第26話
本堂を満たす血と消毒用の強い酒の匂いが、夜の冷気と混ざり合っていく。
次々と運び込まれてくる負傷者の列は、まだ途切れていなかった。門の外で行われていた激しい衝突の余波は収まりつつあったが、堂内は依然として野戦病院としての機能を極限まで問われていた。
「赤! この人は右の大腿部から拍動性の出血がある。すぐに奥の板の間へ運んでくれ! 黄色はそっちの濡れ縁で圧迫止血を継続! 緑の者は自分で手拭いを巻いて座っていろ!」
俺は息をつく間もなく声を張り上げ、持ち込まれた負傷者の手首に指を当て、頸動脈を探り、傷口の深さを瞬時に見極めていく。
担架代わりに雨戸を担いできた新選組の隊士が、荒い息を吐きながら叫んだ。
「先生、こいつは尊攘派の浪士だ! だが、息が浅くて……!」
「所属はどうでもいい。命の重さに敵も味方もあるか。急いでここへ寝かせろ!」
俺は木綿の布を裂いた帯を傷口の根元に巻き、短い棒を差し込んで強く捻り上げた。即席の緊縛止血だ。激しい出血がぴたりと止まるのを確認し、煮沸消毒しておいた針と木綿糸を手に取る。
「傷口を洗う酒を持ってこい! お春さん、傷口を固定してくれ!」
「あいよ! 酒ならまだ奥に樽があるよ、すぐ持ってくる!」
駆け戻ったお春が、瓶の酒を傷口へ一気に浴びせかけた。浪士が悲鳴を呑み込んで仰け反る間に、俺は湾曲した針を皮膚へ滑り込ませ、筋層ごと裂傷を縫い閉じた。
かつては互いに刃を向け合っていた者たちが、今は互いのために動いていた。
新選組の平隊士が倒幕派の浪士の傷口を布で強く圧迫し、血の気を失った浪士が浅黄色の羽織を着た男に水筒の水を飲ませている。刀を抜く者など、ここにはもう一人もいなかった。
ただ一人でも多くの命を救い上げる。その狂気じみた作業の渦に巻き込まれるうちに、誰もが我を忘れ、目の前の誰かの命を繋ぎ止める手助けをしていた。
死を覚悟して戦場に出たはずの男たちが、血を流しながらも必死に生きようとあがき、隣の敵を助けようとしている。俺の圧倒的な処置の手際と、どんな傷でも決して見捨てない姿に気圧され、この空間そのものが奇跡のような休戦地帯へと変わっていた。
夜明けが近づき、運び込まれる負傷者の数がようやく途絶え始めた頃、堂内には静寂が戻りつつあった。
処置を終えた重傷者たちが、規則正しい寝息を立てている。
俺は縁側に座り込み、冷たい空気を肺腑の奥深くまで吸い込んだ。両手はすっかり血と酒にまみれ、指先は疲労で微かに震えていた。
ふと視線を感じて本堂の片隅に目をやると、薄暗い柱の陰で、敷布の上に寝かされていた男が身体を起こしていた。
黒鉄蔵人だった。
深手を負い、先刻まで生死の境を彷徨っていたはずの男だ。縫合した傷口を庇うように片手を当て、虚ろな、だが深く揺らぐ瞳で俺を見つめている。
「……なぜだ」
掠れた声が、静かな堂内に落ちた。
「俺は、貴様を殺そうとした。革命を邪魔立てする障害として、排除するはずだった男だ」
黒鉄の息はまだ荒い。だが、その声には以前のような氷のような冷酷さはなく、自らの存在理由を揺るがされた者の深い混迷が滲んでいた。
「大義のために命を捨て、敵の命を奪う。それが武士の道であり、世を変えるための唯一の術だった。……それを、貴様は」
俺は懐から手拭いを取り出し、指先の乾いた血を拭いながら静かに答えた。
「どんな大義があろうと、死んだら終わりだ。俺の仕事は命を救うことだ。目の前で消えかかっている火を消す理由なんて、どこにもない」
「……敵を救えば、また新たな敵を生むだけだとは思わんのか」
「その先でどう生きるかは、助かったあんた自身が決めることだ。俺はただ、生きるための時間を繋いだに過ぎない」
黒鉄は息を呑み、血に染まった己の掌をじっと見つめた。
大義のために命を使い捨てるという冷酷な論理は、泥臭く自分を救い上げた手の温もりを前に、完全に崩れ去っていた。
黒鉄は何も言わず、痛む身体を無理に支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
止める者はいなかった。周囲にいた浪士たちも、新選組の者たちも、ただ無言でその背中を見送った。
黒鉄は本堂の裏口へと歩みを進め、一度だけ立ち止まった。振り返ることはなく、ただ朝霧の立ち込める外の闇へと、音もなく姿を消していった。
彼が再び暗殺者として刀を振るうことは、もう二度とないだろう。その確信だけが、俺の胸の中に静かに残った。
「……先生」
太く重い声がかけられ、俺は顔を上げた。
筋骨隆々の巨躯に、顔の大きな刀傷。新選組の矢島鉄之助が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。
以前のような荒々しい威圧感は消え去り、その表情には深い疲労と、それ以上の畏敬が刻まれていた。
矢島は俺の数歩手前で足を止めると、袴の裾を正し、床に両膝をついた。そして、音を立てて深く頭を下げた。
「矢島さん……? 急にどうしたんだ」
「礼を言わせてくれ」
矢島は頭を下げたまま、絞り出すように言った。
「俺はこれまで、怪我をして戦えなくなった部下を足手まといと見なし、切り捨てることこそが武士の厳格さだと信じて疑わなかった。命を惜しむなど、軟弱者の戯言だと蔑んでいた」
矢島の肩が微かに震えていた。
「だが……貴様が敵味方の境もなく、血みどろになって部下の命を拾い上げる姿を見て、俺は己の浅ましさを思い知った。死ぬことよりも、生き抜くことのほうが遥かに過酷で、そして尊いのだと」
矢島は顔を上げた。その双眸には、迷いのない光が宿っていた。
「俺の部下の命を救ってくれたこと、心より感謝する。……そして誓おう。この矢島鉄之助の命がある限り、貴様のこの場所を、貴様の医術を侵そうとする者は、何者であろうとこの刀で叩き斬る」
「……俺の護衛をするって言うのか」
「護衛などという生易しいものではない。貴様が貫くその医の道を、俺の武士道にかけて守り抜くということだ」
誇り高い男が、特定の権力や組織のためではなく、ただ一人の医者の信念に対して頭を垂れている。
死を美徳とし、命を散らすことこそを誉れとしていたこの幕末の時代に、命を繋ぐことの重みが確かに根付き始めていた。
新選組も、倒幕派も、この野戦病院を不可侵の聖域として認めざるを得ないだろう。特定の旗に染まらず、ただ純粋に命の灯火を守り続ける存在――歴史の表舞台には決して名を残さない、「神医」としての立場が、ここに確立されたのだ。
「……頭を上げてくれ、矢島さん。あんたの部下はもう大丈夫だ。今は少し休んでくれ」
俺がそう言うと、矢島は無骨に頷き、静かに立ち去っていった。
張り詰めていたすべての糸が、ふつりと切れた。
「うわっ……」
立ち上がろうとした瞬間、両足から完全に力が抜け、俺はその場にぺたりとへたり込んでしまった。
全身の筋肉が軋み、指一本動かすのも億劫なほどの疲労が津波のように押し寄せてくる。
「ちょっと、誠太郎さん! 大丈夫かい!」
背後から小走りな足音が響き、お春が駆け寄ってきた。手には湯気の立つ手桶と、綺麗に洗われた手拭いを抱えている。
「ああ……うん、大丈夫だ。ただ、腰が抜けちまったみたいでさ」
「情けない声を出しちゃってさ。あれだけの大立ち回り……じゃなくて大手術を何十人もやってのけたんだから、当たり前だよ」
お春は俺の隣に膝をつくと、温かい手拭いで、俺の血まみれになった両手を丁寧に拭い始めた。
冷え切った指先に、心地よい温もりがじんわりと染み渡っていく。
「……お春さんも、本当によく動いてくれた。あんたがいなきゃ、とても回らなかったよ」
「何言ってんだい。あたしはあんたの無茶振りに必死でついてっただけだよ。『酒を沸かせ』だの『糸を煮ろ』だの、もう無茶苦茶なんだから」
そう言って唇を尖らせるお春の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
ごしごしと乱暴に俺の手を拭きながら、彼女は小さく鼻をすすった。
「でも……本当によかった。みんな、助かったんだね」
「ああ。全員、息をしてるよ」
本堂の格子戸から、柔らかな朝の光が差し込んできた。
夜の闇を払い、堂内に満ちる静寂を淡く照らし出していく。そこにはもう殺気も、憎悪も、血肉の争いも存在しなかった。ただ、生き残った者たちの静かで温かな呼吸の音だけが、重なり合って響いている。
激動の時代は、これからも続くのだろう。
だが、この場所で紡がれた小さな命の連鎖は、決して消え去ることはない。
俺はお春に手を預けたまま、朝日に包まれる野戦病院の穏やかな空気を、ただ静かに噛みしめていた。




