第20話
窓ガラスを揺らす振動を感じながら、俺は手の中の木札を強く握り直した。
桂は短く頷き、足早に部屋を後にした。三輪もまた、周囲の警戒にあたるべく外へと姿を消す。
それから数時間後。京の空は、夕焼けとは違う不吉な赤に染まっていた。
遠くで上がる黒煙が、風に乗って焦げ臭い匂いを運んでくる。大砲の轟音は断続的に響き、それに混じって微かに人々の悲鳴や怒号が聞こえていた。
◆ーーーー◆
「先生! こっちにも怪我人が!」
お春の悲鳴のような声が、血の匂いが充満する土間に響き渡る。
隠れ家の戸が次々と開け放たれ、運び込まれてくる負傷者の数はすでに十を超えていた。
浅葱色の羽織を血に染めた新選組の隊士。そのすぐ隣には、彼らと刃を交えていたはずの尊王攘夷派の志士が横たわっている。
「おい、なぜ長州の犬がここにいる!」
腕を押さえた隊士が、痛みに顔を歪めながらも鋭い声を上げた。
「それはこっちの台詞だ、壬生狼め!」
志士の仲間が刀の柄に手をかける。一触即発の空気が、狭い空間に張り詰めた。
「そこまでだ!」
俺は両者の間に割って入り、声を張り上げた。
「ここは治療の場だ。刀を抜くなら外へ行け。残るなら、俺の指示に従え」
睨みつける双方の視線を真っ向から受け止める。
「俺は医者だ。あんたたちが誰を斬ろうが知ったことじゃない。だが、この敷居を跨いだ以上、命の優先順位は俺が決める」
気迫に押されたのか、刀にかけられていた手がゆっくりと離れていく。
「お春さん、煮沸した布を! 焼酎もだ!」
「はいっ! すぐに持ってくるよ!」
俺は身分も所属も関係なく、出血のひどい者から順に処置していく。
動脈からの出血を布と棒で縛り上げ、即席の止血帯を作る。傷口を焼酎で洗い流し、煮沸した木綿糸で素早く縫合していく。
敵味方が入り乱れる異様な空間で、ただひたすらに命のトリアージを続けた。
その時、戸口に新たな人影が倒れ込んだ。
「……沖田さん」
血まみれの隊士たちに肩を貸され、沖田総司が運び込まれてきた。
肩口から胸にかけて深い斬り傷を負っている。だが、問題はそれだけではなかった。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
激しい咳き込みと共に、彼の口から鮮血が吐き出される。傷からの出血ではない。肺からの喀血だ。
労咳の初期症状が、この過酷な戦火の中で一気に悪化している。
俺の背筋を、冷たいものが駆け上がった。
沖田総司は、ここで死ぬ運命ではない。だが、このまま放置すれば、あるいは不適切な処置をすれば、確実に命を縮める。
逆に、ここで俺が現代の知識を総動員して結核の進行に介入し、傷を完璧に治せばどうなるのか。
本来なら病に倒れるはずの天才剣士が、万全の状態で生き延びる。それは、歴史の勢力図に決定的な歪みを生み出すことを意味していた。
歴史を変えてしまう恐怖が、俺の指先を縛り付ける。
「……あんたなら、なんとかしてくれるって……そう、聞いたから……」
虚ろな目を向けた沖田が、途切れ途切れに呟いた。
その声を聞いた瞬間、胃の奥に沈んでいた重たい鉛のような感覚が消え去った。
歴史の修正力がなんだ。
かつて失われた命への後悔を抱え、俺はこの時代にやってきた。限界まで足掻く。やれることを全部やってからだ。
沖田の胸元を開き、気道の確保と止血を同時に行う。
その緊迫した処置の中、耳の奥で鳴り響いていた金属的な刻み音が、ふっと途絶えた。
ずっと俺を苛んできた、壊れた懐中時計の幻聴。
それが消えた途端、視界を覆っていた薄暗い靄が晴れたように、目の前の傷口だけが鮮明に浮かび上がった。
手の震えはない。迷いも、恐怖もない。
「お春さん、ここの圧迫を代わってくれ。俺は縫合に入る」
「わかったよ! あんた、無茶だけはしないでよ!」
文句を言いながらも、お春の手の動きは的確だった。
驚異的な手際で針を進める。筋肉の層を合わせ、皮膚を縫い合わせていく。
沖田の呼吸が、次第に落ち着きを取り戻していく。
周囲の隊士や志士たちも、敵対していることすら忘れたように、その手技に息を呑んでいた。
「……処置は済んだ。あとは安静にするしかない」
額の汗を拭い、俺は立ち上がった。
だが、外からは絶え間なく怒号と悲鳴が聞こえてくる。
この狭い隠れ家では、もう限界だった。これ以上の負傷者を受け入れるスペースも、物資もない。
そこへ、息を切らせた松本良順が駆け込んでくる。
「相良君! 無事か!」
「松本先生。ちょうどよかった」
俺は血に染まった手を洗い流しながら、良順に向き直った。
「ここじゃ手狭です。もっと広い場所が必要だ。敵味方を問わず、すべての負傷者を受け入れる野戦病院を作りたい」
良順は目を丸くし、絶句した。
「正気か。幕府も朝廷も、そんなものを許すはずがない。新選組と長州を同じ屋根の下で治療するなど、狂気の沙汰だ」
「許させるんです。先生の力で」
俺は真っ直ぐに良順の目を見据えた。
「命に色はついていない。俺は、運ばれてきた患者を全員救う。そのための場所が要るんです」
良順はしばらく黙り込み、やがて深く息を吐き出した。
「……君のその目を見ると、不可能だとは言えなくなるな。わかった。私が上層部を説き伏せよう」
彼は力強く頷き、俺の肩に手を置いた。
「幕府の圧力は私が抑え込む。君は存分に腕を振るえ」
「感謝する。助かります」
夜空を焦がす炎が、窓枠を赤く縁取っている。
燃え盛る京の町を見つめながら、俺の心はこれまでにないほど澄み切っていた。
戦火はまだ始まったばかりだ。野戦病院の設立という無謀な計画が、果たして無事に進むのかはわからない。
だが、もう迷うことはない。俺がすべきことは、ただ目の前の命を繋ぎ止めることだけだ。




