第21話
京の夜空を焦がす火の粉が、寺院の瓦屋根を赤く照らし出していた。
借り受けた大寺院の本堂は、運び込まれた負傷者の呻き声と血の匂いで満ちていた。外からは遠雷のような砲声と、怒号が絶え間なく響いてくる。運び込まれる人数は、こちらの予想を遥かに超えていた。
「誠太郎さん、西側の広間にむしろを敷き詰めました! 煮沸した布と蒸留酒も、裏の井戸端からどんどん運ばせてます!」
たすき掛けにしたお春が、額の汗を拭いながら声を張り上げた。小柄な身体をせわしなく動かし、運び込まれてくる担架の誘導をテキパキとこなしている。
「ありがとう、お春さん。助かる。門前の敷石のところに受付を置く。運び込まれた順に中へ入れるな。俺がここで状態を見る」
俺は袖をまくり上げ、寺の山門の前に立った。足元には、色の異なる木片を三種類用意してある。赤、黄、緑。現代のトリアージタッグの代わりだ。
「おい、こいつを早く中へ! 新選組の同志だぞ!」
荒々しい声と共に、二人の男が一人の隊士を担ぎ込んできた。肩口を刀で浅く斬られ、派手に血を流しているが、呼吸はしっかりしており、意識も清明だ。傷口を押さえている手の力も強い。
俺は男の瞳孔と脈拍を素早く確認し、緑の木片をその胸元に置いた。
「右手の廊下に座らせて、傷口を清潔な布で強く圧迫させておいてくれ。命に別状はない。順番を待て」
「なっ……待てだと!? こいつは新選組の組頭の配下だぞ! 今すぐ奥で手当てをしろ!」
「命の危険がある者が先だ。次!」
俺は男たちの抗議を一蹴し、次に運び込まれてきた別の担架へ視線を移した。そこに横たわっていたのは、浅葱色の羽織ではなく、薄汚れた着物を着た倒幕派とおぼしき若い浪士だった。腹部を深く裂かれ、顔面は蒼白、呼吸は浅く速い。ショック状態に陥りかけている。
頸動脈に指を当て、脈の速さと弱さを測る。腹壁の緊張、冷汗。内臓の損傷と腹腔内出血の可能性が高い。
「赤だ。今すぐ本堂の奥、一番広い板間に運べ! 傷口を濡れ布で覆い、足を高くして寝かせろ。お春さん、酒と縫合用の針を用意してくれ!」
「了解!」
お春が即座に駆け寄り、浪士の担架を奥へと誘導する。
周囲で担架を運んできた武士や町人たちが、ざわめきを漏らした。
「おい……見ろよ、あの医者。新選組の侍を後回しにして、長州の落ち武者を先に奥へ通したぞ」
「正気か? 身分も陣営も関係なしに選り分けているのか……?」
戸惑いと不審の声がさざ波のように広がる。幕末のこの時代、治療とは身分の高い者や、自陣営の人間を最優先にするのが当たり前だった。重症度によって機械的に優先順位を決めるトリアージという概念など、誰も知るはずがない。
だが、俺には周囲の雑音に構っている暇など一秒もなかった。一分一秒の遅れが、そのまま心停止へと直結する。目の前の命を拾い上げるためだけに、頭をフル回転させ、感覚を研ぎ澄まさなければならない。
「次だ! 呼吸のない者はいるか? 息をしていればまだ間に合う、早く見せろ!」
俺は声を張り上げ、次々と運び込まれる負傷者の胸郭の動き、皮膚の色、脈拍を瞬時に見定めて木片を振り分けた。止血帯を締め直し、気道を確保し、優先すべき重傷者を奥の即席手術場へと送り込んでいく。
その作業が数十人を超えた頃、山門の向こうから金属の擦れ合う硬い足音が響いてきた。
「邪魔だ、退け! 傷病兵の収容所とはここか!」
太い怒声と共に、数名の隊士を引き連れた大柄な男が現れた。筋骨隆々とした体躯に、顔には斜めに走る古い刀傷。新選組の隊士、矢島鉄之助だった。
矢島は血刀を鞘に納めると、肩を槍で突かれて呻いている部下の隊士を無理やり引きずり、俺の目の前へ放り出した。
「こいつの手当てをしろ。今すぐだ。我が隊の貴重な戦力だ」
俺は即座にその部下の状態を観察した。傷は左肩を貫通しているが、大血管の損傷はなく、脈もしっかりしている。顔色も悪くない。
「黄色だ。骨には達していない。圧迫止血をしながら、中庭の待機所で待たせてくれ。止血処置の終わった赤の患者が済み次第、縫合に入る」
俺が黄色い木片を渡そうとした瞬間、矢島の手が伸び、その木片を叩き落とした。
乾いた音が敷石に響く。
「待たせろだと? 貴様、誰に向かって指図している」
矢島の双眸が、獰猛な光を宿して俺を射抜いた。その視線が、奥の広間で懸命に手当てを受けている倒幕派の浪士たちへと向けられる。
「……おい。あそこで手厚く寝かされているのは、長州の逆賊どもではないか。なぜ我が隊の者が待たされ、あの薄汚い賊が先に治療を受けている?」
「あっちは腹部を切られて大量に出血している。今すぐ処置しなければ半刻ももたない。あんたの部下は、止血さえ続ければ命を落とすことはない」
俺は感情を交えず、淡々と事実だけを告げた。
だが、その言葉は矢島の逆鱗に触れたようだった。男の額に青筋が浮き上がり、握りしめた拳がわなわなと震える。
「命の軽重を貴様ごとき町医者が勝手に決めるな! 幕府の禄を食む我ら新選組と、国を乱す賊の命が同じなわけがあるか! 敵を助け、味方を後回しにするなど、武士道に反する外道の下愚が!」
矢島が腰の刀に手をかけた。周囲の隊士たちも一斉に殺気を放ち、境内の空気が一瞬で氷点下まで凍りつく。
奥で作業していたお春が息を呑み、駆け寄ろうとしたのを、俺は片手で制した。
「ここは野戦病院だ。戦場じゃない」
俺は矢島の目を真っ直ぐに見据えた。
「刀を抜けよ。だが、俺の手を止めれば、いま奥で助かりかけている命も、これから運ばれてくるあんたの仲間も全員死ぬ。それでもいいなら斬れ」
「口の減らぬ小僧が……武士を愚弄するか!」
矢島が刀の鯉口を切り、刃がわずかに鞘から滑り出たその時――。
「そこまでにしてもらおうか、矢島殿」
静まり返った境内に、威厳に満ちた低い声が響き渡った。
本堂の奥から歩み出てきたのは、松本良順だった。着物の裾を泥と血で汚しながらも、その立ち姿には幕府奥医師としての圧倒的な気品と重圧があった。
矢島がわずかに眉をひそめ、刀から手を離さずに振り返る。
「……松本良順先生。幕府の重鎮であられようと見過ごせませぬ。敵を治療するなど、明らかな利敵行為――」
「利敵行為ではない。これは幕府上層部、ならびに目付の許可を得た正式な救護所である」
良順は懐から一通の墨書を取り出し、矢島の目前に突きつけた。そこには公儀の朱印が鮮明に押されている。
「この場における一切の差配は、相良誠太郎に一任されている。敵味方の区別なく、医学の理に従って治療順を決めることこそが、私が彼に求めた条件だ。これに異を唱えることは、幕命に背くことと同義であると知れ」
良順の眼光に気圧され、矢島は奥歯を噛み締めた。顔の傷が引きつり、悔しげな吐息が漏れる。
「……幕府が、このような狂気を認めたというのか」
「狂気ではない。これこそが、いずれこの国に必要な真の医の道だ」
良順は平然と言い放ち、矢島を見据えたまま一歩も引かなかった。
矢島は激しい怒りを宿した瞳で良順を睨み、次いで俺へと視線を突き刺した。
「……覚えていろ。小細工で命を弄ぶ偽医者め。貴様のその傲慢が、いつまで通用するか見ものだな」
吐き捨てるように言い残すと、矢島は部下を連れて中庭の待機所へと歩き去った。だが、その背中から放たれる敵意は、毛ほども衰えていなかった。
「すまなかったな、相良君」
良順が小さく息を吐き、俺の隣に並んだ。
「助かりました、松本先生。あの書状がなければ、今頃首が飛んでいたかもしれません」
「礼には及ばん。私はただ、君の邪魔をさせないという約束を果たしただけだ。……しかし、凄まじい手際だな。君の言う通り、こうして選別して処置を施せば、助かる見込みのある者を確実に拾い上げられる」
良順は感嘆の眼差しで、的確に機能し始めた境内の様子を見つめていた。
「まだ始まったばかりです。これからもっと増えます」
俺は落とされた黄色い木片を拾い上げ、埃を払った。
弁明も、説教も必要ない。俺がやるべきことは、このトリアージが決して間違いではないことを、一人でも多くの命を救うという結果で証明し続けることだけだ。
「先生、奥の腹部損傷の患者、縫合の準備ができました!」
本堂の入り口から、お春の呼ぶ声が響いた。
「すぐ行く!」
俺は大きく息を吸い込み、血の匂いが立ち込める本堂へと駆け戻った。
山門の外からは、依然として激しい砲声と喚声が響き続けている。矢島が残していった不穏な空気は境内の隅に澱のように沈んでいたが、それを気にする暇は一瞬たりとも与えられそうになかった。




