第22話
本堂の板敷きは、すでに飛び散った血糊と消毒用の強い酒の匂いで満ちていた。
「針と糸、煮沸したやつをくれ! 次は右側の青年だ、傷口をしっかり開いて!」
俺は叫びながら、腹部を裂かれた浪士の創部へ迷わず手を伸ばした。血管を鉗子で手早く挟み、出血の源を絶つ。松本良順が驚異的な集中力で俺の補助に入り、的確に余分な血液を布で拭い取っていく。
「相良君、結紮は私が引き受けよう。君は次の重傷者を診てくれ」
「お願いします! 奥の止血帯、締め始めてから二十分経ちました。一度緩めて血流を確認してください!」
息をつく間もない。境内からは怒号と悲鳴が絶え間なく押し寄せていた。戦火が市街地へと広がり、逃げ惑う町民たちまでがこの寺院へと雪崩れ込んできているのだ。
その混乱の渦中、煤にまみれた着物を着た若い女が、門前で倒れ込むのが見えた。
「……お雪さん!?」
見知った顔に、一瞬だけ手の動きが止まりそうになる。だが、すぐさま意識を引き戻した。駆け寄ってきた彼女の右肩からは、赤い染みが滲み出ている。
「先生……町が、火の海で……」
荒い息を吐きながら、お雪は痛みに耐えるように眉をひそめていた。俺は素早く彼女の瞳孔、呼吸、脈拍を確認し、肩の傷を確かめる。
「かすり傷だ。骨にも太い血管にも達していない。緑の木片をつける」
俺は青い顔をする彼女の着物に、迷うことなく緑色の木片を結びつけた。
「待っていてくれ。今、奥で命が消えかかっている人間が何人もいる。あんたの手当ては後回しだ」
情に流されて優先順位を狂わせれば、救える命を取りこぼす。冷酷に聞こえるかもしれないが、これがトリアージの鉄則だ。
お雪は驚いたように目を瞬かせた。しかし、取り乱したり抗議の声を上げたりはしなかった。堂内に横たわる無数の負傷者たちと、鬼気迫る形相で汗と血にまみれながら手を動かし続ける俺の姿を、じっと見つめている。
「……分かりました。私よりも、あの人たちを」
彼女は静かに頷くと、自らの手ぬぐいで傷口を強く押さえ、壁際へと下がった。その瞳には不満の色など微塵もなく、むしろ過酷な現実に立ち向かう者への深い敬意が宿っていた。
「お春さん! 手が足りないなら、私にも手伝わせてください!」
お雪は痛む肩をかばいながら、走り回っていたお春に声をかけた。
「えっ、でもお雪さん、怪我を……」
「これくらい、なんでもありません。包帯を巻くくらいなら、私にだってできます。何をすればいいですか!」
「じゃあ、この清潔な布をあそこの桶の水で洗って、固く絞ってきて! それから、緑の札の人たちの傷口を洗ってあげて!」
「はい!」
お雪はお春の指示に従い、慣れない手つきながらも懸命に動き始めた。最初こそ血の量に怯えて指先を震わせていたものの、患者の痛ましさに寄り添うように声をかけ、丁寧に泥と血を拭っていく。彼女の存在は、殺伐とした境内に確かな安らぎをもたらし始めていた。
一方、寺の山門付近が急にざわつき配下を従えた男が再び姿を現した。
矢島鉄之助だ。
先ほど松本良順に一喝されて退いたはずの男が、抜き身の刀こそ納めているものの、険しい面持ちで境内の様子を観察しに戻ってきたのだ。
「頭、やはりあやつ、長州の者どもまで手当てしておりますぞ」
背後の隊士が忌々しそうに耳打ちする。矢島は無言のまま、堂内へと大股で踏み込んできた。
「おい、蘭方の小僧」
威圧的な声が飛ぶ。だが、俺は振り返りもしなかった。
「邪魔だ、どいてくれ! 布をもっと持ってこい! 傷口を圧迫し続けるんだ、手を離すな!」
俺は運び込まれた新選組隊士の胸部創傷に対し、油紙をあてて三方を塞ぐ即席のバルブ処置を施していた。胸に溜まった空気が抜け、浅かった隊士の呼吸が次第に落ち着きを取り戻していく。
「よし、呼吸が戻った。次! 表で呻いている男を運んでくれ!」
処置を終えるや否や、俺は次の患者へと飛びつく。その隣には、先ほどまで敵として斬り合っていたはずの倒幕派の浪士が横たわっていた。その男の脚の動脈出血を、俺は木の棒をねじ込んだ即席の止血帯で素早く縛り上げる。
矢島はその光景を前に、言葉を失っていた。
新選組も、長州の志士も、町民も関係ない。俺の手は、ただ傷の深さと命の危機だけを基準にして、機械のように、それでいて灼熱の熱量を帯びて動き続けていた。
「……なんなのだ、ここは」
矢島が呟いた。
堂内では、新選組の羽織を着た男のすぐ隣で、倒幕派の浪士が荒い息を吐いている。どちらも手には刀を持たず、ただ苦痛に耐えながら天井を仰いでいた。互いを殺し合っていたはずの者たちが、同じ空間で、同じように手当てを待っている。
誰も刃を抜こうとしない。抜く気力すら奪われるほど、目の前で繰り広げられる命の奪還劇が凄まじかったのだ。
「おい、お前たち」
矢島が不意に、背後の部下たちに低く命じた。
「刀を壁際に置け。湯を沸かす手伝いをしてこい」
「は? し、しかし矢島様、あそこには長州の残党が……」
「いいから行け! あそこで転がっているのは我が隊の仲間だ。あの小僧の手を止めさせるわけにはいかん」
矢島自身も腕をまくり上げ、重傷者を運ぶ担架の端を無言で担ぎ上げた。
その異様な熱気は、寺の外へと波及していった。
門前の通りに、笠を深く被った数人の男たちが現れた。先頭に立つのは桂小五郎だった。彼は寺の入り口に掲げられた、あの不可侵の木札を一瞥し、次いで境内で敵味方なく治療を受ける人々の姿を見つめた。
「……見事なものだな」
桂が静かに呟く。隣に控える長州の志士が、警戒を露わにしながら尋ねた。
「桂先生、あそこには新選組の隊士も多数逃げ込んでおります。今なら一網打尽にできますが」
「馬鹿なことを言うな」
桂は厳しい声でそれを制した。
「あそこはもはや戦場ではない。命を繋ぐための場所だ。あの木札の主の意思を汚すような真似は断じて許さん。全隊に通達を出せ。この寺院の半径一町以内での戦闘は一切禁ずる、と」
「しかし……!」
「引くのだ。我らが創るべき新しい時代に、あの医術の灯を消してはならない」
桂は深く笠を引き直し、踵を返して煙の立ち込める路地へと消えていった。
寺院の周囲から、次第に銃声と怒号が遠ざかっていく。戦火の嵐が吹き荒れる京の都の中で、この寺の敷地だけが、奇妙な静寂と熱気で満たされていた。
「傷口を洗いました! 先生、次の方の縫合をお願いできますか」
血と汗で頬を汚したお雪が、息を切らしながら俺を呼んだ。
「分かった、すぐに行く」
腕で額の汗をぬぐい、立ち上がる。視界の端では、新選組の隊士が差し出した水入れを、倒幕派の若者が無言で煽っていた。
憎しみも、思想の壁も、命の危機の前ではあまりにも脆い。
もちろん、これが恒久的な平和などではないことは分かっている。傷が癒え、この敷地を一歩出れば、彼らは再び互いの喉笛を狙って刃を交えるのかもしれない。
それでも――今この瞬間だけは、誰も死なせずに済んでいる。
俺の手が紡ぎ出した小さな仕組みが、この凄惨な時代の中に、確かな一時休戦という奇跡を作り出していた。
だが、外の砲声はまだ完全に止んだわけではない。運び込まれる負傷者の列も、途切れる気配を見せていなかった。
俺は再び深く息を吸い込み、握りしめた針と糸を構え直した。




