第31話 囚われの向日葵
救い出したはずの少女。
しかし、その静かな眠りは、嵐の前の静寂に過ぎなかった。
九条ナギが背を向け、白衣を脱ぎ捨てたその刹那。
ラボの静寂を切り裂き、無垢なる少女は「凶器」へと変貌する。
血のように紅く染まった瞳。
彼女を突き動かすのは、九条自身が纏う「ネロリ」の香りに呼応した呪いの旋律。
「先生……先生だけは、私が……」
恩師の喉元に食い込む、震える白い指先。
パフューマー・九条ナギに突きつけられたのは、
世界で最も切なく、最も鋭利な「殺意」の香りだった。
九条の秘密ラボ。
無機質なLEDの光が照らす空間で、向日葵は深い眠りに落ちていた。
九条は、彼女の衣服から採取した微量成分を分析にかけた。ガスクロマトグラフィーが吐き出す波形を凝視する彼の顔が、驚愕と、そして沸き立つような怒りに歪んでいく。
「……これは、ただの向精神薬じゃない」
特定の周波数の音、あるいは――『特定の香りの再来』。
それらをトリガー(引き引き金)として脳の扁桃体を過剰刺激し、理性を焼き切る。後天的に埋め込まれた「条件付け」の痕跡。
今の向日葵は、鏡のように静かな湖面だ。
だが、ひとたび『鍵』が回れば、彼女の深層心理に植え付けられた偽りの憎悪が爆発する。
その刃が向けられるターゲットは、他でもない。
「……私か」
九条は、ベッドで眠る彼女の、小さく白い手を見つめた。
その指先が、無意識に、微かに、ぴくりと跳ねる。
パフューマーの瞳に、復讐と救済を誓うギラついた光が宿った。
彼は背を向け、白衣を脱ぎ捨てて向日葵の「対抗香料」を調和しようと作業台へ向かう。
その瞬間。
静寂に包まれていたラボに、衣擦れの音が響いた。
「……向日葵?」
九条が振り返ろうとした、その刹那。
眠っていたはずの向日葵が、凄まじい瞬発力でベッドから飛び出し、九条の背中に襲い掛かった。
「……ッ!?」
彼女の両手は、まるで獣の爪のように鋭く、九条の首を絞めようと伸びる。
その瞳は、先ほどまでの灰色ではなく、血のように紅く、殺意に染まっていた。
彼女を支配していたのは、あの白百合の残香が、九条の纏うネロリの香りに反応して引き起こした、暴走だった。
「先生……! 先生だけは……私が、殺してあげる……!!」
向日葵の口から、彼女のものではない、呪詛のような声が漏れる。
「蠍」の呪いが、今、最も残酷な形で覚醒した
第31話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回はついに、向日葵の中に眠っていた「条件付け」が発動しました。
パフューマーとして、相手をリラックスさせたり魅了したりするために纏う香りが、まさか愛弟子を暴走させるトリガーに設定されているとは……。蠍の悪趣味さと用意周到さが、九条のプライドを完膚なきまでに叩き潰そうと迫ります。
この絶体絶命の密室に、果たしてあの男の助けは間に合うのか。
そして、九条は自分を殺そうとする向日葵を、その手で止めることができるのか。




