第30話
本堂の扉を開けると、そこには静けさが満ちていた。
あれほど混沌を極めていた臨時の野戦病院は、幾日もの処置と看護を経て、驚くほど整然とした空間へと様変わりしていた。
床に敷かれた清潔な筵の上では、かつて刃を交え合っていたはずの男たちが、等しく包帯を巻かれて穏やかな寝息を立てている。新選組の隊服を脱いだ男と、長州の浪士が隣り合い、互いの容態を気遣うように視線を交わしていた。
「誠太郎さん、煮沸した包帯が乾きましたよ! ほら、熱いうちに巻き直すんでしょ」
お春が湯気を立てる籠を抱え、早足で土間を駆けてくる。額に汗を浮かべながらも、その表情には疲れよりも確かな達成感が滲んでいた。
「ありがとう、お春さん。助かるよ。向こうの部屋の熱冷ましも頼めるかい」
「合点承知! もう、人使いが荒いんだから。でもね、あんたの無茶振りに付き合うの、あたし嫌いじゃないよ」
いたずらっぽく笑いながら、お春は薬湯の準備へと戻っていく。
その隣では、お雪が重傷者の脈を真剣な目つきで診ていた。指先の添え方、呼吸の数え方、顔色の観察。救急救命の基本を驚くほどの速さで吸収した彼女は、今や立派な医療従事者としての佇まいを見せている。
「先生、こちらの隊士さん、脈拍は安定していますが、少し熱が上がってきました。解熱の煎じ薬を飲ませてもよろしいでしょうか」
「ああ、お願いする。水分も多めに摂らせてやってくれ」
「はい、かしこまりました。……先生、皆さん、本当に助かったのですね。あの修羅場の中で、誰ひとり見捨てずに済んだなんて」
お雪の瞳に、柔らかな光が宿る。彼女の言葉に、俺は小さく頷いた。
混乱を極めたあの現場で、敵味方の区別を捨て、傷の深さだけで優先順位を決めるトリアージを断行した。怒号と抜刀の脅しが飛び交う中で、ただひたすらに命を繋ぎ止めるための手を動かし続けた。
その結果として、男たちは剣を収め、互いを運ぶ担架の担ぎ手となったのだ。誰に強制されたわけでもなく、命を救おうとする熱意の前に、争うことの虚しさを悟ったかのように。
◆ーーーー◆
野戦病院としての役目を終えた寺院を明け渡し、数週間後。
俺たちは京の町の一角に、新たな診療所を構えていた。松本良順先生の計らいによって幕府からの公認を得た、いかなる身分の者も拒まない常設の救護所だ。
通りに面した格子戸からは、やわらかな木漏れ日が差し込んでいる。薬草を煎じる香ばしい匂いと、消毒に用いる精製酒の清冽な香りが漂っていた。
「相良君、調子はどうかな」
威厳のある声とともに、松本先生が土間に姿を現した。着物の裾を軽く払い、診療所の中を見渡して満足そうに髭を撫でる。
「松本先生。わざわざお越しいただきありがとうございます」
「なに、君の顔を見に来ただけさ。それにしても、見事なものだな。幕府の役人も、洛中に潜む志士たちも、この場所だけは決して侵そうとしない。君の作った『命の平等を守る場』は、すでに京の生きた法となりつつある」
松本先生の言葉通り、待合の土間には奇妙で、そして温かな光景が広がっていた。
羽織の紋を隠した新選組の隊士が、腕の傷の経過を見せにやってきている。そのすぐ隣の長椅子には、笠を目深に被った討幕派の浪士が腰を下ろし、静かに順番を待っていた。
街中で出会えば即座に斬り結ぶはずの者たちが、ここでは一切の殺気を消し去っている。ただの「患者」として、同じ痛みを抱える人間として、互いに黙礼を交わし合っていた。
「先生の治療を受けに来る連中は、みな心得ております。ここで刃傷沙汰を起こせば、二度とこの場所で命を救ってもらえなくなる。それ以上に、命を懸けて自分たちを救ってくれた先生への恩義を、誰も汚したくはないのでしょう」
お雪が薬包を丁寧に折りながら、誇らしげに微笑む。
お春もまた、薬研を動かす手を休めて胸を張った。
「そうよ! 誰が偉いとか強いとか、そんなの関係ないんだから。血を流して痛い思いをしてるのはみんな一緒。それを一番分からせてくれたのが、うちの先生なんだからさ」
二人の言葉を聞きながら、俺は手元の木板に患者の容態を書き留めていく。
死を美徳とし、散ることを誇りとしていた幕末の武士たち。だが、過酷な現場で死線の淵から引き戻された彼らは、生きることの尊さと、命を無駄にしてはならないという新たな価値観を手に入れたのだ。
歴史の表舞台で名を馳せることはない。教科書に俺の名が載ることもないだろう。
だが、特定の陣営に属さず、すべての命を平等に救う「不可侵の神医」として、確かにこの時代の人々の心に楔を打ち込むことができた。
「相良君、君が持ち込んだ知見は、いずれこの国の医学を大きく変えることになるだろう。だが焦ることはない。今はただ、君の信じる医の道をここで示し続けてくれればよい」
松本先生が力強く俺の肩に手を置いた。
「はい。俺にできるのは、目の前の命に対して全力を尽くすことだけですから」
◆ーーーー◆
午後の診療が始まり、格子戸が静かに開かれた。
「先生、頼もう。……稽古でちと、肩を痛めちまってな」
入ってきたのは、かつて野戦病院で部下の命を救われた新選組の隊士だった。以前のような険呑な気配は微塵もなく、照れくさそうに頭を掻いている。
「どうぞ、こちらの台へ。肩の可動域を確認させてください」
俺は白木綿の襷を締め直し、穏やかな声で迎えた。
指先で鎖骨と肩甲骨の位置関係を素早く触診し、筋肉の緊張と炎症の度合いを測る。現代のような画像診断装置はないが、救急救命の現場で培った指先の感覚と解剖学の知見が、患部の状態を正確に伝えてくれる。
「骨に異常はありませんね。強い打撲による炎症です。冷湿布で熱を取り、三日ほど安静にしていれば腕は上がりますよ」
「そうか……ありがてぇ。先生に診てもらうと、不思議と痛みが引く気がするぜ」
男は心底ほっとしたように息を吐き、深々と頭を下げた。
続いてやってきたのは、近所の長屋に住む幼い子どもを連れた母親だった。身分も、所属も、貧富の差も関係ない。痛みを抱え、助けを求める者がいれば、俺はただその手を差し伸べる。
前世での過労死、救えなかった命への無念。転生した当初は、何もない幕末の医療環境に絶望し、運命に抗うことを恐れた夜もあった。
だが、今は違う。
即席の道具であっても、限られた薬草であっても、命を救いたいという意志と知識があれば、人は人を救うことができる。敵味方の垣根を越えて手を取り合う奇跡を、この目で確かに見てきたのだから。
「先生、次の方どうぞ!」
お春の元気な声が診療所に響き渡る。
「お茶を淹れてまいりました。先生も、少し喉を潤してくださいね」
お雪が湯飲みの乗った盆を運び、柔らかく微笑みかけてくれる。
頼もしい仲間たちがいて、信頼を寄せてくれる患者たちがいる。激動の時代にあって、俺は救急救命士としての確かな居場所を、この幕末の京の町に見出すことができた。
懐に手をやると、針の止まった古い懐中時計が収まっている。もはや幻聴の秒針が俺を追い立てることはない。俺自身の確固たる歩調で、今この瞬間を生きているのだから。
格子戸の向こうには、澄み渡る青空がどこまでも広がっていた。
「よし、次の患者さんを診よう」
俺は充実感に満ちた息を静かに吸い込み、温かな笑顔で診察室の扉を開けた。




