第8話 初デート
影から抜け出した瞬間、眩しい光が目に飛び込んできた。
「……っと」
足の裏に、土を踏みしめる感触が戻る。
五影堂家の別邸。その外壁から少し離れた竹林の中。
俺と千奈津は、重なり合った竹の影から、文字通り地面に浮かび上がるように姿を現した。
「……昼間の影渡りって、案外面倒くさいのね」
隣で千奈津が小さく息を吐く。
「夜より難易度が上がるからな。影が少ない上に短いし、移動できる場所が限られるんだよ」
「ふうん。若様にも苦手なことがあるのね」
「お前、俺をなんだと思ってんだ」
「変態影ストーカー」
「まだ根に持ってんのかよ!?」
以前、修行に誘うためにこいつの寝室へ影渡りしたことを思い出す。
……いや、あれについては全面的に俺が悪かったんだけどさ。
「ほら、早く行きましょ。こんなところで見つかったら面倒だもの」
「へいへい」
千奈津に促され、俺たちは竹林の小径を歩き出した。
頭上には、雲の向こうに浮かぶ人工太陽――《星焔》の淡い光。
本物の太陽とは違う、どこか頼りない白い輝きだが、それでも人々が生活するには十分な明るさを地上にもたらしていた。
竹林を抜けると、緩やかな坂道の向こうに町並みが見えてくる。
瓦葺きの屋根。
行き交う人々。
風に乗って漂ってくる、焼き物や食べ物の匂い。
(……外、か)
思えば、こうして町を歩くのは、この世界に来てから初めてだった。
屋敷の中は、どこへ行っても息が詰まる。
毒を盛ってくる侍女に、まともな教育をしない教師。どいつもこいつも腹の底で何を考えているのか分かったもんじゃない。
夜になれば修練場で闇の徒と殺し合い。
おかげで、この世界に来てからというもの、まともに気を抜いた記憶がない。
それに比べて、目の前に広がるのは――
ごく普通の、人間の営みだった。
「……なに、ぼーっとしてるの?」
「ん? いや、ちょっとな」
「ふうん?」
千奈津が不思議そうに首を傾げる。
その仕草を見て、俺は今さらながら気づいた。
「……お前、今日ずいぶん気合い入ってんな」
「は?」
千奈津の眉がぴくりと跳ねた。
いつもの修練着とは違う、淡い藤色の着物。
その上に羽織った地味な色合いの上着は、お忍びを意識しているのだろう。
菫色の髪は普段より丁寧に整えられ、簪には小さな紫色の石があしらわれている。
さらに、ほんのりと甘い香の匂いまでした。
「いや、髪とかさ。いつもと違うだろ」
「べ、別に! 普通よ、普通!」
「へえ。普通ねえ」
「な、なによ、その顔!」
「いやあ、デートだからおめかししたのかなって」
「し、してないってば!!」
反射的な即答だった。
しかし、その頬はみるみる赤く染まっていく。
「そ、そもそも! 今日は若様がどうしてもって言うから、仕方なく付き合ってあげてるだけなんだからね!」
「はいはい。そうだったな」
「なによ、その適当な返事!」
「いや、似合ってると思うぞ。その格好」
「――っ!?」
千奈津が固まった。
目を丸くして、ぱくぱくと口を開閉する。
「……な」
「ん?」
「……なんでもないっ!」
ぷい、と顔を背ける。
耳まで真っ赤だ。
(……採点厳しめって言ってなかったか、こいつ)
どうやら、まだ減点されてはいないらしい。
俺は小さく笑いながら、千奈津の後を追った。
~~~~~~~~~~
町に入ると、通りは一気に賑やかになった。
道の両脇には商店が並び、呼び込みの声が飛び交っている。
荷車を引く商人。
友人同士で笑い合う若者。
母親の手を引っ張って菓子屋に駆け込む子供。
どこを見ても、人、人、人。
「……へえ」
思わず感嘆の声が漏れた。
ゲームでも何度か訪れたことのある町だ。
だが、実際に歩いてみると、まるで印象が違う。
画面の向こうでは背景でしかなかった人々が、それぞれの生活を営んでいる。
当たり前のことなのに、妙に感慨深かった。
「世間知らずの若様には珍しい?」
「まあ、そんなところだな」
「ふふん。だったら今日は私が案内してあげるわ」
得意げに胸を張る千奈津。
……いや、お前もそこまで町に詳しくはないんじゃないか?
そんな疑問が頭をよぎったのも束の間。
「――ここよ!」
千奈津が指差した先を見て、俺は足を止めた。
磨き上げられた黒塗りの格子戸。
上品な意匠が施された看板。
店先には美しい反物や、見るからに高級そうな着物が飾られている。
どう見ても、庶民が気軽に立ち寄るような店ではなかった。
「……呉服屋?」
「そうよ。ここの品物は値段の割に質が良いの。せっかくだし、寄っていきましょ」
「……やめとこう」
「は?」
千奈津が振り返った。
「なんでよ?」
「いや、これじゃ普段の買い物と変わらないだろ」
「なによ。文句あるの?」
「せっかくのお忍びデートなんだから、もっとこう……庶民的なところを見て回ろうぜ」
「庶民的?」
「ああ。屋台とか、露店とか」
俺がそう言うと、千奈津は少し考え込んだ。
「……だって、ほかのお店なんて知らないもの」
「だろうな」
「なによ!」
「いや、なんでも。じゃ、俺が案内するよ」
「……あんた、この町に詳しいの?」
「地図なら頭に入ってる」
「それ、案内できるって言わなくない?」
「細かいことはいいんだよ」
「うわ、適当……」
呆れたようにため息をつく千奈津。
しかし、文句を言いながらも俺についてきてくれた。
大通りから一本、脇道へ。
立派な店が並ぶ区画を抜け、庶民向けの商店が集まる通りへ足を踏み入れる。
すると、空気が一変した。
「焼きたてだよー!」
「串焼き、串焼き! うまいよ!」
「お嬢ちゃん、甘い饅頭はいかが?」
威勢のいい呼び込み。
鉄板の上で油が爆ぜる音。
醤油の焦げる香ばしい匂い。
道沿いにずらりと並んだ屋台から、白い湯気が立ち上っている。
「……わあ」
隣で千奈津が小さく声を漏らした。
その目が、きらきらと輝いている。
「こういうところ、来たことないのか?」
「……ないわけじゃないけど」
「けど?」
「いつもは付き添いがいるし、屋台で買い食いなんてしたことないもの」
「なるほどね」
いかにもお嬢様らしい答えだ。
そういう俺も、今の身体になってからは初めてなんだけどな。
「じゃあ、せっかくだし食っていくか」
「……いいの?」
「もちろん」
「……ふうん」
千奈津は何でもないような顔をしている。
しかし、その視線は先ほどから串焼きの屋台に釘付けだった。
(……分かりやすい奴だな)
俺は苦笑しながら、その屋台へと足を向けた。
「らっしゃい! お二人さん、何にする?」
威勢のいい店主が声をかけてくる。
炭火で焼かれた肉には甘辛いタレがたっぷり塗られ、表面が美味そうに照り輝いていた。
「おお、うまそうだな」
「そうね。じゃあ……」
千奈津が懐に手を入れる。
そして、何のためらいもなく取り出そうとしたのは――
金貨だった。
「待て待て待て」
「え?」
俺は慌ててその手を押さえた。
「お前、何出そうとしてんだ」
「お金だけど?」
「金貨だよな、それ」
「そうだけど?」
「串焼き買うのに?」
「……だって、これしか持ってないし」
心底不思議そうな顔で首を傾げる千奈津。
ああ、なるほど。
これが本物のお嬢様か。
「千奈津。今、俺たちはお忍びで町に来てるんだぞ」
「そうね」
「金貨なんか出したら目立つだろうが」
「……あ」
ようやく気づいたらしい。
千奈津が慌てて金貨を引っ込める。
「で、でも、ほかに持ってないんだけど……」
「安心しろ。俺が持ってきた」
そう言って、懐から小さな布袋を取り出す。
ちゃり、と小気味よい音が鳴った。
中には銅貨と銀貨が詰まっている。
「……あれ?」
千奈津が目を瞬かせる。
「若様って、自分でお金持ってたっけ?」
「いや、俺は無一文だぞ」
「じゃあ、そのお金は?」
「屋敷から失敬してきた」
「…………」
一拍。
「……はああああっ!?」
「声がでかい!!」
「だ、だって! それって盗――」
「借りたんだよ! 借りた! あとで帳尻合わせるから!」
「それ、借りたって言わないでしょ!?」
いや、ごもっとも。
しかし、俺の立場にも事情というものがある。
今の五影堂天青は、名目上こそ跡取りだが、金銭に関する裁量なんてほとんど与えられていない。
下手に金を要求すれば、何に使うのか根掘り葉掘り聞かれることになる。
なら、わざわざ面倒な手続きを踏むより、屋敷の雑費から少々拝借した方が話が早い。
……うん。
我ながら、だいぶ悪役じみた発想だ。
「ほら、さっさと買うぞ」
「ちょっと! まだ話は――」
「おっちゃん、串焼き二本! あと焼き饅頭も一つ!」
「あ、あいよ!」
困惑していた店主が、慌てて串を取り上げる。
俺は銅貨を数枚渡し、焼きたての串焼きを受け取った。
「ほら」
「……もう」
不満げに頬を膨らませながらも、千奈津は素直に串を受け取った。
湯気を立てる肉に、恐る恐る口を近づける。
「熱いから気をつけろよ」
「わかってるわよ。子供じゃないんだから」
ぱくり。
「……っ、あつっ!」
「だから言っただろ」
「う、うるさい!」
目尻に涙を浮かべながら、千奈津がこちらを睨んでくる。
しかし、そのままもぐもぐと咀嚼して――
「…………」
目を見開いた。
「……おいしい」
「だろ?」
「……うん」
素直な返事だった。
炭火で焼かれた肉の香ばしさと、甘辛いタレ。
もちろん、屋敷の料理と比べれば高級な食材を使っているわけじゃない。
けれど、焼きたてをその場で頬張るというのは、それだけで格別なものがある。
「……屋敷じゃ、こういう食べ方しないもんな」
「そうね。お行儀が悪いって叱られちゃう」
「今は叱る奴もいないぞ」
「……若様がいるじゃない」
「俺がそんなことで叱ると思うか?」
「思わないわね」
即答。
「むしろ、一緒になって悪いことする側だものね」
「否定できねえ……」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
それから、焼き饅頭を半分に割って分け合い、別の屋台で買った甘い茶を飲んだ。
千奈津は最初こそ遠慮がちだったが、次第に通りの食べ物へ興味を示すようになった。
「……あれは?」
「揚げ団子だな」
「じゃあ、あっちは?」
「焼き餅じゃないか?」
「……詳しいのね」
「まあ、食い物に関してはな」
正直、前世の知識で適当に答えている部分もある。
しかし、見た目も味も、どうやらそう大きく違わないらしい。
そんな調子で屋台を冷やかし、いくつか買い食いしているうちに、すっかり腹が満たされてしまった。
「……ふう」
千奈津が満足げに息を吐く。
「食べすぎたかも」
「さっきから随分食ってたもんな」
「若様もでしょ」
「否定はしない」
そのとき、ふと千奈津の口元が目に入った。
「……お前、口の端」
「え?」
「タレついてるぞ」
「うそっ」
慌てて頬に手をやる千奈津。
しかし、見当違いの場所を触っている。
「そこじゃない。反対」
「こっち?」
「いや、もう少し……」
「もう! どこよ!」
「動くなって」
俺は懐から手巾を取り出すと、千奈津の口元を軽く拭った。
「――っ!?」
ぴたり、と彼女の動きが止まる。
「……はい、取れた」
「…………」
「どうした?」
「……な、なんでもないっ!」
千奈津は俺から手巾をひったくると、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……こういうの、自分でできるんだから」
「そりゃ悪かったな」
「……べつに、嫌とは言ってないけど」
「ん?」
「なんでもない!」
……なんだか今日は、やたらと怒られている気がする。
でもまあ。
少なくとも、つまらなそうにはしていない。
それなら上出来だろう。
「よし。腹も膨れたし、次は露店でも見て回るか」
「……露店?」
「ああ。食い物以外にも色々売ってるだろ」
「ふうん。いいわね」
千奈津は手巾を丁寧に畳んで俺に返し、通りの先へと目を向けた。
「じゃ、案内よろしくね。若様」
「了解。お姫様」
「……そういうの、似合わないからやめなさいよ」
そう言いながら、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。
~~~~~~~~~~
露店が並ぶ通りは、屋台街とはまた違った賑わいを見せていた。
色とりどりの布。
木彫りの置物。
手作りの簪や首飾り。
古びた書物から、何に使うのか分からない呪具まで。
実に雑多な品々が、所狭しと並べられている。
(……おお、面白いな)
ゲームでは、町の商店なんてアイテムの購入画面が表示されるだけだった。
だが実際には、こんなにも多くの人間が商売をしている。
しかも、商品の中にはゲームで見覚えのないものも多い。
こういうところは、探索好きだった身としてはたまらない。
「……ねえ、若様」
「ん?」
「あれ、なにかしら」
千奈津が指差したのは、小さな木彫りの動物が並ぶ店だった。
犬や猫、鳥に狐。
素朴だが、どれも可愛らしい。
「お、よくできてるな」
「でしょ? あ、この狐なんて……」
千奈津が手に取ったのは、丸まって眠っている狐の置物だった。
手のひらに収まるほどの大きさで、尻尾が身体を包むように彫られている。
「……かわいい」
ぽつり、と呟いた。
……へえ。
こういうのが好きなのか。
そういえば、こいつの部屋にも小さなぬいぐるみが置いてあったな。
意外と可愛いもの好きなのかもしれない。
「買うか?」
「べ、別に! 見てただけよ」
「そうか」
俺があっさり引き下がると、千奈津は少しだけ不満そうな顔をした。
……なんだよ。
買ってほしかったのか?
いや、違うな。
単にもう少し眺めていたかったのかもしれない。
そう思って足を止めると、彼女はしばらく狐の置物を眺めてから、名残惜しそうに棚へ戻した。
その後も、俺たちは露店をひとつずつ覗いて回った。
千奈津は装飾品や小物に興味を示し、俺は術式の刻まれた道具や古い部品に足を止める。
「……若様、それ本当に買うつもり?」
「いや、見てるだけ」
「錆びた金具を?」
「こういうのも加工すれば使えるんだよ」
「せっかくのデートで、錆びた金具……」
「お前だってさっきから狐の置物ばっかり見てただろ」
「あれは可愛かったからいいの!」
「理不尽だな!?」
そんなくだらない会話をしながら歩いていると、ふと、小さな鈴が並ぶ露店が目に留まった。
木製の台に、色とりどりの組紐と小さな鈴が吊るされている。
千奈津が足を止めた。
「……綺麗」
その視線の先にあったのは、銀色の鈴だった。
表面には細かな紋様が刻まれ、淡い紫と濃紺の二色の紐が、それぞれ結びつけられている。
「いらっしゃい!」
店番をしていた青年が、にこやかに声をかけてきた。
「お嬢さん、お目が高いねえ。それはただの鈴じゃないよ」
「へえ?」
「《祝福の鈴》って言ってね。失せ物探しの祝福が込められた、ちょっとした呪具なのさ」
「失せ物探し?」
俺は興味を引かれて鈴を覗き込んだ。
なるほど。
よく見ると、表面に刻まれているのは単なる装飾じゃない。
ごく簡単な術式だ。
「対になった二つの鈴を、大切なものにつけておくんだ。そうするとね、片方をなくしても、もう片方が持ち主を導いてくれるってわけさ」
「……へえ。便利ね」
千奈津が感心したように呟く。
「まあ、祝福の力は弱いからね。遠く離れすぎると意味がないし、絶対に見つかるってわけでもない。お守りみたいなものさ」
「なるほどな」
俺は改めて鈴を観察した。
刻まれた術式は確かに簡素なものだ。
ただの飾りではなく、微弱ながら霊力が循環しているのが分かる。
(……エアタグみたいなもんか)
もっとも、こちらは電池も通信設備も必要ない。
いわゆる魔法の便利グッズというやつだ。
ゲームでは見覚えがないが、こういう生活用品にも術式が使われているんだな。
「ちなみにね!」
青年店主がにやりと笑う。
「これ、恋人同士にも人気なんだよ。離れていても、いつか巡り会えるようにってね。だから《恋人鈴》なんて呼ばれたりもするんだ」
「こ、恋人っ!?」
千奈津が素っ頓狂な声を上げた。
「ち、違うわよ!? 私たち、別にそういうんじゃ……!」
「おや、違ったかい?」
「違――」
そこで千奈津は言葉を詰まらせた。
ちら、とこちらを窺う。
……なんだよ、その目。
「まあ、今日はデートだけどな」
「――っ!?」
千奈津が真っ赤になった。
「ば、馬鹿! そういうこと、いちいち言わなくていいの!」
「いや、事実だろ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
店主が愉快そうに笑っている。
……完全に遊ばれてるな、俺たち。
「で、いくらなんだ?」
「二つ一組で銀貨三枚。祝福込みのお値段だよ」
「ふむ」
安い……かどうかは分からない。
だが、装飾品としての出来も悪くないし、術式が付与されていることを考えれば妥当な値段だろう。
「じゃあ、それを一組くれ」
「毎度あり!」
俺は小袋から銀貨を三枚取り出し、店主に渡した。
「……若様」
「ん?」
「それ、例の失敬してきたお金よね?」
「……まだ言うか」
「だって、贈り物を盗んだお金で買うって、どうなのよ……」
「借りた金だって言ってるだろ、次期当主としての裁量だ」
「……屁理屈よ」
ごもっとも。
しかし、なんだかんだ言いながらも、千奈津は嬉しそうだった。
青年店主が二つの鈴を手のひらに乗せて差し出してくる。
淡い紫の組紐が結ばれた鈴。
濃紺の組紐が結ばれた鈴。
どちらも小さく、指先で摘まめるほどの大きさだ。
「さて、どっちを持っていく?」
俺が手を伸ばそうとすると――
「……待って」
千奈津が先に、濃紺の鈴を取った。
そして、それを俺へ差し出してくる。
「……はい」
「ん?」
「これ、あんたにあげる」
「俺に?」
「そうよ」
少しだけ頬を染めながら、千奈津は視線を逸らした。
「だって、あんたって影に沈んだり出てきたりするじゃない」
「まあな」
「……いつの間にか、どっかにいなくなっちゃいそうだし」
「俺は迷子の子供かよ」
「似たようなものでしょ」
「ひでえな!?」
千奈津は小さく笑った。
それから、俺の手を取って、鈴を掌に乗せてくる。
ちりん、と涼しげな音が鳴った。
「……なくさないでよね」
いつもの憎まれ口とは違う、妙に静かな声だった。
俺は手の中の鈴を見下ろした。
こんな小さなものに、本当に失せ物を探す力があるのかは分からない。
でも――
「……ああ。大事にするよ」
そう答えると、千奈津は少しだけ目を丸くした。
そして。
「……そ」
照れくさそうに笑った。
俺は残された淡い紫の鈴を手に取る。
「じゃあ、こっちはお前に」
「……え?」
「交換だろ、こういうのは」
彼女の手を取り、鈴をその掌へと乗せる。
「ほら。なくすなよ」
「……あんたに言われたくないわよ」
そう言いながら、千奈津は鈴をぎゅっと握りしめた。
小さな銀色の鈴。
たかが露店で買った、安物の祝福。
けれど、彼女はそれをまるで宝物みたいに見つめていた。
(……そんなに気に入ったのか)
それなら、買った甲斐もあったというものだ。
「さて、次行くか」
「……うん」
千奈津は鈴を大切そうに懐へしまい、俺の隣に並んだ。
歩き出すと、俺の手元で鈴が小さく鳴った。
ちりん。
少し遅れて、千奈津の懐からも。
ちりん。
……なんだか、妙にくすぐったい音だった。
~~~~~~~~~~
それからしばらく、俺たちは露店の並ぶ通りをあてもなく歩いた。
千奈津は時折、先ほどの鈴を取り出しては眺めている。
どうやら、相当気に入ったらしい。
俺も鈴を懐にしまい、周囲の店を見渡した。
こういう雑多な市場では、案外思いもよらない掘り出し物が見つかったりするものだ。
なにせこの世界、生活用品にすら術式が組み込まれている。
原作知識にないものだって、使い方次第では十分な戦力になる。
(……まあ、今日はデートなんだけどな)
頭の中がすっかり素材漁りモードになっていることに気づき、苦笑する。
そんなときだった。
「――ん?」
とある露店の前で、俺は思わず足を止めた。
そこに並んでいたのは、藁だった。
正確には、綺麗に束ねられた稲藁の束。
店先には小さな木札が立てかけられている。
そこには、こう書かれていた。
――『納豆用・上質稲藁』
「…………」
俺は、その文字を二度見した。
(……納豆?)
納豆。
あの納豆か?
炊きたての白米にかけて食べる、あのネバネバした発酵食品。
(……この世界、納豆あるのか!?)
味噌や醤油がある時点で、大豆を発酵させる技術自体は存在しているんだろうとは思っていたが。
いや、そうか。
よく考えてみれば、この地域は和風文化の色合いがかなり強い。
だったら、納豆があったところで何もおかしくない。
(……そういや、この世界に来てから一度も食ってなかったな)
脳裏に、前世の食卓が浮かび上がる。
炊きたてのご飯。
味噌汁。
焼き魚。
そして、よくかき混ぜた納豆。
……ああ。
なんだか、急に懐かしくなってきた。
別に納豆が特別好きだったわけじゃない。
ただ、前世ではごく当たり前に食べていたものだ。
それが、今では妙に遠い存在に感じられる。
「……若様?」
千奈津が不思議そうにこちらを覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと懐かしいものを見つけてな」
「懐かしい?」
「ああ。納豆って、こっちにもあったんだな」
「……は?」
千奈津が首を傾げた。
「なによ、急に。納豆なんて珍しくもないでしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
……しまった。
この地域の住人としては、納豆を知らない方がおかしいのか。
「しばらく食ってなかったからな。なんだか懐かしくなって」
「……ふうん?」
千奈津は納得したような、していないような顔をする。
その間にも、俺は店先に並ぶ藁束を眺めていた。
太く、しっかりした稲藁。
表面にはわずかに霊力の痕跡が残っている。
なるほど。
この世界の納豆作りにも、何かしら特殊な工程があるのかもしれない。
……ということは。
(これ、別の用途にも使えるか?)
ふと、ある考えが頭をよぎる。
稲藁は、ただの農業資材じゃない。
呪術においては、古来より人形や依り代の素材として用いられてきた。
とりわけ、発酵という工程を経るために選別された藁。
そこに残る微細な霊力の流れは、なかなか興味深い。
通常の藁とは違い、内部に霊力を留めやすい性質を持っているようにも感じられる。
(……ああ、これ、使えるかもしれないな)
人形術。
呪術。
式神の依り代。
現在の俺は、まともな工房も十分な資材も手に入らない。
だからこそ、こういう身近な材料が重要になってくる。
何より、この藁には少しばかり面白い特性がありそうだ。
……よし。
「すみません!」
俺は店主へ声をかけた。
「はいよ、お客さん」
「この藁束、全部いただけますか?」
「……全部?」
店主が目を丸くする。
千奈津も同じような顔をしていた。
「……若様?」
「ん?」
「全部って……この藁を?」
「ああ」
「……なんで?」
「ちょっと使い道があってな」
「…………」
千奈津は俺と藁束を見比べる。
そして、何かを察したように小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「ん?」
「そんなに好きだったんだ、納豆」
「……は?」
今度は俺が首を傾げる番だった。
「いや、そういうわけじゃ……」
「いいのよ。別に恥ずかしいことじゃないし」
「……いや、だから」
「わかってるわよ。ずっと食べられなくて、我慢してたんでしょ?」
千奈津は妙に優しげな目をしていた。
……なんだその、生温かい眼差しは。
「でも、いくら好きだからって、こんなに買ったら食べきれないんじゃない?」
「いや、納豆を作るために買うわけじゃ――」
「え? じゃあ何に使うの?」
「……まあ、ちょっとした実験だな」
「……実験?」
「そう」
「……藁で?」
「ああ」
「…………」
千奈津の表情が曇った。
どうやら、あまり納得していないらしい。
「……若様」
「なんだ?」
「無理して言い訳しなくてもいいのよ?」
「言い訳じゃねえよ!?」
「大丈夫。納豆が好きだからって、馬鹿にしたりしないから」
「だから違うって!」
……駄目だ。
こいつ、完全に勘違いしてやがる。
しかし、それ以上説明するのも面倒だった。
そもそも、俺自身まだ明確な用途を決めているわけじゃない。
素材として面白そうだから買う。
現状は、それだけだ。
「……まあ、いいや。とにかく全部ください」
「ま、毎度あり!」
店主は困惑しながらも、売り物をまとめ始めた。
結構な量だ。
十束、二十束……いや、もっとあるな。
「お坊ちゃん、これだけの量だと、それなりのお値段になりますが」
「構いません」
俺は即答した。
そして、懐の小袋に手を伸ばして――
「…………」
中身を確認する。
銀貨が数枚。
銅貨が少々。
屋台での買い食いと、先ほどの祝福の鈴。
それらで、持ってきた小銭の大半は使ってしまっていた。
(……足りねえな、これ)
俺は小さく唸った。
……仕方ない。
「……なあ、千奈津」
「……なによ」
千奈津が警戒するように眉を寄せる。
「ひとつ頼みがあるんだが」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「さっきの金貨、貸してくれないか?」
「…………」
千奈津が固まった。
一拍。
二拍。
「…………は?」
「いや、だから、金貨を――」
「なんでよ!?」
盛大なツッコミが飛んできた。
「なんで私が、あんたの納豆のために金貨を出さなきゃいけないのよ!?」
「納豆のためじゃねえって!」
「じゃあ何のためよ!」
「実験だよ、実験!」
「余計に嫌なんだけど!?」
……ごもっとも。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
俺は両手を合わせた。
「頼む! ちゃんと返すから!」
「……返せるの?」
「屋敷に戻ったら、何とかする」
「……また失敬してくるんじゃないでしょうね?」
「…………」
「黙るな!!」
……鋭いな、こいつ。
千奈津は大きくため息をついた。
「……はあああ」
それから、店先に積み上げられた藁束を見る。
さらに、俺の顔を見る。
「……そんなに欲しいの?」
「ああ」
「……どうしても?」
「どうしても」
千奈津はしばらく黙っていた。
そして。
「……もう、分かったわよ」
懐から金貨を取り出した。
「これで足りるでしょ?」
「おお! 恩に着る!」
「ただし!」
びしっ、と指を突きつけられる。
「ちゃんと返しなさいよ! それと、もう変なものを買わないこと!」
「もちろんだ!」
「……返事だけはいいんだから」
呆れ果てたように呟く千奈津。
俺は店主へ金貨を差し出した。
「これで全部ください」
「は、はいよ!」
店主は驚きながらも、金貨を受け取った。
さすがに藁束だけで金貨一枚を使い切るわけではないらしく、残りは釣り銭として返してくれた。
……いや、それでも随分な量を買い込んだな。
露店の前には、藁束の山ができている。
「……で、若様」
「ん?」
「これ、どうやって持って帰るつもり?」
「影にしまう」
「…………」
千奈津が、額に手を当てた。
「……影術って、そんなことに使うものだったかしら」
「便利だぞ?」
「知ってるわよ! もっと有意義な使い方があるって言ってんの!」
いや、これも十分有意義なんだけどな。
俺は藁束の山へ手をかざす。
足元の影が、波打つように広がった。
ずぶり。
藁束がひとつ、またひとつと影の中へ沈んでいく。
その光景に、店主がぎょっとした顔をした。
「お、おお……! お坊ちゃん、星術師様だったのかい!」
「まあ、そんなところです」
俺は軽く笑って誤魔化した。
やがて、山積みだった藁束はすべて影の中へと収まった。
……うん。
なかなかの収穫だ。
(あとで色々試してみるか)
これだけあれば、多少失敗しても問題ない。
人形の依り代にするもよし。
呪術の素材として加工するもよし。
発酵に関わる微細な霊力の性質を調べてみるのも面白い。
……まあ、ついでに納豆も食えたら嬉しいが。
「……若様」
千奈津が、じとっと俺を見上げてくる。
「……なに?」
「そんなに納豆好きだったのね」
「だから違うって言ってんだろ!?」
「はいはい。分かってるわよ」
「分かってねえだろ!」
「いいじゃない。人にはそれぞれ好きなものがあるんだから」
そう言って、千奈津はくすくすと笑った。
……完全に遊ばれてやがる。
「……もういい。好きに思ってろ」
「ふふっ。じゃあ、今度お屋敷の料理人に頼んで、納豆をいっぱい用意してもらおうかしら」
「いや、それは普通にありがたいけど」
「ほら、やっぱり好きなんじゃない!」
「……くそっ!」
反論できねえ。
千奈津は楽しそうに笑っていた。
俺は大きくため息をつく。
……まあ、いいか。
少なくとも、こいつが楽しそうなら。
そう思って、俺もつられて笑ってしまった。
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――さて。
そんな調子で、俺たちは露店街を歩き続けていたのだが。
「……そろそろ戻るか?」
「そうね。あんまり遅くなると、さすがに怪しまれちゃうし」
千奈津が頷いた。
気づけば、町の賑わいも少しずつ落ち着き始めている。
星焔の光はまだ十分に明るいが、それでも時間は確実に過ぎていた。
そろそろ帰らなければ、屋敷の人間たちが騒ぎ出すかもしれない。
……いや、俺については案外誰も気づかないかもしれないが。
千奈津は違う。
分家の期待を一身に背負う令嬢だ。
姿が見えなくなれば、それだけで大騒ぎになるだろう。
「じゃ、適当な場所で影渡りするか」
「ええ。……あ、でも」
「ん?」
千奈津が、ふと足を止めた。
懐から取り出したのは、先ほどの祝福の鈴だった。
指先で摘まみ、ちりん、と小さく鳴らす。
「……今日は、結構楽しかったわ」
「……お?」
思わず目を瞬かせる。
こいつが、こんなに素直に言うなんて珍しい。
「なんだよ。急に」
「なによ。悪い?」
「いや、別に」
「……ふん」
千奈津は少しだけ頬を赤くした。
「……まあ、若様にしては上出来だったんじゃない?」
「おお。高評価じゃないか」
「勘違いしないでよね。納豆の件は大幅減点だから」
「まだ言うか!?」
「ふふっ」
千奈津が笑う。
その笑顔は、屋敷で見せる令嬢のものとも、修練場で見せる勝ち気なものとも少し違っていた。
年相応の、ただの女の子の笑顔。
……ああ。
こういう顔もするんだな、こいつ。
ふと、そんなことを思った。
原作の斎賀千奈津。
『穢れた影、暗色の愛』。
そのルートで、彼女が辿る破滅的な運命を思い出す。
人格を塗りつぶされ、影に侵食され、狂気に呑まれていく少女。
俺が知っている彼女は、もっと冷たく、もっと危うい存在だった。
けれど。
今、目の前にいるのは――
安物の鈴を大切そうに握りしめて、くだらない冗談で笑っている女の子だ。
(……やっぱ、こんな奴をあんな目に遭わせるわけにはいかねえよな)
改めて、そう思った。




