第27話
朝日が本堂の格子戸を抜け、板敷きの上に長い影を落としていた。
昨夜の血生臭い空気は薄れ、代わりに煮沸した木綿の匂いと、強い消毒用清酒の香気が堂内に満ちている。激しい混乱を極めた野戦病院は、一夜明けて新たな秩序を取り戻しつつあった。
「誠太郎先生、東側の縁側に運ばれてきた三名、状態の確認を終えました」
澄んだ声とともに、お雪が手際よく揃えられた木札を差し出してくる。その表情には疲労の色が濃くにじんでいたが、瞳は驚くほど澄み切っていた。
「一番右の御方は右腕の筋を切られていますが、止血は保たれています。黄色札を。真ん中の御方は呼吸が浅く、顔色が紙のように白い。脈も細く乱れておりますので、赤札にいたしました。左の御方は額を浅く切られたのみです。緑札で待機をお願いしてあります」
「完璧だ、お雪さん。赤の患者からすぐに処置に入る。湯と清潔な布を頼めるか」
「はい、すぐにご用意いたします」
お雪は腰布を締め直し、素早い足取りで奥の土間へと駆けていった。彼女のトリアージの精度は、現代で救急医療を叩き込まれた看護師のそれと比べても遜色がない。昨日まではただの町娘だったはずなのに、この極限状態の中で、命の優先順位を見極める鋭敏な感覚を一気に開花させていた。
「ちょっとあんたたち、突っ立ってないで手を動かしな! ほら、そこの浅黄色の羽織! そっちの黒羽織のあんたの肩を貸してやりなよ! 運ぶ先は西の畳の間だよ!」
反対側からは、お春の威勢のいい声が響き渡る。袖をたすき掛けにしたお春が、柄杓を片手に男たちを怒鳴りつけていた。
怒鳴られた新選組の平隊士と、長州の脱藩浪士が顔を見合わせる。本来なら道端ですれ違っただけで刀を抜き合う間柄だ。だが、お春の気迫に圧されたのか、二人は苦笑いを浮かべながら互いの身体を支え合い、指示された場所へと歩き出した。
「お春、煮沸した木綿糸の予備はまだあるか?」
「とっくに大鍋で煮出して、冷ましてあるよ! あんたの無茶振りには慣れっこなんだから。ほら、針も酒で拭いておいたよ!」
お春が真新しい布に包んだ縫合針と木綿糸を盆に乗せて持ってくる。文句を並べ立てながらも、その手際は寸分の狂いもない。彼女とお雪という二人の強力な助手がいるおかげで、この即席の野戦病院は驚くべき効率で回転していた。
俺は息を深く吸い込み、赤札の貼られた浪士の前に膝をついた。
男の胸元には、深く斬り込まれた創口があった。傷口から空気が吸い込まれ、微かに泡立っている。緊張性気胸を起こしかけている兆候だった。
「お雪さん、油紙と清潔な布を。三辺を塞いで一辺を開ける」
「はい、こちらに」
差し出された油紙を手早く傷口に当て、三方向だけをしっかりと布で固定する。即席のチェックバルブだ。息を吐くときにだけ胸腔内の空気が逃げ、吸うときには弁が閉じて外気を吸い込まない。
処置を終えた瞬間、苦悶に歪んでいた男の胸が大きく上下し、深い呼吸が戻った。浅黒かった唇に、わずかに赤みが差す。
「……す、すまねえ……」
「喋らなくていい。傷口を縫い合わせるから、少し痛むぞ」
煮沸した木綿糸を通した針を走らせる。運針の速度を限界まで引き上げ、出血点を確実に結紮していく。前世の現場で培った指先の感覚が、幕末の粗末な道具の限界を補っていた。迷いを捨て、ただ最短の手順で命の綻びを塞ぐ。
その周囲には、いつの間にか幾人もの武士たちが集まっていた。
浅葱色の羽織を着た新選組の隊士も、着流しの志士たちも、息を呑んで俺の手元を見つめている。誰一人として刀の柄に手をかけている者はいなかった。血肉を削り合うはずの男たちが、ただ一人の人間が救われていく様を、祈るような沈黙で見守っている。
処置を終え、最後の一結びを切り落としたとき、自然と周囲から微かな吐息が漏れた。
「助かった……のか?」
誰かの呟きに、俺は血のついた手ぬぐいで額の汗を拭いながら頷いた。
「山は越えた。あとは安静にして、湯を少しずつ飲ませてやってくれ」
その言葉を合図にしたように、場が動いた。
新選組の隊士が、怪我を負った長州浪士の背中をそっと支えて寝かせ直す。別の志士が、手持ちの革水筒を差し出して隊士に渡す。誰が命じたわけでもない。憎悪や大義名分よりも先に、目の前の傷ついた同胞を助けたいという衝動が、彼らの身体を動かしていた。
「誠太郎先生」
後片付けをしていたお雪が、立ち止まって俺を見た。その瞳には、揺るぎない光が宿っていた。
「私、決めたんです。ここ京都で、先生のお手伝いを続けさせてください」
「お雪さん、ここは危険だ。いつまた戦火に巻き込まれるか分からない」
「知っています」
お雪は静かに微笑んだ。その柔らかな笑みの中に、鋼のような強さがあった。
「でも、刀を持たない私にも、ここでなら守れる命があります。先生が創り出そうとしているこの場所を、私も一緒に支えたいのです」
その言葉に、偽りは微塵もなかった。隣で聞いていたお春も、珍しく茶化すことなく、力強く頷いている。
頼もしい二人の助手に背中を押されるように、俺は次の患者の待つ畳へと向かった。
正午を過ぎる頃には、境内に運び込まれていたすべての重症者の処置が完了していた。堂内には穏やかな静けさが広がり、規則正しい寝息と、薬湯を煎じる微かな音だけが響いている。
ふと、本堂の入口の障子が開いた。
音もなく入ってきたのは、端正な身なりの男だった。長身を包む着流しには塵一つなく、その落ち着いた立ち振る舞いは、周囲の荒々しい武士たちとは一線を画している。
桂小五郎だった。
彼は堂内に足を踏み入れると、ゆっくりと視線を巡らせた。新選組の隊士と倒幕派の志士が、同じ畳の上で背中を預け合い、静かに眠っている光景。刀を壁に立てかけ、互いの包帯の巻き具合を確認し合う男たちの姿。
その異様な、だがどこまでも穏やかな光景を、桂は驚きと深い感慨を湛えた眼差しで見つめていた。
「……これは、まことに奇妙で、美しい眺めだな」
桂が静かに呟き、俺の前に歩み寄ってきた。
「桂さん。視察ですか」
「いや、礼を言いに来たのだよ、誠太郎君。我が藩の同志たちを、敵味方の区別なく救ってくれたと聞いた」
桂は腰の刀に手をやることもなく、ごく自然に膝を折って俺と視線を合わせた。その瞳には、策士としての鋭利さの奥に、澄んだ敬意が宿っている。
「武士とは、散り際を美しく飾ることこそを誉れとしてきた。大義のために命を捨てることこそが至高だと、私もそう信じ込もうとしていた節がある」
桂は自嘲気味に口元を緩め、眠る志士たちを見やった。
「だが、君のこの場所を見て、思いを改めたよ。死んで名を残すことよりも、生きて次の時代を見届けることの方が、遥かに尊く、難しい。君は彼らに、生き延びるという意味を教えてくれたのだな」
「俺はただ、目の前で助かる命を放っておけなかっただけです」
「その無欲な執念こそが、この奇跡を生んだのだろう」
桂は真摯な面持ちで頭を下げた。
「長州藩として、この寺院の周辺における一切の私闘を禁じる布告を出した。新選組の近藤殿とも、すでに使者を通じて話をつけてある。この野戦病院は、いかなる陣営からも不可侵の地とする。医薬品や白布の調達も、我が藩が全責任を持って支援しよう」
それは、幕末という狂乱の時代において、一人の町医者に与えられた破格の特権だった。
特定の派閥に組みすることなく、ただ純粋に命を救うための聖域。歴史の表舞台には記録されないかもしれないが、確かにこの場所は、争いを止めるための希望の楔となっていた。
「ありがとうございます、桂さん。ありがたく使わせてもらいます」
「礼を言うのはこちらだ。君の医術と志が、いつかこの国全体を癒やす日が来ることを願っているよ」
桂は穏やかに微笑むと、音もなく立ち上がり、再び静かな足取りで本堂を後にした。
格子戸の隙間から差し込む光が、堂内を黄金色に染め上げていく。
傍らに立つお春とお雪が、安堵したように顔を見合わせていた。眠る患者たちの胸は、力強く、等しいリズムで上下している。
時代は確実に動いている。その大きなうねりの中で、俺たちが守り抜いた命が、新たな未来へと静かに息づいていた。




