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銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第三章「黒蠍(サソリ)・追跡編」

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第32話 事件

静寂に包まれていた九条のラボは、突如として阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。

「……九条、死ねぇぇ!」

愛弟子の口から放たれた、信じがたい呪詛の言葉。

首を絞め上げられ、意識が遠のく九条。

そこに踏み込んだ近藤刑事が見たのは、獣のような怪力で暴れる無垢な少女の姿だった。

絡み合う殺意の香りと、防衛の残香。

脳が焼き切れる寸前の向日葵を救うため、九条は最後の一手に手を伸ばす。

「……刑事さん、抑えてくれ……ッ!」

叩き割られた瓶から放たれる、鋭利な「メントールと沈香」。

その香りは、呪縛を断ち切る救済となるのか、それとも――。

「ガシャァンッ!!」

ガラス瓶やら、その辺の物が散乱し紙が舞い降る。

緊迫した状況。


背後から組み付いた向日葵の筋力は、小柄な少女のものとは思えないほど強靭だった。九条の喉元に食い込む白い指先。それは、かつて香料の瓶を愛おしそうに眺めていた、あの優しい手ではなかった。


「……向日葵、やめろ……ッ、あ……あぁぁぁ……!!」


向日葵の喉から、獣のような、あるいは壊れた楽器のような悲鳴が漏れる。


不敵な笑みの向日葵「…九条死ねぇぇ!」


その瞳は虚空を見据えたまま、ただ「目の前の男を殺せ」という嗅覚の命令に従っていた。

その時、ラボの重厚な防音ドアが勢いよく蹴破られた。


「九条! 何事だッ!?」


飛び込んできたのは、近藤刑事だった。

彼が目にしたのは、床に組み伏せられ、教え子に首を絞められている無残な九条の姿。


「なっ……向日葵ちゃん!? 離れろ、何をしてるんだ!」

相手が、日頃からやさしいオーラを纏った少女であるはずの向日葵だと気づき、その手が凍りつく。


九条「刑事さん……来るな! 彼女は……操られているだけだ!」


九条は、窒息しそうな声を絞り出す。


近藤は迷いを振り切り、「何言ってる!殺されるぞ!!止めてくれぇぇ!」


向日葵の背後からその細い腕を固めようと飛びかかった。


「クソッ、なんて力だ……! 向日葵ちゃん、正気に戻れ! 俺だ、近藤だ!」


百戦錬磨の刑事である近藤でさえ、向日葵の異常な抵抗に手こずる。彼女の体からは、あの「白百合と薬品」の臭気が、九条のネロリの香りと混ざり合い、爆発的な刺激臭となってラボを満たしていた。


「……あ、あああああッ!!」


向日葵が叫ぶ。その声に呼応するように、彼女の鼻血がポタポタと九条の白衣を汚した。脳への過負荷オーバーロード。蠍の植え付けた暗示が、彼女の

精神を内側から焼き切ろうとしている。


「九条! このままじゃ向日葵は……!」


近藤の叫び。九条は朦朧とする意識の中で、作業台の上に転がっていた一本の試作香料へと手を伸ばした。


「……刑事さん……抑えてくれ…ッ!」


九条は、自ら調合した「対抗香料アンチドート」の瓶を叩き割った。


瞬時に広がる、突き抜けるような**「メントールと沈香じんこう」**の鋭い香り。


それが、向日葵の脳を支配していた白百合の甘い呪縛を、物理的に「断ち切る」ための最後の一手だった。


力無く倒れる向日葵。散乱した部屋の悲惨さが、浮かび、九条は、頭を抱えていた。


第32話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、ついに「事件」が起きてしまいました。

パフューマーとしての九条が最も恐れていた事態。それは、自分の調香した香りが引き金となり、大切な人を怪物に変えてしまうこと。近藤刑事の介入により最悪の事態は免れましたが、向日葵の精神に刻まれたダメージと、荒れ果てたラボの光景は、九条の心に深い爪痕を残しました。

「メントールと沈香」の香りで一時的に沈静化した向日葵。

執念のパフューマーが挑む、次なるステージにご期待ください!

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