第6話 斎賀千奈津という女
どこまでも、深い水の底を落ちていくような夢だった。
届かない天井。
手を伸ばしても掴めない光。
遠くで、誰かの声がする。
――お前は、誰だ。
誰かが、胸ぐらを掴んで揺さぶる。
顔が見えない。
見えそうになるたびに、闇が塗りつぶす。
代わりに、別の声が聞こえた。
――死ぬなよ。
――お前が死んだら、俺の足掻きが無駄になる。
乱暴で、ぶっきらぼうで。
だけど、不思議とあたたかい声だった。
(……誰、だっけな)
思い出そうとした瞬間。
意識が、水面へと引き上げられた。
~~~~~~~~~~
目を開けた。
まず見えたのは、木の梁だった。
見慣れた天蓋。
見慣れた部屋。
鼻腔をくすぐる、薬草と香木が混ざった匂い。
「……っつ」
ちょっと動いただけで、あちこちが軋んだ。
頭が鈍く痛い。
肋骨、肩、腰、足の付け根――全身が、じんじんと主張している。
(生きてる、な……)
鬼の拳。
自動操演を無理やり引き上げた反動。
いつもの毒と呪いの蓄積。
よくまあ、まとめてぶち込まれておいて、まだ息があるもんだ。
視界の端で、なにかが動いた。
「あ、起きました?」
ひょいっと覗き込んできた顔がある。
菫色の髪。
夜空みたいな瞳。
斎賀千奈津――の、はずだ。
……だが。
「よかったぁ。さすがに三日も起きないと、さすがの私も『あ、これ死んだ?』って不安になりましたよ、若様」
口から出てきた声は、昨日まで食堂や庭で聞いていた、あの冷たい礼儀正しい調子じゃなかった。
どこか軽い。
語尾がちょっと跳ねてる。
顔つきも、きっちり作った「令嬢の仮面」じゃなくて、年相応の少女そのものだ。
「……誰だお前」
「ひどっ。自分をボコボコにして気絶させた相手の顔、もう忘れました?」
千奈津は、わざとらしく頬を膨らませてみせる。
「斎賀千奈津ですよ。斎賀千奈津。若様と違って将来有望な斎賀家のご令嬢ですよ~」
「いや、キャラが違いすぎるんだが」
「こっちが素です。そっちが“外面”です」
さらっと言い切ってから、ベッド脇に置いてあった盆を手に取る。
「はい、とりあえず水。ちゃんと冷えてます。毒は入ってません」
「お前が言うと、説得力が半減する」
「失礼な。さすがに、寝込んでる人に毒は盛りませんよ」
「寝込んでなきゃ盛るみたいな言い方するなよ」
悪態をつきながらも、喉の渇きには逆らえない。
ゆっくり上体を起こそうとして――肺のあたりで痛みが爆ぜた。
「うっ……」
「はいはい、無理しない。肋、何本かヒビ入ってましたからね」
あたり前みたいな口調でさらっと言う。
「ついでに、肩の筋も一部切れてましたし、足も関節の方が泣いてました」
「……お前、よくそんな状態の人間殴ったな」
「殴ったのは鬼です」
「お前が呼んだ鬼だろうが」
「……ごめんね♡」
「許すわけねぇだろバカ」
盆から差し出された杯を、震える手で受け取る。
水が喉を通る感覚が、やけに鮮やかに感じられた。
一息ついてから、ふと気になって訊ねる。
「……今、“三日”って言ったか」
「言いました。丸三日ですよ、若様。決闘の次の日まるっと昏睡、その次の日も起きず、昨日あたりようやく寝返りを打つくらいまで回復して――今日、やっと目が開きました」
「わりと本格的に死にかけてるじゃねえか」
「ですねぇ。途中で一回、本気で肝が冷えました」
そう言って、千奈津は俺の胸元を指さした。
薄い布越しに、ひやりとした感触が伝わる。
見下ろせば、皮膚の上には解呪札と回復札を貼った痕がまだ赤く残っていた。
「毒。呪い。内出血。骨のヒビ。筋断裂。それから慢性的な疲労。――この中のどれか一つくらいなら、まあ普通に治せますけど」
人差し指を折って数えながら、じとっとした視線を向けてくる。
「全部まとめてぶっこんでくる若様の方が悪いと思いません?」
「いや、それは……その」
言葉に詰まる。
毒鍛錬は自分で始めたことだ。
自動操演の出力を上げたのも、自分の判断だ。
そこに鬼の拳が綺麗に重なっただけであって――いや、「だけ」ってレベルじゃないが。
「……やっぱお前が悪いだろ」
そういって千奈津の顔を見ると……。
「えへ」
そこには悪びれない、従妹の姿が。
「クソガキが……ッ」
得も言われぬ怒りがこみ上げると同時に、なんか、原作ヒロインを目の前にして、妙に気を張って疲れてきてしまった。
「……もう一回寝る。要件があれば起こせ」
「はい、おやすみなさい」
俺はそういって再び布団をかぶり、目をつぶった。
~~~~~~~~~~
そうして目をつぶった私の従兄は無防備にすうすうと寝息を立て始めた。
……本当に、よく寝る。
さっきまで毒だの鬼の拳だの文句を言っていた人間とは思えないくらい、子どもみたいな寝顔で。
(――最初に会ったときの印象は、最悪だったのに)
私はそっと立ち上がり、乱れかけていた掛け布団を胸元まで引き上げる。
初めて“若様”と顔を合わせたのは、まだ私がもっと小さかった頃。
本家に挨拶に上がったとき、広間の奥でふんぞり返っていた少年の姿を、今でもよく覚えている。
鼻で笑うような目つき。
妾腹のくせに跡取り面をしている、と陰で囁かれていた少年。
影術の才を持ちながら、まともに鍛錬をしない。
侍従や教育係を怒鳴りつけ、遊び歩き、我儘を言って気まぐれに人を振り回す――。
少なくとも、私の知る「五影堂天青」は、そういう人間だった。
だから、この別邸に来ると決まったときも、正直、あまりいい気分ではなかった。
将来有望だなんだと持ち上げられる一方で、「影術が使えない」というただ一点のせいで本家の跡取りから外され、人形のように扱われる私と。
才能があるのに磨きもせず、腐らせている“本家の坊ちゃん”。
比べたくなくても、比べてしまう。
努力をしない人間が嫌いだ。
それを認めない人間は、もっと嫌いだ。
私がいくら頑張っても影術ができないだけで評価してくれない父や母。
優秀と言いながらも周囲で陰口を叩く大人たち。
そんな周りを取り巻く環境に憎しみを抱いていた。
だから、彼に向ける視線は自然と冷たくなっていたし、父や母が彼の悪口を言うたび、どこかで同意してしまっていた。
――少なくとも、この別邸に来るまでは。
けれど。
(毒を、盛られていた)
ふと、鼻先をくすぐった匂いを思い出す。
最初にこの部屋に入ったとき、まだ若様は寝ていて、侍女が茶を片付けに来ていた。
何気なく湯呑みに顔を近づけたとき、薬草とは違う、甘ったるい匂いがした。
私は呪術の素養がある。
薬と毒と呪いの匂いには、それなりに敏感だ。
(……あれは、体調を崩す類いのもの)
致死量ではない。
けれど、毎日飲まされれば、判断力も体力も確実に削っていくような類いの。
教育係の老人も、まともな「戦う者の教本」を渡してはいなかった。
肝心な箇所がごっそり抜け落ちた教本。
秘術や実戦技術に関する記述が、まるで虫食いのように空白になっていた。
侍従たちの態度もそうだ。
礼儀は整っているけれど、そこに敬意はない。
掃除は雑で、衣服は皺だらけ。
何も言わなければ「これで足りている」とでも言いたげな顔で、彼の前に皿を並べていた。
(“跡取り”なのに。――いや、“跡取りだから”か)
家の内情は、ある程度察している。
本家の中での天青の立場がどれだけ不安定か。
妾腹であること。
ただここまで劣悪な環境だとは思ってもいなかっただけで。
毒。
穴だらけの教本。
雑な世話。
誰も本気で教えようとしない鍛錬。
――まともな修練を積める環境じゃない。
式神も与えられていない。
工房も近くになく、手元にあるのは不格好でできの悪い木偶ばかり。
そんな場所で。
そんな環境で。
(あそこまで、戦っていた)
さっきまでの決闘を思い出す。
あれは、才能だけでどうにかなる動きじゃない。
自動操演で身体を無理やり動かしていたとはいえ、あの精度と速度は、何度も何度も繰り返し動きをなぞらなければ身につかない。
鍛錬で培った毒耐性。
呪いを受けて、解いて、また受けて。
影術で足元を縫う感覚。
人形術を、他人ではなく自分にかけるという発想。
(努力をしていないどころか)
――あの人は、多分、私なんかよりずっと、孤独に足掻いてきた。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(なのに私は、“楽をしている愚物”だと決めつけていた)
恥ずかしい。
腹が立つ。
でも、一番腹が立つのは、自分自身にだ。
私もまた、「環境の被害者」であることを盾にしていたのかもしれない。
私は影術が使えない。
生まれつき、影に触れる感覚だけが欠けている。
そのせいで、五影堂の跡取り候補から外され。
「器」として、儀式のために育てられてきた。
この先、そう遠くない未来。
私は私でなくなる。
自我を塗りつぶされ、誰かの影に乗っ取られ――そう定められている。
(……怖くないと言えば、嘘になる)
怖い。
本当は、嫌だ。
でも、「家のため」「人類のため」と笑って言う大人たちの前で、それを口に出すこともできなかった。
だから、誰かを見下していた方が楽だった。
妾腹のくせに跡取りの顔をしている若様を。
才能を持っているのに使おうとしない人間を。
そうやって、優越感の上に自分を立たせていれば、自分の惨めさを見なくて済むから。
――それなのに。
あの一撃は。
鬼を呼ぶ前に、私の足を縫い、短刀ごと刀を叩き落としてきた、あの一撃は。
あまりにも真っすぐで、必死で、格好良かった。
私は寝息を立てる横顔を見下ろしながら、そっと指先で前髪をよけた。
この人は、この環境に抗っている。
誰にも気づかれないところで、自分を鍛えて、未来を変えようとしている。
その姿に――
(……私の方が、元気づけられてしまうなんて)
笑ってしまう。
私の方が、よっぽど「諦めていた側」だ。
自分の運命は変えられない。
いずれ自我を塗りつぶされるくらいなら、今くらいはせめて真面目でクールな「良い子」を演じていればいい。
そうやって、自分で自分を型にはめていたのは、他でもない私だ。
なのに、妾腹で、毒まみれで、誰にも教えられずに鍛錬している若様が――
その型を、勝手に蹴り飛ばしていく。
(……ずるい)
でも。
(放っておけない)
私もまた、この鬱陶しい世界に囚われている一人だ。
だったら――
せめて、この人くらいは。
この人の足掻きくらいは。
横で見届けるくらいには、なりたい。
叶うことのない願いだと理解していても。
そんな、とても面倒で、重たい感情が、じわじわと胸の底からにじみ出してくるのを感じた。
~~~~~~~~~~~
「それで何の用だ」
数日後、どうにか自力で歩けるくらいには回復した頃。
俺は、別邸の中庭の一角――ほとんど使われていない石灯籠のそばに呼び出されていた。
まだ身体の奥に鈍い痛みは残っている。
無理すればまた寝込みコースだろうが、日常動作くらいなら問題ない程度には治っている。
目の前には、菫色の髪の少女――斎賀千奈津。
軽く結い上げた髪を揺らしながら、彼女は石灯籠にもたれかかるようにして立っていた。
いつもの、よそ行きの令嬢スタイルではない。
楽な着物に羽織を引っかけただけの、いかにも「こっそり抜け出してきました」という格好だ。
「第一声それですか~、若様」
口をとがらせながら、こちらを見上げてくる。
「まだ全身ばきばきなんだ。労わりの言葉のひとつでも期待した俺が悪かったな」
「鬼で殴られたくせに、元気じゃないですか」
「殴ったのお前だからな? 少しは悪びれろ」
そういって睨むも彼女はけらけらと楽しそうに笑っている
このやり取り、どうにもペースを乱される。
試合前に想像していた「クール系ヒロイン」とは、だいぶ違う。
「で? わざわざこんな人気のない場所指定してまで、何の相談だ」
「相談というか、提案というか」
千奈津は少しだけ真面目な顔になって、姿勢を正した。
「共同戦線、張りませんか。若様」
「…………は?」
思わず間抜けな声が出た。
「お前、何を言ってるか自分でわかってるか?」
「わかってますよ。意味わかってないのは若様の方です」
あっさり言い切ると、彼女は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「若様。あなた、今のままだと――いずれ本当に殺されますよ」
「……まあ、それは否定しない」
毒。
呪い。
家中の権力争い。
そして、原作知識で知っている“シナリオ上の死”。
必要であったとはいえ力を示せば五影堂家の中での立場が危うくなる。
「ただしそれを避けるために俺は、ちゃんと足掻いてるつもりだ」
「それは知ってます」
千奈津の瞳が、まっすぐにこちらを捉える。
「嫌ってほどわかりました。若様が、どれだけ“こっそり”鍛えてたか」
その言い方が、妙にくすぐったい。
「まともな修練環境じゃない。毒盛られて、呪われて、教本は穴だらけで、周囲は侮って、見下して、何も与えられない――」
そこで千奈津は、ふっと笑った。
「それでもあそこまでやってくる若様は、たぶん、すごくしぶとい」
「……褒めてんのか、馬鹿にしてんのかどっちだ」
「両方です」
きっぱりと言い切った。
「でも、そのしぶとさに、私、ちょっとだけ賭けてみたくなりました」
そこまで言うと、千奈津は一歩こちらに近づく。
距離を詰められて、少しだけ身構える。
「安心してください。罠じゃありません」
すうっと目の前にその顔が近づいてくる。
やたら美形のそれが目の前に現れたものだから、思わず俺はドキドキしてしまう。
「共同戦線って、具体的に何をするつもりだ」
「簡単です」
千奈津は指を一本立てた。
「私に、影術を教えてください」
そこで、息を呑んだ。
斎賀千奈津。
影術の才だけが決定的に欠けているせいで、跡取りの椅子を外された少女。
ゲームでも、「影術に関してだけは素質ゼロ」と明言されていたはずだ。
「……お前、自分で分かってるだろ。影術の才能は皆無だ」
「はい。生まれつき、影の感覚がないんです」
あっさり認めながら、彼女は続ける。
「でも、完全にゼロだとは思ってません。だって――」
ちら、と俺の足元を見る。
「“影に縫われる”感覚だけは、分かりましたから」
「ああ、あの時」
試合中。
千奈津の足首を、影縫いでかすめた瞬間。
彼女の身体が、微妙に反応していたのを思い出す。
「あれ、気配だけで分かったんですよ。足の裏じゃなくて、“影の皮膚”みたいなところを触られたような、変な感じでした」
「影の……皮膚」
「はい。だから、全くのゼロではないと思うんです」
彼女は、少しだけ眉を下げた。
「それに、影術がまったく扱えないと決めつけられたままなのも癪ですし」
負けず嫌い。それだけではない心の影が表情に現れる。
「…………」
聞きながら、奥歯を噛んだ。
原作ルートの千奈津は、その儀式によって人格を上書きされ、穢れた影に飲まれていく。
そして、破滅的な愛と死に向かって一直線に進んだ。
その“序章”が、今ここにある。
「だから、悪あがきがしたいんです、私も」
千奈津は、まっすぐに俺を見る。
「影術の才がないと言われたまま諦めるんじゃなくて、自分で限界を確かめたい。できることを全部やって、それでも駄目だったら――そのときはそのとき」
その目は、思っていた以上に、強かった。
「で、その代わりと言ってはなんですが――」
指が、ぴっと俺の胸元を指す。
「若様には、私の得意なことを教えてあげます」
「得意なこと?」
「夜、手ほどきをしてあげますよ」
特大の爆弾を落としていった。
「……はあッ?」
俺は柄にもなく大きな声を上げてしまった。
「式神術。傀儡人形術。呪術。それから、神術の“周辺”くらいなら教えられます」
にやり、と笑う。
ああそういうことか……
勘違いをした俺をからかうようにクスクス笑う千奈津。
こいつわかってて揶揄いやがったな……。
「家は意地悪して教本から秘術を抜いてますけど、そこにあるべき知識は私が覚えています」
そういえばゲームでも、千奈津は前衛傀儡と式神を同時に操る器用なユニットだった。
呪術のいやらしさもひどかった。
「つまり、お前の持ってる武器、教材と技術を、俺に流してくれるってことか」
「こっそり、ですけどね」
彼女は声を落とす。
「父上も母上も、本家の人たちも、気づかないように。――共同戦線って、そういう意味です」
対、大人連中。
対、家の思惑。
対、この鬱ゲー世界。
「若様は、私に影術の“感覚”を教える」
人差し指を折る。
「私は、若様に術師としての“正規ルート”を教える」
中指を折る。
「お互いに得をして、お互いに利用し合う。家にとっても大人にとっても“不利益”な関係です」
最後に、いたずらっぽく笑った。
「どうです? 悪くない取引だと思いません?」
――本当に、悪だくみが上手いガキだ。
けれど。
(“お互いに利用し合う”か)
俺は、自分の握っている情報量をざっと頭の中で整理する。
原作知識。
ゲームを何周もプレイした記憶。
この世界がどう詰んでいるか、どこで誰が死んでいくか、知っているということ。
ただ、それだけじゃ足りない。
現実の「術理」は、ゲームのテキストよりずっと複雑だ。
人形術も、呪術も、式神術も。
本来なら、体系立てて師匠から教わるべきものだ。
そこを、千奈津から補えるのなら――
……悪くない。
口の端が自然に吊り上がった。
「……いいだろう」
俺は小さく息を吐いた。
「覚悟しろよ。斎賀千奈津、これは互いの状況をひっくり返すための共同戦線だ」
「逃げることは許さない。諦めることも許さない」
「ただ、自らのためにあがき続けることを誓え」
その言葉に彼女はまぶしそうに目を細めて。
「ありがとうございます。じゃあ――」
すっと右手を差し出してくる。
「改めて、よろしくお願いしますね。お兄様?」
俺はその手を握った。
「あと、俺はお前の兄ではない」
「やだ、照れないでよ、からかっただけなのに」
「黙れ」




