↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姿なき英雄の帰る場所 ~鬱ゲー世界のかませ悪役になった俺は、原作知識と鍛えた力で破滅の運命をぶっ壊す~  作者: ふわふわらいどう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

第9話 千奈津の決意

 轟音。


 空気を引き裂きながら、巨大な拳が迫ってくる。

 まともに喰らえば、骨の一本や二本では済まない。

 いや、以前の俺はそれをまともに喰らってしばらく寝込んだわけだが。


(……二度と御免だ、あんなのは!)


 目の前に迫る、岩塊のような拳。

 俺は反射的に〈影渡り〉を起動しようとして――やめた。


 右足を半歩引く。


 重心を落とし、身体を捻る。


 頬のすぐ横を、鬼の拳が通り過ぎた。

 風圧で銀髪が激しく舞い上がる。


 しかし、当たらない。


「――そこだッ!」


 足元から伸ばした影が、鬼の太い足首へと絡みつく。


「〈影縫い〉!」


 黒い棘が地面を走り、その巨躯を一瞬だけ縫い止めた。


 すかさず懐へ飛び込む。

 呪糸が走る。

 肩、肘、手首、腰、膝。


 身体の各所に張り巡らせた呪力の糸が、俺の動作を補強していく。


「〈自動操演〉、出力八割!」


 全身の筋肉が連動する。

 右足で踏み込み、腰を回転させ、握り込んだ拳を突き出す。


 人形術による動作補助。

 呪術による身体強化。

 そして、影術による拘束。


 三つの術を重ねた一撃が、鬼の腹部へと叩き込まれた。


 ――ドゴォッ!!


 鈍い衝撃音。


 鬼の巨体が、わずかに後退する。


 同時に、懐から札を三枚取り出した。


「〈力萎え〉、〈重圧〉――それから、〈緊縛〉!」


 呪符が燃え上がる。

 幾重もの呪いが、鬼の巨体へと絡みついた。

 力を削ぎ、動きを鈍らせ、関節を拘束する。


 もちろん、これだけで高位式神を完全に封じ込められるわけではない。


 剛鬼の全身から、凄まじい霊力が噴き上がる。

 影の拘束が軋み、呪いが次々と引きちぎられていく。


 だが、それでいい。


(……一瞬で十分だ!)


 俺は影の中へと右手を突っ込んだ。


 ずるり、と引き抜いたのは、修練場の廃材から修復した一振りの刀。

 刃引きした、訓練用のものだ。

 鬼の首を落とすことはできない。


 だが、今回は殺し合いではない。


 決められた部位に一撃を入れれば、俺の勝ちだ。


「〈自動操演〉、出力九割!」


 呪糸が一斉に引き絞られた。

 筋肉が軋む。

 骨が悲鳴を上げる。


 しかし、以前のように無理やり身体を動かされる感覚はない。


 自分自身の意志と、糸の動きが噛み合っている。

 千奈津に叩き込まれた足運び。

 何度も修正された剣筋。


 それらを、俺の持てる術のすべてで補強する。


 一歩。


 そして、もう一歩。


 拘束を引きちぎった剛鬼が、こちらへ向き直る。

 拳が振り上げられた。

 だが、遅い。


「――もらった!」


 刀が閃く。

 鬼の巨体の脇をすりぬけるように踏み込み、その胸元へ。

 渾身の一撃を叩き込んだ。


 ――ガァンッ!!


 甲高い音が、修練場に響き渡った。

 刀身が弾かれる。


 腕に痺れが走る。

 それでも、確かに届いた。

 鬼の胸元。


 その中央に刻まれた、赤い紋様。


 そこへ、俺の刀が触れていた。


 次の瞬間。


「――そこまで!」


 千奈津の声が響いた。

 剛鬼の動きが、ぴたりと止まる。


 振り下ろされかけていた拳が、俺の頭上で静止した。


 ゆっくりと息を吐く。

 膝が笑っている。

 腕は痺れているし、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。


 だが。


「……っは」


 思わず、笑みがこぼれた。


「やった……!」


 勝った。


 あのとき、どうしようもないほどの力の差を見せつけられた相手に。

 ようやく、一矢報いることができたのだ。


「……参ったわね」


 千奈津が、呆れたように呟いた。


 剛鬼を札へ戻しながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「まさか、本当に勝っちゃうなんて」


「はっ。見たか、これが努力の成果ってやつだ」


「はいはい。すごいすごい」


「棒読みやめろ」


「だって、実際すごいんだもの。悔しいけど」


 そう言って、千奈津は小さく笑った。

 その表情には、以前のような冷たい軽蔑など微塵もない。


 あるのは、素直な驚きと。

 少しばかりの悔しさ。


 そして――。


「……おめでとう、若様」


 心からの祝福だった。


 不意を突かれて、言葉に詰まる。


「……お、おう」


「なによ、その反応」


「いや。お前が素直に褒めるとは思わなかったから」


「失礼ね。私だって、褒めるときは褒めるわよ」


「明日は星焔が落ちるな」


「もう一回剛鬼呼ぶわよ?」


「やめてくださいお願いします」


 即座に頭を下げる。

 千奈津は、くすくすと笑った。


 ……まったく。

 こいつには、どうにも敵わない。

 勝負には勝ったはずなのにな。


 ~~~~~~~~~~


「……で、今度は私の番ね」


 剛鬼を封じた札を懐にしまい、千奈津がそう言った。

 先ほどまでの楽しげな表情が、少しだけ引き締まる。


「ああ。そうだな」


 俺は頷き、修練場の中央へと向き直った。

 地面に落ちる、俺たち二人の影。

 星焔の淡い光に照らされ、長く伸びた黒い輪郭。

 千奈津はその前に膝をつき、ゆっくりと手を伸ばした。


 ――影術。


 五影堂家の秘術にして、彼女がどうしても習得できなかった力。

 そして、彼女の人生を狂わせた、たった一つの欠落。


「……いくわよ」


「ああ」


 千奈津が目を閉じる。


 呼吸を整え、霊力を練り上げていく。

 その流れは、実に美しかった。

 無駄がない。

 澱みもない。


 まるで磨き上げられた水路を、澄んだ水が流れるように。


(……本当に、優秀なんだよな)


 改めて思う。


 呪術。

 人形術。

 式神術。

 剣術に体術。


 そのどれを取っても、千奈津の技量は高い。


 少なくとも基礎能力に関して言えば、今の俺など足元にも及ばない部分がいくらでもある。


 なのに。


「……っ」


 千奈津の眉が、僅かに歪んだ。


 足元の影が、ピクリともしない。

 だが、それだけだ。

 影は伸びない。


 形を変えない。


 彼女の霊力を受け入れようとしない。


「……くっ!」


 さらに力を込める。

 霊力が膨れ上がり、空気が微かに震えた。

 だが。


 ――何も起こらない。


「……はぁ」


 千奈津が、大きく息を吐いた。


「……駄目ね」


 その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。


「いや、さっきよりはマシだぞ」


「……そう?」


「ああ。少なくとも、少しは捉えられてる」


 それは、慰めではなかった。


 実際、千奈津の影術は確実に進歩している。

 最初の頃は、影に霊力を流そうとするだけで、まるで壁にぶつかったかのように弾かれていた。


 しかし今は違う。


 影そのものを認識できている。

 霊力の流れも、途中までは正しい。

 術式の構築にも問題はない。


 なのに――。


(……最後の一歩だけが、どうしても届かない)


 そこが、どうにも理解できなかった。


 俺の場合は、違った。

 影術を使おうと思えば、最初から身体が勝手に動いてくれた。

 影の掴み方。

 形の変え方。

 その中へ身体を沈める感覚。


 どれも、理屈を理解するより先に、本能が知っているような感覚だった。


 だからこそ、説明が難しい。


「……なあ、千奈津」


「なによ」


「影を、自分の手足みたいに考えてみろ」


「……またそれ?」


「いや、だからさ。自分の影をこう、ぐっと掴んで」


 俺は足元の影を伸ばし、指先へと絡ませる。


「で、それをこう……ぐにゃっと」


「……」


「こう、ぐいっと引っ張る感じで」


「……若様」


「ん?」


「擬音しかないじゃない!」


「しょうがねえだろ! 感覚なんだから!」


「その感覚がわからないって言ってるのよ!」


 千奈津が頭を抱えた。


 ……いや、本当に申し訳ない。


 教える側に回って初めてわかったが、人に何かを教えるというのは、なかなか難しい。


 自分では当たり前にできることを、言葉にして伝えなければならないのだ。


 しかも、相手はその当たり前ができない。

 どう説明すればいいのか。


(……教官って、すげえんだな)


 今さらながら、そんな感想が湧いてきた。


「……もう一回やるわ」


 千奈津が、静かに言った。


「ああ」


 俺は頷く。

 再び、霊力が練り上げられる。

 影が、僅かに揺れた。

 しかし。

 やはり、動かない。


 それでも千奈津は、諦めなかった。


 何度も。


 何度も。


 影へと手を伸ばし続けた。


 ~~~~~~~~~~


 そうして、時間は過ぎていった。


 修行。

 鍛錬。

 実戦。


 そして、また修行。


 俺は千奈津から剣術や呪術を学び、千奈津は俺から影術を学ぶ。


 もっとも、教える側としては俺の方が圧倒的に下手くそだったが。


「だから、肩が上がってるって!」


「お前さっきからそればっかりだな!?」


「だって直らないんだもの!」


「……ぐぬぬ」


 木刀を交えれば、千奈津に叩きのめされ。


「〈微浄〉!」


「遅い! それじゃ実戦で死ぬわよ!」


「わかってるっての!」


 呪術の訓練では、互いに呪いを掛け合い。


「……よし、今の感じだ!」


「ほんと!?」


「ああ! 影がちょっと動いた!」


「……ほんとに?」


「……いや、風かもしれん」


「ぶっ飛ばすわよ!!」


 影術の訓練では、毎度のように口喧嘩になった。


 それでも。


 不思議と、その時間が嫌ではなかった。


 むしろ、楽しかった。

 誰かと肩を並べて修行すること。

 互いの欠点を指摘し合い、できなかったことができるようになるのを喜ぶこと。


 疲れ果てて、修練場の石段に並んで座ること。

 そんな当たり前のことが、俺には新鮮だった。


 思えば。


 この世界に来てから、俺はずっと一人だった。


 毒を盛られ、馬鹿にされ、まともな教育も与えられず。

 誰にも期待されず。

 誰にも頼れず。


 ただ、自分が生き残るためだけに、ひたすら足掻いてきた。

 だから、こうして誰かと同じ目標に向かって努力するというのは。


(……案外、悪くないもんだな)


 そんなふうに、思うようになっていた。


 だが。


 楽しい時間というものは、どうしてこうも早く過ぎてしまうのだろう。


 修練場へ通う日々を重ねるうちに、気がつけば、斎賀家の滞在期間も終わりへと近づいていた。


 そして。


 俺は、知っていた。


 その先に待っているものを。


 ――影法師降霊の儀。


 斎賀家が、千奈津に影術を与えるために執り行う禁忌の儀式。


 その実態は、かつて五影堂家を率いた前々代当主の影法師を、千奈津の魂へと植え付けるというものだった。


 成功すれば、彼女は影術を使えるようになる。


 しかし、その代償として。


 千奈津という人格は、影法師によって塗り潰される。


 そして、穢れに侵された影法師は彼女を蝕み、やがて破滅へと導いていく。


(……クソが)


 思わず、奥歯を噛みしめた。


 原作では、避けることのできなかった悲劇。


 だが、今は違う。


 俺がいる。


 未来を知っている。


 そして、力もつけてきた。


 だから。


(……なんとか、してやりたいんだがな)


 そう思いながら、俺は千奈津の方を見る。


 地面に膝をつき、じっと自分の影を見つめる少女。


 その姿は、どこまでも真剣だった。


 誰よりも努力して。

 誰よりも望んで。


 それでも、たった一つの才能に届かない。


 そんな彼女に、俺は何をしてやれるのだろう。

 ……答えは、まだ出なかった。


 ~~~~~~~~~~


 その日の修行は、いつもより長引いた。


 千奈津が、なかなか切り上げようとしなかったからだ。


「……もう一回」


「おい、そろそろ休めよ」


「あと一回だけ」


「お前、その台詞さっきから何回言ってんだよ」


「……うるさいわね」


 千奈津は、こちらを見ようともしなかった。

 ただ、足元の影を見つめ続けている。

 その額には大粒の汗。


 指先は霊力の酷使によって、小さく震えていた。


 それでも。


「……もう、一回」


 彼女は、手を伸ばした。


 霊力が流れる。


 影が揺れる。


 だが。


 何も、起こらない。


「……っ」


 千奈津の肩が、微かに震えた。

 そのまま、力なく手を下ろす。


「……駄目、か」


 ぽつり、と呟いた声は。


 普段の勝ち気な彼女からは、想像もできないほど小さかった。


 俺は、何も言えなかった。


 下手な慰めなど、意味がない。


 彼女がどれだけ努力してきたか。

 俺は、それを知っている。


 だからこそ、軽々しく「大丈夫だ」などとは言えなかった。


「……若様」


 不意に、千奈津が口を開いた。


「ん?」


「……一つ、聞いてもいい?」


「なんだよ、改まって」


 千奈津は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……あんたってさ」


 ゆっくりと、こちらを振り返る。


「どうして、そんなに頑張れるの?」


「……は?」


 予想外の問いだった。


「なんだよ、急に」


「いいから、答えて」


 いつになく真剣な声。

 俺は思わず、口を閉じた。

 千奈津は、少しだけ視線を落とす。


「だって、あんた……誰にも期待されてないじゃない」


「……随分な言い草だな」


「でも、事実でしょ?」


 否定できなかった。

 妾腹の跡取り。

 名ばかりの次期当主。

 毒を盛る侍従に、まともな教育を与えない教師。

 五影堂家の人間は、誰も俺に期待などしていない。


 むしろ。


 俺が無能なままでいてくれることを、望んでいる。


「……まあ、そうだな」


 俺が答えると、千奈津は小さく頷いた。


「まともに教えてもらえなくて、道具だってろくに与えられなくて」


「周りの大人には馬鹿にされて……」


「それでも、あんたはずっと頑張ってる」


 千奈津は、俺の手を見た。

 幾度となく刀を振り、呪符を扱い、糸を操ってきた手。

 以前よりもずっと硬くなった掌。

 細かな傷が、いくつも残っている。


「私だったら……きっと、心が折れてる」


 その言葉は、不思議なほど静かだった。


「誰も認めてくれないなら、頑張る意味なんてないって」


「どうせ無駄なんだって」


「そう思って、全部投げ出しちゃうかもしれない」


 そう言って、千奈津は小さく笑った。

 自嘲するような、寂しい笑みだった。


「……なのに、あんたは違う」


「何度負けても、何度怪我しても、平気な顔して立ち上がる」


「……どうして?」


 まっすぐな瞳が、俺を見つめていた。

 夜空のような色をした瞳。

 そこには、純粋な疑問と。

 そして、何かを期待するような光があった。


 ……困ったな。


 そんな顔で聞かれても。

 俺には、こいつが期待しているような立派な答えなんて、持ち合わせがない。


 だが。


 嘘をつくのも、違う気がした。


「……死にたくないからだよ」


 ぽつりと、答えた。


「……え?」


 千奈津が、目を瞬かせる。


 俺は、修練場の空を見上げた。

 星焔の淡い光。

 その向こうに広がる、果てのない常闇。


 この世界は、理不尽に満ちている。

 どれだけ努力しても。

 どれだけ強くなっても。

 あっけなく命が奪われることがある。

 そして、俺は知っている。


 自分が、これからどんな目に遭うのかを。


「……俺は、知ってるんだよ」


「何を?」


「この先、俺にどんな災いが降りかかるのか」


 千奈津が、僅かに眉を寄せた。


「……予知でもしたの?」


「まあ、そんなところだ」


 本当のことは言えない。

 この世界が、かつて自分の遊んでいたゲームの世界だなんて。

 そんなことを話したところで、信じてもらえるとも思えなかった。


「……俺はな」


 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。


「このまま何もしなければ、間違いなく死ぬ」


「……」


「それも、ろくでもない死に方だ」


 暗殺。

 謀殺。

 闇の徒による惨殺。


 家の権力争いの生贄。


 数え切れないほどの死亡フラグが、俺を待ち受けている。


 それらすべてを知っているからこそ。


「……怖いんだよ」


 俺は、そう告げた。


「死ぬのが、怖い」


「……若様」


「当たり前だろ。誰だって、死ぬのなんて嫌に決まってる」


 思わず、苦笑が漏れる。


「俺は別に、立派な人間じゃねえよ」


「誰かに認められたいとか、期待に応えたいとか」


「そんな大層な理由で頑張ってるわけじゃない」


 俺は、自分の手を握りしめた。


 この身体。


 この命。


 たとえ、破滅が約束された悪役のものだったとしても。


 今は、俺自身のものだ。

 だから。


「……俺自身が、俺に生きててほしいんだよ」


 千奈津の瞳が、僅かに見開かれた。


「誰にも期待されなくたって、構わねえ」


「誰にも認められなくたって、別にいい」


「俺は、死にたくない」


「だから、足掻いてる」


 それだけだった。

 格好のいい理由なんて、何一つない。

 ただ、生きたい。


 明日も。


 明後日も。


 その先も。


 できることなら、笑って生きていたい。

 だから、どれだけ無様でも足掻く。

 たとえ、この世界のすべてが俺を殺そうとしても。

 ――それだけは、譲れなかった。


「……そっか」


 不意に。


 千奈津が、小さく呟いた。

 その表情を見て、俺は少しだけ驚いた。

 笑っていたのだ。

 それも、普段のような人をからかう笑みではない。

 どこか、泣きそうな。

 それでいて、心から嬉しそうな。


 そんな、不思議な笑顔だった。


「……あはっ」


「……何がおかしい」


「ううん。なんでもない」


「いや、笑ってんじゃねえか」


「だって……」


 千奈津は、堪えきれなくなったように笑った。


「そっかぁ……」


 そして。


「あんたも、私と一緒なんだね」


「……は?」


「なんでもないわよ」


 そう言って、千奈津は空を見上げた。

 星焔の光が、菫色の髪を淡く照らしている。

 その横顔は、どこか晴れやかだった。


「……私ね」


 千奈津が、ぽつりと呟く。


「試合の後はずっと、あんたのこと、すごい人だと思ってた」


「……お前、最初は俺のこと馬鹿にしてただろ」


「それはそう」


「そこは否定しろよ!」


「だって、本当のことだもの」


 くすくすと笑う。


 しかし、すぐにその表情は柔らかくなった。


「でも、変わったの」


「あんたが、誰もいないところでずっと努力してたって知って」


「どれだけ傷ついても、諦めないで立ち上がるところを見て」


「……すごいなって、思った」


 千奈津は、俺を見る。


「私とは違う、強い人なんだって」


「……」


「でも、違ったのね」


 その瞳が、優しく細められる。


「あんたも、怖かったんだ」


「……そりゃそうだろ」


「うん」


 千奈津は、頷いた。


「……そっか」


 もう一度、そう呟いた。


 その声は、どこまでも穏やかだった。


 ~~~~~~~~~~


 しばらくの間、俺たちは何も言わずに並んで座っていた。

 修練場の石段。

 夜風が、火照った身体を冷ましていく。


 遠くで、梟の鳴き声が聞こえた。

 いつもなら、そろそろ屋敷へ戻る頃合いだ。


 だが、千奈津は立ち上がろうとしなかった。


 何かを言いたげに、何度も口を開きかけては閉じている。


「……どうした?」


 俺が尋ねると、千奈津は少しだけ困ったように笑った。


「……ねえ、若様」


「なんだよ」


「私、明日から修行には来られないの」


 ……。


 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

 だが、俺はできる限り平静を装った。


「……なんでだ?」


「儀式があるから」


 予想していた言葉だった。


 何度も。

 何度も。


 頭の中で繰り返してきた言葉。


 それでも、実際に本人の口から聞くと、ひどく重たく感じられた。


「……そうか」


「うん」


 千奈津は、静かに頷いた。


「影術を習得するための、最後の儀式」


 彼女は、自分の手を見つめる。


 何度も影に伸ばしてきた、その手。


「……私ね」


 小さく、息を吐く。


「本当は、ずっとわかってたの」


「……何を?」


「自分には、影術の才能がないってこと」


 その声には、不思議と悲壮感がなかった。

 ただ、長い間抱えてきた事実を、ようやく口に出せたような。

 そんな静けさがあった。


「どれだけ練習しても、できなかった」


「誰よりも頑張ったつもりだった」


「でも、駄目だった」


 千奈津は、少しだけ笑った。


「……悔しかったなぁ」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


「だって、あんたはあんなに簡単に使えるんだもの」


「……簡単ってわけでもないぞ」


「そうね。今なら、わかるわ」


 千奈津は頷く。


「でも、それでも……羨ましかった」


「私が、どれだけ欲しくても手に入らなかったものを」


「あんたは、最初から持ってたんだから」


 そう言って、彼女は顔を上げた。


「……だからね」


「明日の儀式で、決着をつけるの」


 その瞳は、真っ直ぐだった。


「家の人たちは、私に影術を与えるって言ってる」


「でも、私は知ってるの」


 千奈津の声が、僅かに震えた。


「……あれが、普通の儀式じゃないってことくらい」


 俺は、息を呑んだ。

 千奈津は、気づいていた。


 いや。


 最初から、知っていたのだ。


 自分が何のために育てられてきたのか。

 何を、その身に宿そうとしているのか。

 そして、その先に何が待っているのかを。


「……怖くないのか?」


 気がつけば、そう尋ねていた。

 千奈津は、一瞬だけ目を丸くした。

 そして。


「……怖いよ」


 あっさりと、答えた。


「すごく、怖い」


 その声は、かすかに震えていた。


「だって、私が私じゃなくなるかもしれないんだもの」


「今までの記憶も、気持ちも、全部なくなっちゃうかもしれない」


「……そんなの、怖いに決まってるじゃない」


 千奈津は、膝の上で手を握りしめた。

 その指先が、白くなる。


「……でもね」


 ゆっくりと、俺を見る。


「だからって、今までやってきたことを全部無駄にしたくないの」


「……」


「私は、ずっと頑張ってきた」


「影術が使えないって言われても、諦めなかった」


「できることは、全部やってきたつもり」


 その瞳に、強い光が宿る。


「だから、最後くらい」


「私自身の意思で、挑んでみたいの」


 ……。


 何も、言えなかった。


 俺は知っている。


 この先に、何が待っているのか。

 彼女が、どんな運命を辿るのか。

 儀式は失敗する。


 いや、正確には。


 影法師との融合そのものは、成功してしまう。

 そして、千奈津という人格が、穢れた影に侵されていく。

 原作で、幾度となく見てきた悲劇。


 その結末を、俺は知っている。


 だから、止めるべきだ。


 今すぐに。


 そんなものはやめろ、と。


 お前は死ぬんだ、と。


 そう叫んで、腕を掴んででも連れ戻すべきなのかもしれない。


 だが。


 目の前の千奈津は。

 あまりにも、真剣だった。

 誰かに命じられたからではない。

 家のためでも。

 跡取りの座のためでもない。

 自分自身が、納得するために。

 最後まで、足掻こうとしている。


 それは、どこか。


 俺自身の姿と、重なって見えた。


「……若様」


 不意に、千奈津が口を開いた。


「……なんだ」


「ありがとうね」


「……は?」


 唐突な言葉に、思わず間抜けな声が出た。


「なんだよ、急に」


「だって、影術、教えてくれたでしょ?」


「……いや、結局まともに教えられなかったけどな」


「そうね。説明は壊滅的だったわ」


「おい」


「擬音ばっかりだったし」


「おい!」


「でも……」


 千奈津は、ふっと笑った。


「楽しかったよ」


 その一言が。


 なぜだか、胸の奥に深く刺さった。


「……私ね」


「誰かと一緒に、修行するのって初めてだったの」


「いつも一人で、できないことばっかり考えて」


「周りの人たちには、期待されてるふりをされて」


「でも、あんたは違った」


 千奈津は、俺を見つめる。


「できないなら、できるまでやればいいって」


「そう言って、一緒に付き合ってくれた」


「……」


「だから、嬉しかった」


 その笑顔は。


 どこまでも、年相応の少女のものだった。


 俺は、何も言えなかった。


「……ねえ、若様」


 千奈津が、ゆっくりと立ち上がる。


 淡い紫色の髪が、夜風に揺れた。


「明日は、来ないでね」


「……千奈津」


「私なりに、全力でやってみるから」


 その言葉は、静かだった。


 しかし、確かな決意が込められていた。


「だから――」


 千奈津は、少しだけ困ったように笑った。


「邪魔しないでね」


 ……。


 俺は、答えられなかった。

 何かを言おうとした。

 引き止めようとした。

 だが、言葉が喉につかえて出てこない。

 千奈津は、そんな俺を見て、くすりと笑った。


「……なによ、その顔」


「……どんな顔だよ」


「すごく、情けない顔」


「うるせえ」


「ふふっ」


 小さな笑い声。


 そして。


「……大丈夫よ」


 千奈津は、そう言った。


「最後くらい、格好つけさせてよ」


 その言葉を最後に、彼女は背を向けた。

 修練場の出口へと、ゆっくり歩いていく。

 俺は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。


 ――ちりん。


 不意に。


 澄んだ鈴の音が、夜風に乗って響いた。


 千奈津の髪に結びつけられた、小さな銀色の鈴。

 この間、二人で町へ出かけたときに買ったものだ。


 《祝福の鈴》。


 失せ物探しの祝福が込められた、ささやかな呪具。


 対になった二つの鈴が、離れた持ち主を導いてくれるという。

 俺は、懐に手を入れた。

 指先に触れる、小さな銀色の感触。


 もう一つの鈴。


 千奈津と対になった、俺の持つものだ。


 握りしめる。

 ひんやりとした金属の感触が、掌に伝わった。


(……千奈津)


 その名を、心の中で呟いた。


 けれど。


 彼女は、振り返らなかった。


 ただ一度だけ。


 修練場の出口で、立ち止まる。

 そして、こちらを振り向いて。


「……じゃあね、若様」


 いつものように、笑った。


「またね」


 ……。


 その言葉に、俺は返事ができなかった。

 なぜだか。

 その笑顔が、ひどく遠く感じられたからだ。


 ~~~~~~~~~~


 修練場の奥。


 苔むした石柱に囲まれた、古い祭壇。


 普段は幾重もの封印によって閉ざされているその場所に、今宵、幾人もの術師が集まっていた。


 黒い祭服。


 複雑な呪紋が刻まれた式盤。


 そして、祭壇の中央には。


 一つの、巨大な影があった。


 人の形をしているようにも見える。


 しかし、その輪郭は曖昧で。


 まるで水面に映る影のように、絶えず揺らめいていた。


「……準備は整いました」


 術師の一人が、恭しく頭を下げる。


 その先に立つのは、斎賀宗次。


 斎賀家の当主にして、千奈津の父親だった。


「……そうか」


 宗次は、静かに頷いた。


 その目は、祭壇の中央に封じられた影へと向けられている。


「長かったな……」


 ぽつりと、呟く。


「ようやく、我らの悲願が叶う」


 五影堂家。

 その本家に連なる分家として、長く影術の才能を求め続けてきた斎賀家。

 しかし、千奈津には、その才能がなかった。

 どれだけ努力しても。

 どれだけ優秀であっても。

 影術を扱えなければ、五影堂の真の後継者にはなれない。


 だからこそ。


 彼らは、別の方法を選んだ。


「……器の状態は?」


「問題ございません。霊力の総量、肉体の適性、魂の強度。いずれも想定を上回っております」


「よろしい」


 宗次は、満足げに頷く。


「では、始めよう」


 その言葉に応じ、術師たちが一斉に動き出した。


 祭壇の周囲に、呪符が並べられる。

 古びた式盤へと、霊力が注ぎ込まれていく。

 そして。


 ――ぎぃ。


 重たい扉が開く音。

 祭壇の入口に、一人の少女が姿を現した。

 菫色の髪。

 夜空のような瞳。


 斎賀千奈津。


 彼女は、静かに祭壇へと歩みを進めた。

 その顔には、いつもの勝ち気な笑みはなかった。

 しかし。

 怯えた様子も、見せなかった。


「……千奈津」


 宗次が、娘の名を呼ぶ。


「準備はできているか」


「……はい、父上」


 千奈津は、静かに答えた。


「いつでも」


 その声は、僅かにも震えていなかった。

 だが。

 彼女の胸の内では、激しい恐怖が渦巻いていた。


(……怖い)


 自分が消えてしまうかもしれない。

 自分ではない何者かに、すべてを奪われるかもしれない。

 そんな未来が、目の前に迫っている。

 怖くないわけがなかった。

 逃げ出したい。

 全部投げ出して、どこか遠くへ行ってしまいたい。


 そんな衝動が、何度も胸をよぎる。

 けれど。


(……逃げない)


 千奈津は、そっと拳を握りしめた。


 あの人だって。

 誰にも期待されない中で。

 死への恐怖に震えながら。

 それでも、諦めずに足掻いていた。


『俺自身が、俺に生きててほしいんだよ』


 その言葉が、脳裏をよぎる。


 この儀式に、ただ飲み込まれるつもりはない。

 たとえ、自分ではない何かを宿すことになろうとも。

 たとえ、魂を塗り潰されそうになろうとも。

 最後まで抗う。


 自分という存在を、守り抜いてみせる。


 千奈津は、そっと目を閉じた。


 髪に結びつけられた銀色の鈴が、微かに揺れる。


 ――ちりん。


 澄んだ音が、静かな祭壇に響いた。


 そして。


「――これより」


 術師の声が、厳かに響き渡る。


「五影堂家秘伝、影法師降霊の儀を執り行う」


 祭壇の呪紋が、一斉に輝き始めた。


 封印が解かれていく。


 黒い影が、ゆっくりと蠢いた。


 まるで、生きているかのように。


 まるで、長い眠りから目覚めようとしているかのように。


 そして。


 千奈津の足元へと、影が伸びる。


 ――その瞬間。


 少女の胸元で。


 小さな鈴が、もう一度だけ鳴った。


 ちりん、と。


 まるで、誰かを呼ぶように。


 ――運命の歯車が、静かに回り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。