第28話
本堂の濡縁に腰を下ろし、夜露を含んだ空気を深く吸い込んだ。両手の平を広げると、爪の間にわずかに残った赤黒い染みが目に入る。何度井戸水で洗い流しても、鉄の匂いだけは肌の奥に染みついて離れなかった。
大通りでの激突が収束してから、丸二日が過ぎていた。運び込まれた負傷者は六十名を超えた。新選組の隊士も、長州や土佐の志士も、町人までもが混ざり合い、堂内は足の踏み場もない修羅場と化していた。
あの混乱の中、俺は無我夢中で色分けの木片を割り振り、処置の優先順位を定めた。胸を刺された重傷者には即座に太い針で気胸を逃がし、動脈を断たれた男には煮沸した木綿糸で血管の結紮を施した。息つく暇すらなく両手を動かし続けた。
奇跡と呼ぶべき光景が生まれたのは、その最中だった。誰からともなく刀が床に置かれ、いがみ合っていたはずの男たちが互いの包帯を押さえ、煮沸消毒用の湯を沸かすために薪をくべ始めた。血を流し、呻く仲間を救いたいという一心の前では、佐幕も倒幕も消え失せていた。
「……見事な静けさだな、相良君」
背後からかけられた落ち着いた声に、肩の力を抜いて振り返った。現れたのは、藍色の羽織を端正に着こなした松本良順先生だった。
「松本先生。わざわざ足を運んでくださったんですか」
「幕府の軍医頭としてではなく、一人の医師として見に来たのだよ。君がこの寺院で成し遂げたことをね」
良順先生は静かに歩み寄ると、俺の隣に腰を下ろした。その視線は、堂内で穏やかな寝息を立てている負傷者たちへと向けられている。新選組の羽織を着た男と、浅葱色の着物を裂いて包帯にした浪士が、同じ板敷きの上で隣り合って眠っていた。
「敵味方の隔てなく治療を施し、武士たちに刀を置かせた。そればかりか、あれほど過酷な状況で命を落とした者が、わずか数名にとどまったと聞く。前代未聞の成果だ」
「俺一人でできたことじゃありません。手伝ってくれた助手たちや、あの場にいた全員が必死に動いてくれた結果です」
「謙遜する必要はない。君が示した徹底した命への執念が、彼らの狭量な誇りを打ち砕いたのだ。死ぬことこそが武士の本懐だと信じ切っていた連中が、生き延びること、そして生かすことの尊さに目覚めた。それは剣術の腕前や政治の弁舌では決して成し得ない変革だ」
良順先生は懐から一通の書状を取り出し、俺に差し出した。
「幕府上層部ならびに京都守護職に対し、この診療所を『中立救護所』として正式に承認させた。いかなる藩の役人も、隊士も、ここへ土足で踏み込んで捕縛を行うことは許されない。君が望んでいた、何者にも脅かされない場所だ」
「……ありがとうございます。これで、運ばれてきた人間を怯えさせずに済みます」
紙面を受け取ると、墨の重みとともに、肩にのしかかっていた不可視の圧力がすっと和らいでいくのを感じた。身分や陣営を問わず救うという方針を、権力の側から不可侵として認めさせたのだ。
だが、良順先生の用件はそれだけではなかった。先生は懐に再び手を差し入れ、今度は古びた一冊の帳面を取り出した。表紙には見覚えのある、几帳面な筆跡が残されている。
「これは……江戸の、師匠の」
「そうだ。江戸を立つ直前、宗庵先生から預かってきた。先生は君の型破りな治療法を目の当たりにするたび、困惑しながらも細かく書き留めておられたそうだ」
良順先生は頁をめくり、ある箇所を指で示した。そこには墨筆で、奇妙な文字列が並んでいた。
『TORIA-JI』『KETSUZATSU』『SHOUKYOKU-SHO』
オランダ語ではない。それは紛れもなく、アルファベットで音写された現代の医療用語だった。
「最初は蘭語の暗号かと思った。しかし、長崎で学んだどの医学書にも、このような単語は存在しない。君が咄嗟に口走る言葉、器具の扱い、人体の構造に対する理解……どれをとっても、現行の西洋医学すら遥かに超越している」
良順先生の双眸が、探求者特有の静かな熱を帯びて俺を捉えた。詮索や疑念の色はない。ただ純粋に、真理に対する敬意だけがそこにあった。
「君の医術は、数十年、いや数百年先の未来から届いた光なのだろう。その出所を無理に問うつもりはない。だが相良君、この知識を君一代の奇跡で終わらせてはならない」
「先生……」
「体系化し、書物として残すのだ。この国が近代へと歩みを進める際、君の遺す知見は無数の命を救う礎となる。私と共に、新たな医学の書を編纂してくれないか」
胸の奥がじんわりと熱くなった。前世で培った救命の技術は、この時代では異端でしかなかった。けれど、目の前の先達はそれを否定せず、未来へ繋ぐべき灯火として受け止めようとしてくれている。
「喜んで。俺に伝えられることなら、すべて書き残します」
深く頷く俺を見つめ、良順先生は満足そうに相好を崩す。
そのとき、境内の木戸が軋む音が響いた。重い荷車を引く足音とともに、聞き慣れた軽妙な声が夜気に混ざる。
「へえ、旦那! 頼まれてた最後の荷、きっちり届流し込みやしたぜ!」
手ぬぐいを首に巻いた辰吉が、汗を拭いながら荷車を押して現れた。荷台には厳重に縄で縛られた大樽と、木箱が積み上がっている。
「辰吉、こんな夜更けに……」
「堺の商人から巻き上げた極上の蒸留酒と、大坂の問屋を脅して手に入れた上等の晒し木綿でさあ。街道の関所が物々しくて骨が折れやしたが、あっしの顔利かせりゃあ造作もねえ」
辰吉は荷車の引き手を下ろすと、大仰に肩を回してみせた。その着物の裾は泥だらけで、足袋の先には穴が空いている。どれほど危険な道を強行軍で走り抜けてきたかは一目瞭然だった。
「松本の大先生までいらっしゃるとは、こりゃ豪勢な顔ぶれだ。どうです旦那、あっしも少しは役に立ったでしょうが」
「少しどころじゃない。お前がいなきゃ、この野戦病院は初日で干上がってたよ。本当に助かった」
心からの感謝を伝えると、辰吉は気恥ずかしそうに鼻の頭を擦った。
「よしてくんなせえ。あっしはただ、旦那が無茶苦茶な大博打を打つもんだから、乗っかっただけです。敵も味方も関係なく助けるなんて、正気の沙汰じゃねえ。……けどまあ、あんな修羅場を引っ繰り返してみせたんだ。手伝った甲斐があったってもんですよ」
飄々とした台詞の裏に、裏方として現場を支え切った確かな矜持が滲んでいた。
良順先生が手配してくれた公的な後ろ盾。辰吉が命がけで繋いでくれた物資。そして、堂内で負傷者たちの看病を続けているお春やお雪の存在。俺の技術だけでは、何一つ成し得なかった。この時代で出会った人々が、それぞれの立場で命を繋ぐために手を尽くしてくれたからこそ、ここに奇跡の輪が結ばれたのだ。
「さて、物資の検分を済ませたら、明日の巡回記録をまとめ直さねばな」
良順先生が立ち上がり、着物の裾を払った。
「相良君、夜明けにはまた新たな患者が来るかもしれん。少しは体を休めておきなさい」
「はい。ありがとうございます、松本先生」
帳面を抱えた良順先生が宿坊へと去り、辰吉も手早く荷を降ろして裏手へ消えた。
一人残された濡縁で、東の空を見上げた。夜の帳がわずかに薄れ、藍色の空の端が淡い白へと移り変わり始めている。
懐に手を入れ、壊れた懐中時計に触れた。金属の冷たい感触が指先に伝わる。かつては焦燥や後悔の象徴のように思えたその重みが、今はただ、自分が歩んできた時間を静かに物語っているように感じられた。
戦の炎が完全に消え去ったわけではない。この先も激しい時代の転換が続き、傷つく者たちは絶えないだろう。だが、一度灯された命への敬意は、決して消えることはない。
朝霧の向こうから、鳥のさえずりが微かに聞こえてきた。新しい一日が、静かに始まろうとしていた。




