第29話
夜明けの光が境内に差し込み、青白い靄をゆっくりと黄金色に染め上げていく。
あれほど凄惨を極めた戦火の気配は、いまや遠い遠雷のように名残を留めるばかりだった。運び込まれた負傷者たちの呻き声も、処置を終えた安堵の寝息や低い囁き声へと変わり、張り詰めていた空気は穏やかな潮の引き際のような静けさに包まれている。
本堂の土間には、三色に塗り分けられた木片が整然と並べられていた。赤、黄、緑。かつてこの場を埋め尽くした夥しい数の傷病者を、身分や所属ではなく、ただ純粋に治療の緊急度だけで選別した痕跡だ。佐幕も倒幕もなく、呼吸が浅い者から順に処置台へと運び、止血し、縫合し、泥と血を洗い流した。
あの混乱の最中、自分の手は休むことなく動き続けていた。刃を交えていたはずの男たちが、血濡れの包帯を押さえ、煮沸した湯を運び、互いの傷口を気遣い合っていた光景が、昨日のことのように思い出される。あの一時休戦の空気は、誰かの号令によって生まれたものではなかった。ただ、目の前の呼吸を繋ぎ止めようとする必死な作業の熱が、刀を握る理由を忘れさせたのだ。
俺は濡縁に腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。指先には消毒に使った強い酒の匂いと、乾いた薬草の粉が染み付いている。
ふと、耳を澄ませてみた。
かつて、限界を超えた現場に立つたびに耳の奥で鳴り響いていた、あの不吉な秒針の駆動音が聞こえない。急げ、間に合わない、また取りこぼすぞと、自分を責め立てるように追い詰めていたあの幻聴が、どこにも存在しなかった。
懐の奥にある、文字盤の割れた古い時計に指を触れる。鉄の塊は冷たく沈黙しているだけだ。急き立てられるような焦燥も、救えなかった過去に対する呪縛のような痛みも、いつの間にか穏やかな朝の光の中に溶け去っていた。
助けられる者を、この手で確かに助けた。その事実だけが、静かに胸の底に根を張っている。
「……相良殿」
静まり返った境内の敷石を踏む足音が響き、低く落ち着いた声がかけられた。
顔を上げると、浅葱色の羽織を脱ぎ、筒袖の着物姿になった三輪敬十郎が立っていた。肩に巻かれた包帯には薄く黄檗の染料が滲んでいるが、その歩行に乱れはない。かつては敵を斬り捨てることしか頭にないような、尖りきった眼光を放っていた若武者だったが、今のその表情には憑き物が落ちたような静けさがあった。
「三輪さんか。肩の具合はどうですか」
「大事ない。そなたの縫合とやらのおかげで、血も止まり、痛みも引いた。……もっとも、太刀を振るうには当分かかりそうだがな」
三輪は自嘲するように口元を緩め、濡縁の端に腰をかけた。かつてなら絶対に他人に背中を見せなかった男が、無防備に庭の木々を眺めている。
「最初は、狂気の沙汰だとしか思えなかった。敵の首を取るのが武士の誉れであり、倒れた味方を置き去りにするのも戦の常だと思い込んでいたのだからな。だが……ここで敵味方の区別なく傷を塞ぎ、命を拾い集めるそなたの姿を見て、愚かだったのは拙者のほうだと悟った」
三輪は自分の手のひらを見つめた。刀蛸の固い皮膚が、朝露に濡れたように光っている。
「死ぬことが忠義なのではない。生き残り、この国の行く末を見届けることこそが真の道なのだと。相良殿、そなたが示したその理念こそ、これからの日ノ本に必要なものだ。拙者は、そなたが築いたこの場を、そしてそなたという医者を、命に代えても守らねばならんと確信している」
「俺は、ただ目の前にいる患者を放り出せなかっただけですよ」
俺が苦笑交じりに答えると、三輪は首を横に振った。
「その『ただ』を貫くことが、どれほどの剛胆を要するか。拙者たち武客こそが一番よく知っている」
そこへ、重々しい足音がもう一つ重なった。
大柄な影が境内に落ちる。顔の刀傷を歪めながら歩いてきたのは、矢島鉄之助だった。右腕を三角布で吊り、胴には幾重にも晒が巻かれている。傷だらけの熊のような男だが、その荒々しさはどこか鳴りを潜め、肩の力が程よく抜けていた。
「おい、敬十郎。抜け駆けして茶でも飲んでるのかと思ったぜ」
「矢島殿か。そなたこそ、まだ横になっていなくて良いのか」
三輪が振り返る。かつては路上で出会えば互いに抜刀し、命を奪い合うまで止まらなかったはずの二人が、ごく自然に言葉を交わしている。その光景に、もはや何の違和感もなかった。
矢島は濡縁の柱に背を預け、ふんと鼻を鳴らした。
「寝てられるかよ。野戦病院の片付けをやってる連中を見張りに行ってたんだ。うちの若い連中も、長州の浪人どもも、互いに文句一つ言わずに担架を洗ってやがる。……まったく、妙な夢でも見ている気分だ」
矢島はそう言いながら、懐から細い煙管を取り出そうとして、包帯を巻いた腕が痛んだのか小さく顔をしかめた。
「無理に動かさないでくださいよ。せっかく綺麗に縫合した傷が開きます」
俺が注意すると、矢島は決まり悪そうに煙管を引っ込めた。あの高圧的で、怪我人を足手まといと切り捨てていた男が、医師の指示に素直に従っている。
「……相良の先生よ。俺は昔から、戦えなくなった奴は死んだほうがマシだと思って生きてきた。役に立たない命に価値なんざねえと、本気で信じてたんだ」
矢島は空を見上げ、独白のように言葉を紡いだ。
「だが、あんたは違った。俺の部下が腹を裂かれて息も絶え絶えだったとき、誰もが諦めた中で、あんただけは『まだ間に合う』と言って手を止めなかった。泥水を啜ってでも生きろと、そう背中で怒鳴られているようだったぜ。……命を無駄にしちゃならねえ。武士道だの何だのと気取る前に、生きなきゃ何も始まらねえんだな」
三輪が静かに頷き、矢島の言葉を受け止める。
「左様だな。死に場所を探す戦は、もう終わりにせねばならん」
二人の言葉を聞きながら、俺は境内の向こうに広がる空を眺めた。動乱の世にあって、死を美徳とする空気に風穴を開けることなど、転生した当初は思いもよらなかった。歴史という大きな流れの前で、一人の救命士ができることなど無力に等しいと諦めかけていた時期もあった。
だが、目の前の命を諦めず、愚直に手を動かし続けた結果が、いまここにある。
新選組でもなく、倒幕派の志士でもなく、誰の陣営にも属さない。ただ『命を救う者』として、彼らの中に不可侵の居場所を作ることができた。それは歴史の教科書には一行も残らないかもしれないが、確実にこの時代を生きる人々の心に、新しい灯火を宿したはずだ。
「さて……」
俺は立ち上がり、軽く両手で袴の埃を払った。
「そろそろ、重傷者たちの包帯を交換して回らないと。三輪さんも矢島さんも、自分の隊の連中に声をかけて手伝ってもらえますか。清潔な水と、干しておいた布が必要です」
「心得た。すぐに向かわせよう」
三輪が立ち上がり、淀みのない礼をして歩き出す。
「へっ、人使いの荒い神医様だぜ。だがまあ、恩返しだ。とびきり頑丈な奴らを寄越してやるよ」
矢島も獰猛な、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべ、本堂の裏手へと去っていった。
朝の涼やかな風が吹き抜け、境内の木々を優しく揺らす。薬草を煎じる懐かしい匂いが、湯気と共にふわりと漂ってきた。
激動の時代はこれからも続き、多くの試練が待ち受けているだろう。それでも、俺がやるべきことは最初から何も変わっていない。
白木綿の襷をきつく締め直し、俺は患者たちが待つ本堂の扉へと、迷いのない足取りで踏み出した。




