第29話 フェイク
静まり返る横浜公園。
噴水の水しぶきが舞う中、九条ナギは愛弟子の姿を捉える。
「……先生?」
差し出されたその手は、かつての温もりを宿しているはずだった。
だが、超一流のパフューマーである九条の鼻腔を襲ったのは、彼女が愛したネロリの清廉な香りではない。
脳の髄まで痺れさせる、白百合と薬品が混ざり合った「支配」の残香。
「蠍」が仕掛けたのは、調香師のプライドを蹂躙する、逃げ場のない嗅覚の檻。
抱きしめた腕の中で、少女の心は遠い深淵へと沈んでいく。
稀代のパフューマー・九条ナギ。その瞳に宿ったのは、静かな絶望か、それとも――。
〜横浜公園、噴水広場〜
深夜の公園は静まり返り、噴水の水音だけが虚しく響いている。街灯に照らされた水しぶきが、まるで銀細工のように美しく、そして冷酷に舞っていた。
九条はポルシェを止め、一人、広場の中央へと歩を進める。
掌の傷がズキズキと疼く。だが、その痛みさえも今の彼には遠い出来事のように感じられた。
「……来たぞ。向向葵を返せ!」
九条の叫びが夜の闇に吸い込まれる。
すると、噴水の向こう側、ベンチに座る人影がゆっくりと立ち上がった。
「……先生?」
聞き慣れた、鈴を転がすような声。
街灯の光の中に現れたのは、向日葵だった。衣服に乱れはなく、目立った外傷も見当たらない。彼女は生気のない足取りで、ふらふらと九条の方へ歩み寄ってくる。
「向日葵! 無事か!」
九条が駆け寄り、その肩を抱き寄せようとした――その瞬間。
「……っ!?」
九条の鼻腔を、異様な臭気が突き抜けた。
それは、先ほどの地下室で嗅いだ「ジギタリス」の甘い匂いではない、ネロリの香りも消え去っている。
もっと深く、脳の髄まで痺れさせるような、濃密な「白百合」と「薬品」が混ざり合った、未知の香気。
向日葵の瞳は、九条を見ているようで、その奥にある「何か」を見つめていた。焦点が合わず、ガラス細工のように空虚だ。
「先生……。あの方が……おっしゃっていました……」
向日葵が、うわ言のように呟く。彼女の手が、九条の頬にそっと触れた。その指先からは、例の香気が立ち昇っている。
「『君の居場所は、もうここにはない』……って。私、先生の隣にいても……あの香りが、離れないんです……」
「何を言っている、向日葵! しっかりしろ!」
九条は彼女の肩を強く揺さぶる。だが、向日葵は力なく微笑むだけだった。その微笑みは、九条が知っている天真爛漫な彼女のものではなく、どこか遠い世界の住人のような、冷ややかな美しさを湛えていた。
「蠍」の狙いは、物理的な拉致ではなかった。
特定の香りを鍵として、彼女の精神に深い暗示を植え付ける「嗅覚洗脳」。
一度植え付けられたその香りは、彼女が九条の側にいようとしても、常に「蠍」の存在を意識させ、彼女を内側から支配し続ける。
「ふっふっ……。再会を祝して、彼女に特別な『花束』を贈っておいたよ、九条ナギ」
公園の植木の中からスピーカー音。
あの男の笑い声が聞こえる。
「ハッハッハ!彼女はもう、私の『香りの檻』の中だ。……一生、そこから出ることはできない」
九条は、震える向日葵を強く抱きしめた。
しかし、彼の腕の中にいる教え子からは、もう二度と、あの頃の「日常の匂い」がしてくることはなかった。
この時、九条は、向日葵の変わり果てた、香りを抱きながら、次の作戦を立てていた。
(……必ず、見つけ出す……。)
九条の目は、微かなギラついき光を帯びていた。
第29話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、本作の核となる「嗅覚」を使った最も残酷な攻撃を描きました。
特定の香りをトリガーに精神を支配するアンカー。
パフューマーである九条にとって、香りは人を幸せにするためのもの。それを「洗脳の道具」として利用し、さらには向日葵から大切な「ネロリ」を奪い去った「蠍」の所業は、決して許せるものではありません。
「必ず、見つけ出す」
その決意の裏には、パフューマーとしての意地と、一人の人間としての激しい怒りが同居しています。
果たして九条は、自身の調香技術をもって、この目に見えない「香りの檻」を打ち破ることができるのか。




