第十話 石鹸香りとネロリの苗
前事件の間、九条を訪ねてやってきました。
人は、自分を偽るために香りを纏うことがありました。調香師・九条の元を訪れる人々もまた、何らかの「仮面」を求めてこの扉を叩きます。
しかし、九条が調合するのは、単なる心地よい芳香ではありません。それは時に、剥き出しの真実を突きつける「鏡」となります。
かつて、夜の街で偽りの自分を演じていた女性・綾香。彼女が手にした「最低の鏡」という名の香水が、彼女の人生をどう変えたのか。カウベルの音と共に流れ込んできたのは、かつての彼女からは想像もつかない、清潔で、どこか誇らしげな風でした。
ある日のこと、調香室の奥で九条がサンプル作りを していると、カランとカウベルが鳴りました。
店内に流れ込んできたのは、驚くほど清潔な **「石鹸」**の香りと どこか懐かしいお日様の匂い。
現れたのは、真っ赤なドレスを脱ぎ捨て 白のシャツにジーンズを合わせた綾香の姿でした。
「……どうした。 返品は受け付けんと言ったはずだが」
九条は顔も上げずに告げます。 綾香がカウンターに小さな植木鉢をドサッと置きました。
「返品なんてしないわよ。 あれ、ドブに捨てたから、…代わりに、これ!」 そこには、まだ蕾の固い **「ネロリ(オレンジの花)」** の苗木がありました。
偽りの香りが消えたあとに、九条は手を止め 眼鏡の奥の瞳を僅かに細めて苗木を見つめます。 「……これを私にどうしろと?」 「あんたが言ったんでしょ!
私自身の匂いだって 今の私には、これを育てるくらいの余裕しかないの ホステス辞めて、貯めてたお金で クリーニングのお店、始めたの。
文字通り、シワを伸ばし、汚れを落とす仕事よ!」 綾香はそう言って、悪戯っぽく しかし以前のような媚びない 晴れやかな笑顔を見せました。
「あの『鏡』、最低だったけど…… おかげで目が覚めたわ。自分の目が 悪くないってことにね」 彼女が店を去った後、店内にはネロリの若い葉が放つ、微かな苦味と瑞々しさが残されました。
向日葵が、物珍しそうにその苗木を覗き込みます。 「九条さん、誰ですか?モテますね。」
九条は無言で苗木を引き寄せると、指先で土の湿り具合を確かめました。
「……香水は、欠点を隠すためのベールではない。 その人間が歩んできた道、そしてこれから歩むべき道を照らす『灯火』であるべきだ。」
「向日葵くん、このネロリの成長を記録しょう。 次に彼女が来た時、相応しい香りを贈れるように」
最後までお読み頂きありがとうございます。
物語の終わりに残ったのは、ネロリ(オレンジの花)、でした。清楚さと高貴さを併せ持ちながらも、その奥には若葉のような苦味を秘めています。それは、派手な世界を去り、自らの手で「シワを伸ばし、汚れを落とす」という泥臭くも尊い道を選んだ綾香の生き方そのものです。
「香水は、欠点を隠すためのベールではない」
九条のこの言葉は、再生を誓った彼女への、彼なりの最大級の祝福だったのではないでしょうか。苗木が育ち、白い花を咲かせる頃、彼女はどのような香りを纏って再び現れるのか。その時、九条が贈る「相応しい香り」は、きっと彼女が進むべき道を優しく照らす灯火となるはずです。
次回新章突入します!よろしくお願いします!




