桂は木札を卓に戻し、静かに微笑んだ。
「倒幕派の各所には、私から通達を出しておこう。相良君への一切の危害を禁ずると。これで少なくとも、我々の陣営の過激派が君の命を狙うことはなくなるはずだ」
同席していた三輪も、木札の意味を知って息を呑んでいた。
彼は姿勢を正し、俺に向かって深く頭を下げた。
「相良殿。貴様……いや、貴方は天意によって守られている存在なのだな」
三輪の声には、以前のような刺々しさはなかった。
「拙者はこれまで、敵を救う貴方のやり方に迷いを抱いていた。新選組の者まで治療するなど、大義に反するのではないかと。だが、もう疑わぬ」
三輪は顔を上げ、強い決意を宿した目で俺を見据えた。
「貴方のその理念を、拙者が陰から絶対に守り抜く。それが、拙者の新たな使命だ」
桂の約束と三輪の言葉に、俺は過激派からの暗殺の恐怖から解放される確かな手応えを感じていた。
これで、少しは治療に専念できる環境が整うかもしれない。
だが、安堵の息を吐こうとしたその時だった。
遠くから、空気を震わせるような重い轟音が響いてきた。
「……大砲の音か」
桂が窓の外へ視線を向ける。
京の町を包み込むように、大規模な戦火の音が連続して鳴り響き始めていた。
強力な後ろ盾を得たとはいえ、この激化する戦火の中で、俺はどう動くべきなのか。
窓ガラスを揺らす振動を感じながら、俺はただ、手の中の木札を強く握り直した。




