第23話
縫合針を皮膚に通し、器械結びの要領で素早く糸を結紮する。
だが、結び目を切り落とした瞬間、俺は息を呑んだ。盆の上に置かれた清潔な木綿布の束が、とうに最後の一枚になっていたからだ。傷口を洗うための強い蒸留酒も、甕の底を擦る音しか響かない。
「先生、布がもう……!」
お春が血塗れの桶を抱えながら、切迫した声を上げた。寺の本堂に敷き詰めた筵の上には、処置を待つ負傷者がなおも横たわっている。斬り裂かれた肩、銃弾が抉った大腿部。血の混じった呻き声が堂内に満ち、空気は生温かい鉄の臭いに染まっていた。
物資が尽きれば、どれほど手を動かしても感染を防げない。止血すらままならなくなる。
「清潔な手ぬぐいでも何でもいい、湯で煮沸したものを集めてくれ!」
声を張り上げたその時、本堂の裏口からガラガラと激しい車輪の軋む音が響いた。
「どきな、どきな! 道を開けとくれ!」
見覚えのある手ぬぐいを頭に巻いた男が、山積みの荷を載せた大八車を力任せに押し込んできた。辰吉だ。額に玉のような汗を浮かべ、着物の裾を泥だらけにした男が、肩で荒い息を吐きながら車を止める。
「辰吉!」
「へへっ、間に合いましたかい、旦那! 京じゅうの酒屋と蔵を脅し……いや、頭を下げて掻き集めてきやしたぜ。度数の高い粕取り焼酎が五甕に、呉服屋の蔵で眠ってた白無地の晒しが十反だ!」
辰吉は荷台の筵を勢いよく跳ね除けた。そこには厳重に封をされた酒甕と、清潔な白布がぎっしりと積まれていた。
「よく集めてくれた……! 本当に助かった!」
「金は後でたっぷり請求しやすからね。だが今は、こいつらをくたばらせるわけにゃいかねえ。お春さん、こいつを大鍋で煮立ててくれ!」
辰吉が素早く布の束を放り投げ、お春がそれをがっしりと受け止める。絶望的だった物資の枯渇が、男の機転と執念によって瞬く間に覆された。
だが、驚いたのはそれだけではなかった。
「先生、次の方です。右大腿部の動脈性出血、脈は速く弱くなっています。木片は赤を掛けました」
涼やかな声とともに、負傷者を載せた戸板が運び込まれてきた。声を上げたのはお雪だった。額に薄っすらと汗をかきながらも、その瞳には一切の動揺がない。
お雪は俺が指示を出すよりも早く、男の着物を裂いて傷口を露わにし、清潔な布を当てて圧迫を始めていた。脇には、煮沸を終えた縫合針と木綿糸、消毒用の強い酒を浸した小布が、使いやすい順番で綺麗に並べられている。
「お雪……」
「お春さんに教わりました。先生が次何をお求めになるか、見ていれば分かります。私にできることなら、何でも命じてください」
お雪の手元は驚くほど落ち着いていた。血潮に塗れた凄惨な光景を前にしても、眉ひとつ動かさない。ただ静かに患者の呼吸を見守り、俺の動線に合わせて必要な器具を的確な角度で差し出してくる。
現代の熟練した看護師を思わせる、見事な補助だった。
「助かる。止血帯を締めるぞ、布の端を押さえてくれ」
「はい!」
俺とお雪の呼吸が重なる。布と棒で作った即席の止血帯で太腿を締め上げ、拍動性の出血を抑え込む。露出した血管を探り当て、煮沸した木綿糸で手早く結紮した。お雪が素早く余分な糸を鋏で切り、消毒用の酒で周囲を拭い清める。
「縫合に入る。お春、次の患者のバイタル……脈と顔色を確認してくれ!」
「承知しました!」
お春が力強い足取りで待機場所へ走り、患者の意識レベルと脈拍を確かめていく。お雪が隣で器具を整え、辰吉が裏で湯を沸かし、物資を補給し続ける。
個人の奮闘だった医療行為が、明確な役割分担を持った一つの組織として回り始めていた。俺の負担は劇的に軽くなり、処置の速度は倍以上に跳ね上がる。
一人、また一人と、死の淵にいた者たちが危険水域を脱していく。
その光景を、本堂の柱の陰からじっと見つめている男がいた。
新選組の矢島鉄之助だ。
顔に大きな刀傷を持つその巨漢は、抜身の刀を腰に戻したまま、腕を組んで立ち尽くしていた。威圧的な眼光は、処置台の上で必死に手を動かす俺たちと、運ばれてくる患者たちに向けられている。
矢島の視線の先で、今まさに処置を受けていたのは、彼らが激しく敵対していたはずの倒幕派の若者だった。腹部を浅く斬られ、苦悶の声を漏らしている。
「おい、しっかりしろ。息を吐いて、腹の力を抜け」
俺が声をかけながら傷口を洗浄していると、隣で血を拭っていたお雪が、青ざめた若者の手をぎゅっと握り締めた。
「大丈夫ですよ。先生が必ず助けてくださいます。気をしっかり持ってください」
その穏やかな声に、若者の荒い呼吸がわずかに落ち着きを取り戻す。
矢島はその様子を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
武士にとって、戦場で刀折れ矢尽き、倒れることは名誉のはずだった。傷を負って動けなくなった者は足手まといであり、腹を切るか、敵の首を一つでも多く道連れにして散るのが美徳とされてきた時代だ。
だが、ここでは違った。
泥にまみれ、血に濡れ、無様に這いずり回りながらも、誰もが生きようと必死にしがみついている。そして俺たちは、身分も所属も問わず、その泥臭い執念を全力で肯定し、繋ぎ止めようとしていた。
「……馬鹿げている」
矢島が低く呟いたのが聞こえた。その声には、以前のような剥き出しの敵意はなかった。むしろ、自分がこれまで信じて疑わなかった価値観の足場が、音を立てて崩れていくことへの戸惑いと困惑が滲み出ている。
「手柄首を挙げるでもなく、敵の情報を引き出すでもない。ただ生かすためだけに、なぜそこまで泥にまみれる……? 武士の誇りはどこへ行った」
矢島の問いかけに、大八車から新たな酒甕を降ろしていた辰吉が、鼻で笑いながら応じた。
「へっ、誇りだの何だので腹が膨れるかい。旦那やあっしたちにとっちゃな、死んだら全部おしまいなんだよ。生きてりゃ、やり直すことも、美味い酒を飲むこともできる。それを繋ぐのが、この先生の仕事ってもんさ」
辰吉の言葉に、矢島は押し黙った。握り締めた拳が、微かに震えている。
境内の外からは、依然として遠雷のような銃声と砲声が響いていた。京の街を焼き尽くす炎の粉が、夜空を赤く染め上げている。
だが、この寺の敷地に足を踏み入れた者たちは、新選組の隊士であろうと、倒幕の志士であろうと、武器を床に置き、互いの存在を黙認していた。命を救うという圧倒的な熱量の前に、憎悪の連鎖が一時的に押し流されている。
特定の陣営に組せず、ただ命の尊厳だけを掲げる場所。
いつしかこの野戦病院は、戦火のただ中に浮かぶ不可侵の領域となり、俺の存在はその中心で針を振るう者として、彼らの瞳に焼き付けられつつあった。
「先生、表にまた三人……今度は爆風で吹き飛ばされた方々です!」
門前を見張っていた隊士が叫び声を上げる。
「すぐ本堂へ通せ! お雪、清潔な布を用意してくれ。お春、湯の準備だ!」
「はい!」
連携の取れた返答が重なる。チームとして機能し始めた野戦病院は、次なる波を受け止める態勢を整えていた。
だが、夜空を裂く砲撃の音は、先ほどよりも確実に近付いていた。戦火はさらに激しさを増し、この仮初めの平穏を飲み込もうと迫っている。
俺は額の汗を拭うこともせず、運び込まれてくる新たな負傷者へと駆け出した。




