第33話 メントールの残香
叩き割られた瓶から放たれる、鋭利な「メントールと沈香」。
その香りは、呪縛を断ち切る救済となるのか、それとも――。
守るための留置所への「隔離」、そして託された残り少ない「一週間」。
銀座のパフューマー・九条ナギの、命を削る調香が今、始まる。
九条が叩き割った小瓶から、突き抜けるような**「メントールと沈香」**の香りが爆発的に広がった。それは癒やしの香りではない。脳の神経回路を強制的に再起動させるための、鋭利なメスのような芳香だ。
「……あ、……ぁ…………」
九条の喉を締め上げていた向日葵の指先から、不自然なほど急激に力が抜ける。
赤く染まっていた彼女の瞳から光が消え、糸の切れた人形のように、彼女は九条の胸の中へと崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……っ! 向日葵……!」
「九条、大丈夫か! 首が……ひどい痣だぞ」
近藤が慌てて九条を支える。九条は荒い呼吸を繰り返しながら、腕の中の少女の顔を覗き込んだ。鼻血を流し、深い昏睡に落ちた彼女の顔は、あまりにも幼く、無防備だった。
「……今のは、一時しのぎだ。脳内の条件付けを一時的にフリーズさせたに過ぎない」
「条件付け……。つまり、またいつ今のようになるか分からないってことか」
近藤の顔に、刑事としての冷徹な色が混ざる。彼は無線機を手に取り、ラボの外に待機させていた部下たちを呼び寄せた。
「……九条。向日葵ちゃんは、しばらく警察署で預かることになる」
九条「何だと……? 刑事さん、彼女は被害者だぞ! 必要なのは隔離ではなく、私の調香による治療だ!」
九条が立ち上がろうとするが、激しい眩暈に膝をつく。近藤はその肩を強く掴み、言い聞かせるように声を落とした。
近藤「分かってる! だが、彼女は操られていても、現に君を狙っている!……民間人を殺そうとしたんだ。今の彼女は、本人の意思とは無関係に『生きた凶器』にされている。このまま一般の場所に置くわけにはいかねえんだ」
九条「……仕方無い……留置場か……それは、それで安心できるな!」
近藤「独居房なら、特定の『匂い』を遮断できる。外部からの刺激を絶って、お前が解毒剤を完成させるまでの時間を稼ぐ……。それしかないんだ、九条」
ラボに踏み込んできた数名の私服警官たちが、眠る向日葵をストレッチャーに乗せていく。
九条は、彼女の手首にかけられた、傷つけないための柔らかい拘束具を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
パフューマーとしての誇りも、恩師としての情も、法の壁と「蠍」の悪意の前に、今はただ無力だった
。
「一週間だ。近藤……一週間以内に、彼女を支配する『鍵』を壊す香りを完成させる」
「ああ、信じてるぜ、銀座のパフューマー!」
パトカーの赤色灯が、深夜のラボの外壁を血のように染め上げる。
九条は、自分の白衣に付着した向日葵の血と、あの白百合の残り香を、呪いのようにいつまでも嗅ぎ続けていた。
第32話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、向日葵の「隔離」という、苦しくも避けては通れない展開を描きました。
「生きた凶器」にされてしまった愛弟子を、あえて冷たい鉄格子の向こうへと送る。それはパフューマーとしての九条にとって、敗北にも似た屈辱だったかもしれません。しかし、近藤の言う通り、外界の「匂い」から遮断された独居房こそが、今の彼女を守る唯一の城壁でもあります。
「一週間以内に、鍵を壊す香りを完成させる」
銀座のパフューマー、九条ナギ。
彼に課せられたのは、少女の魂を救い出すための、命懸けのタイムリミット・レシピ。




