表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第三章「黒蠍(サソリ)・追跡編」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/31

第29話 フェイク

静まり返る横浜公園。

噴水の水しぶきが舞う中、九条ナギは愛弟子の姿を捉える。

「……先生?」

差し出されたその手は、かつての温もりを宿しているはずだった。

だが、超一流のパフューマーである九条の鼻腔を襲ったのは、彼女が愛したネロリの清廉な香りではない。

脳の髄まで痺れさせる、白百合と薬品が混ざり合った「支配」の残香。

「蠍」が仕掛けたのは、調香師のプライドを蹂躙する、逃げ場のない嗅覚の檻。

抱きしめた腕の中で、少女の心は遠い深淵へと沈んでいく。

稀代のパフューマー・九条ナギ。その瞳に宿ったのは、静かな絶望か、それとも――。

〜横浜公園、噴水広場〜


深夜の公園は静まり返り、噴水の水音だけが虚しく響いている。街灯に照らされた水しぶきが、まるで銀細工のように美しく、そして冷酷に舞っていた。

九条はポルシェを止め、一人、広場の中央へと歩を進める。


掌の傷がズキズキと疼く。だが、その痛みさえも今の彼には遠い出来事のように感じられた。


「……来たぞ。向向葵を返せ!」


九条の叫びが夜の闇に吸い込まれる。

すると、噴水の向こう側、ベンチに座る人影がゆっくりと立ち上がった。

「……先生?」


聞き慣れた、鈴を転がすような声。

街灯の光の中に現れたのは、向日葵だった。衣服に乱れはなく、目立った外傷も見当たらない。彼女は生気のない足取りで、ふらふらと九条の方へ歩み寄ってくる。


「向日葵! 無事か!」


九条が駆け寄り、その肩を抱き寄せようとした――その瞬間。


「……っ!?」

九条の鼻腔を、異様な臭気が突き抜けた。

それは、先ほどの地下室で嗅いだ「ジギタリス」の甘い匂いではない、ネロリの香りも消え去っている。


もっと深く、脳の髄まで痺れさせるような、濃密な「白百合」と「薬品」が混ざり合った、未知の香気。


向日葵の瞳は、九条を見ているようで、その奥にある「何か」を見つめていた。焦点が合わず、ガラス細工のように空虚だ。


「先生……。あの方が……おっしゃっていました……」


向日葵が、うわ言のように呟く。彼女の手が、九条の頬にそっと触れた。その指先からは、例の香気が立ち昇っている。


「『君の居場所は、もうここにはない』……って。私、先生の隣にいても……あの香りが、離れないんです……」


「何を言っている、向日葵! しっかりしろ!」


九条は彼女の肩を強く揺さぶる。だが、向日葵は力なく微笑むだけだった。その微笑みは、九条が知っている天真爛漫な彼女のものではなく、どこか遠い世界の住人のような、冷ややかな美しさを湛えていた。


「蠍」の狙いは、物理的な拉致ではなかった。


特定の香りをアンカーとして、彼女の精神に深い暗示を植え付ける「嗅覚洗脳」。


一度植え付けられたその香りは、彼女が九条の側にいようとしても、常に「蠍」の存在を意識させ、彼女を内側から支配し続ける。


「ふっふっ……。再会を祝して、彼女に特別な『花束』を贈っておいたよ、九条ナギ」


公園の植木の中からスピーカー音。

あの男の笑い声が聞こえる。

「ハッハッハ!彼女はもう、私の『香りの檻』の中だ。……一生、そこから出ることはできない」


九条は、震える向日葵を強く抱きしめた。


しかし、彼の腕の中にいる教え子からは、もう二度と、あの頃の「日常の匂い」がしてくることはなかった。


この時、九条は、向日葵の変わり果てた、香りを抱きながら、次の作戦を立てていた。


(……必ず、見つけ出す……。)

九条の目は、微かなギラついき光を帯びていた。

第29話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、本作の核となる「嗅覚」を使った最も残酷な攻撃を描きました。

特定の香りをトリガーに精神を支配するアンカー。

パフューマーである九条にとって、香りは人を幸せにするためのもの。それを「洗脳の道具」として利用し、さらには向日葵から大切な「ネロリ」を奪い去った「蠍」の所業は、決して許せるものではありません。

「必ず、見つけ出す」

その決意の裏には、パフューマーとしての意地と、一人の人間としての激しい怒りが同居しています。

果たして九条は、自身の調香技術をもって、この目に見えない「香りの檻」を打ち破ることができるのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ