第14話 消えた背中
サルデーニャの荒々しい岩肌が見えてきたとき、私はかつて九条が言っていた言葉を思い出していました。
「香りは、嘘をつけない。その土地が持つ記憶も、人の底に沈んだ悪意も、すべては空気の中に溶け出している」と。
フェリーを襲ったあの不吉な「死の予感」は、単なる悪夢ではありませんでした。
ナギを追う影、そして彼自身の変貌。
野生のハーブ「マキア」が吹き荒れるこの地で、私は彼が捨てようとした過去の断片に出会うことになります。
運命を切り裂くのは、洗練された香水ではなく、大地から毟り取った生の香り。
今、九条ナギの真実へと続く、最も孤独で熱い夜が始まります。
フェリーのタラップを降りた向日葵を待ち受けていたのは、イタリア本土とは明らかに異なる、剥き出しの生命力でした。目的地に着いた向日葵は断崖に佇む古い修道院でした。
テラスにいた人影は、見間違いだったのか。あるいは、追っ手を撒くための残像だったのか。そこには誰もおらず、ただ一脚の椅子が風に吹かれているだけでした。
残された「残香」
部屋の隅、彼が数時間前までそこにいたことを証明するように、わずかなシダーウッドと、彼が好んだアールグレイの茶葉の香りが、空気の層に澱んでいました。
向日葵は、ナギが使っていたとされる粗末な木製の机に駆け寄ります。急いで立ち去ったのか、いくつかの遺留品が散乱していました。
空になった香料瓶
ラベルが剥がされた小さな遮光瓶。微かに残るのは、船内で嗅いだあの「焦げたゴム」の成分——禁忌の合成ムスクの猛烈な残り香。
その時、修道院の回廊を、乾いた靴音が鳴り響きました。
カツン、カツン、と規則正しく、しかし感情を排したような革靴音。
窓から差し込む夕日が、廊下の角を曲がってきた**「黒いコートの裾」を照らし出します。
あのフェリーの夜、向日葵の意識を遠のかせた「死んだ花の腐敗臭」**が、一気に室内に充満しました。
「……彼はもう、ここにはいないよ、九条ナギの助手、向日葵くん。」
暗闇から響いたのは爽やかな声。
向日葵は息を呑みます。その声の主は、九条と共に調香を学んだ友でした。
暗闇から歩み寄るその影は、かつて九条家でナギと共に切磋琢磨し、父・九条宗近の一番弟子、ファルコでした。
しかし、向日葵の記憶にある情熱的な調香師の面影はそこにはありません。月光に照らされた彼は、漆黒のコートに身を包み、その瞳からは一切の光が失われていました。
ファルコが懐から取り出したのは、一本の細い試香紙。それを一振りした瞬間、修道院に残っていたナギの清らかなシダーウッドの香りが、瞬時に**「獣の腐敗臭」**へと塗り替えられていきました。
「ナギはもう、君の知る調香師じゃない。彼は『死』を纏って、地中海の底へ消えようとしている。」
向日葵の脳裏に、イタリア語のメモが過ります。
『La morte segue Kujo.』 ——死は、九条を追う。
意識が遠のきそうな悪臭の中、向日葵は震える手でバッグの底を探ります。
ファルコの**「マキア」**
先ほどタラップで摘み取ったばかりの野生のローズマリーとミルタの枝。その強烈な生命力が、ファルコの放つ「死の香り」に亀裂を入れます。
「違う……九条さんは自分を消そうなんてしてない。彼は、あなたから逃げるために、この香りを囮にしただけよ!」
向日葵は、手近にあった古い聖水瓶に、持ち合わせた素材とマキアの精油を叩き込み、一気に床へと叩きつけました。
パリンッ!!
石の床に広がったのは、サルデーニャの荒野を凝縮したような、清冽で暴力的なまでの**「緑の嵐」**
ファルコの黒いコートが、その瑞々しい香りの衝撃に一瞬たじろぎます。
石畳に叩きつけられた「緑の嵐」——サルデーニャの野生を凝縮したマキアの香りが、死の澱みを一瞬で切り裂きました。その清冽な香りの礫を浴びたファルコは、驚きに目を見開きます。
数秒の沈黙の後、彼は低く、しかしどこか懐かしむような乾いた笑い声を漏らしました。
認められた魂の光。
(……フッ。流石だ、九条の秘蔵子。あの無垢で強靭な調香のスピリットが熱い。まさか、この絶望の香りを覆すとはな…。)
ファルコの纏う「死」の気配が、わずかに霧散します。彼は向日葵の瞳の奥に宿り、ナギを信じ抜く意志の強さに、かつての自分たちが持っていた「香りを愛する純粋さ」を見出したのでした。
第13話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回、ついにナギの父の一番弟子であるファルコが登場しました。
かつては志を共にしたはずの彼が、なぜ「死」を象徴する香りを纏うようになったのか。そして、ナギが修道院に残した「シダーウッドとアールグレイ」の香りに、向日葵は何を感じたのか。
絶望的な悪臭の中に、自らの意志で「緑の嵐」を巻き起こした向日葵の成長を感じていただけたら嬉しいです。
物語はここから一気にクライマックスの地、コルシカ島へと飛びます。
ファルコが用意したヘリに乗り、向日葵は本当の意味で「禁忌」の核心へと触れることになります。
正気を失いかけたナギを、向日葵の「生の香り」は救い出すことができるのか。




