第25話
寺院を取り囲んだ松明の火が、夜の闇を赤々と染め上げていた。
「敵を治療するような偽善の館など、灰に帰すがいい!」
怒号と共に山門が蹴破られ、黒ずくめの男たちが雪崩れ込んでくる。先頭に立つのは、冷え切った眼差しを向けた黒鉄蔵人だった。抜身の白刃が、揺れる炎を反射して鈍く光っている。
野戦病院と化した本堂には、手当てを待つ負傷者が所狭しと横たわっていた。新選組の羽織を着た者もいれば、倒幕を志す浪士たちもいる。呻き声と血の匂いが充満する中、俺はすぐさま声を張り上げた。
「動ける者は奥へ! 重傷者を壁際に寄せて、頭を守れ!」
押し寄せる暴徒に怯む暇などない。俺は手近な負傷者の手首に指を当て、脈拍を素早く確認した。呼吸は浅く、皮膚は冷たい。ショック状態だ。木片に朱色の印を書き込み、胸元に置く。
「赤だ、最優先で処置する! 湯と清潔な布を切れ目なく回せ!」
俺の鋭い指示が堂内に響き渡ると、恐怖で竦んでいた助手たちが弾かれたように動き出した。だが、その頭上へ無慈悲な影が差す。黒鉄が間合いを詰め、切っ先を俺の喉元へと真っ直ぐに向けていた。
「貴様だな、相良誠太郎。朝廷の木札など、この変革の前には無意味だ。幕府の狗を生かす者は、等しく我が刃の錆となれ」
「どいてくれ。今、この人の血を止めなきゃ確実に死ぬ」
俺は立ち上がり、黒鉄の刃を正面から見据えた。一切の暴力に訴える気はない。だが、患者の前に壁として立つことだけは、何があっても譲れなかった。
「命乞いもせぬか。ならば、その狂気ごと切り捨てる」
黒鉄の腕がしなり、鋭い斬撃が振り下ろされた。金属の擦れる甲高い音が、耳朶を打つ。
火花が散った。
「相良殿に、その汚れた刃を触れさせるわけにはいかん!」
間一髪で割り込み、黒鉄の太刀を受け止めたのは三輪敬十郎だった。かつては過激な思想に憑りつかれていた若武者の瞳には、今や迷いのない強い光が宿っている。
「三輪……貴様、同志を裏切って幕府の狗の仲間入りか」
「裏切りではない! 拙者はただ、真に守るべきものが何であるかを知ったのだ!」
三輪が力任せに刀を押し返すと、背後から重々しい足音が続いた。肩を大きく包帯で巻いた大男――新選組の矢島鉄之助が、抜刀しながら三輪の隣へと並び立ったのだ。
「おいおい、俺の部下を救ってもらった借りを、こんなところで踏み倒されちゃ寝覚めが悪いんでねえ」
矢島が獰猛な笑みを浮かべ、黒鉄を睨み据える。
「新選組と尊攘派が手を組むだと……狂っているな」
黒鉄が冷淡に吐き捨て、背後の手勢に合図を送る。一斉に斬りかかってくる刺客たちに対し、三輪と矢島が背中を合わせて迎え撃った。
倒幕の志士と、佐幕の武士。本来なら京の路地裏で互いの命を奪い合うはずの二人が、一人の医者と負傷者たちを守るために、息の合った太刀筋で敵を薙ぎ払っていく。その異様な光景に、境内のあちこちで戦っていた両陣営の者たちも、次第に息を呑んで動きを止めていった。
堂内を守る防壁となった二人の気迫は凄まじかった。矢島が剛腕を振るって敵の太刀を叩き折り、生じた隙を三輪の電光石火の突きが捉える。
「黒鉄、ここでお前の暴挙を止める!」
三輪の鋭い踏み込みに対し、黒鉄が迎え撃つ。二つの切っ先が激しく交錯した直後、矢島が横合いから強烈な体当たりを喰らわせた。体勢を崩した黒鉄の胸元へ、三輪の刀が深く薙ぎ込まれる。
鮮血が夜風に散った。
黒鉄の体から力が抜け、持っていた刀が乾いた音を立てて石畳に転がる。胸から腹にかけて大きく裂けた傷口から、夥しい量の血が噴き出していた。黒鉄はそのまま、自らの血溜まりの中へと崩れ落ちた。
「勝負あったな」
矢島が息を荒らげながら刀を収めようとした。手勢の男たちも首領の敗北を見て散り散りに逃げ出していく。
だが、俺は二人の制止を待たずに駆け出していた。
「相良殿、近寄っては危険です! そいつは貴方を殺そうとした男だぞ!」
三輪が血相を変えて叫ぶ。矢島もまた、信じられないものを見る目で俺の肩を掴もうとした。
「おい、正気か! そいつは放置すりゃ勝手にくたばる悪党だ!」
「離せ! まだ心臓が動いてる!」
俺は矢島の手を乱暴に振り払い、黒鉄の傍らに膝をついた。傷口からは鮮紅色の血液が脈打つように溢れ出ている。動脈が損傷している。あと数分も放置すれば、失血性ショックで確実に命を落とす。
「清潔な晒し布と、煮沸した木綿糸を持ってこい! 焼酎と清潔な当て木もだ、早く!」
俺の怒号のような指示に、一瞬呆気にとられていた助手たちが慌てて道具を抱えて走ってきた。
黒鉄の着物を素早く引き裂き、傷口を露出させる。右胸から腹部にかけての広範な裂傷。俺は布を丸めて傷口の奥へ強く押し込み、体重をかけて圧迫した。手のひらを通じて、黒鉄の急速に弱まっていく脈動が伝わってくる。
「……なぜだ」
血を吐きながら、黒鉄が虚ろな瞳を俺に向けた。声は掠れ、今にも途切れそうだ。
「俺は……貴様を、殺そうとしたのだぞ……。敵を救って……何になる……」
「喋るな、気道に血が入る。文句があるなら、生き延びてから言え」
俺は一切手を緩めず、傷口の止血に全神経を注いだ。指先が血で滑るのを気に留める余裕さえない。助手に傷口を強く圧迫させ、その間に露出した太い血管の断端を木製の鉗子で掴み取る。煮沸消毒した木綿糸を素早く通し、確実な結節を作って血流を遮断した。
指先を正確に動かし、迷いなく組織を縫合していく。体内へ空気が漏れ出さないよう、胸壁の傷を塞ぎ、清潔な布を幾重にも当てて強固に固定した。
額から滴る汗が、目に入って痛む。だが、瞬きすら惜しかった。前世の現場で培ったあらゆる経験と手順を総動員し、限界まで集中力を研ぎ澄ます。
処置を終え、黒鉄の頸動脈に指を添える。微弱だった脈拍が、次第に一定のリズムを取り戻し、力強さを増していくのが確認できた。浅かった呼吸も、ゆっくりとした規則的な上下動へと落ち着いていく。
繋がった。この命は、まだ消えていない。
「……止血は完了した。あとは安静にして、感染を防げば助かる」
俺が息を吐き出しながら告げると、本堂を包んでいた重苦しい静寂が、ふっと緩んだ。
周囲を取り囲んでいた新選組の隊士たちも、尊攘派の浪士たちも、誰一人として言葉を発することができなかった。自分たちを殺そうとした怨敵にすら、一切の躊躇なく全力を注ぎ、神業のような早さで命を救ってみせた男の姿を、ただ呆然と見つめていた。
抜かれていた刀が、一本、また一本と鞘へと収まっていく。
「命を無駄にするな」
俺は立ち上がり、血に染まった両手を見つめながら、静かに、だが堂内にいる全員に届く声で言った。
「大義だの誇りだのを語る前に、生きろ。生きていなきゃ、何も始まらないんだ」
その言葉は、死ぬことこそを美徳として生きてきた幕末の武士たちの胸に、深く、重く突き刺さったようだった。三輪は深く頭を垂れ、矢島は腕を組みながら何かを噛みしめるように空を仰いだ。
特定の旗を掲げず、ただ命の重さだけに殉じる医者。この混沌とした動乱の渦中にあって、不可侵の領域として存在するその意味を、ここにいる誰もが肌で理解していた。
担架に乗せられ、本堂の奥へと運ばれていく黒鉄が、薄れゆく意識の中でじっと俺を見つめていた。その瞳から冷酷な光は消え去り、自らが信じてきた世界の根底を覆されたような、深い混迷が揺らめいていた。




