第2話 刻んだ言葉
白み始めた空の下、焼き落とされた村の広場には、立ち昇る煙と、冷たくなった肉塊の匂いだけが漂っていた。
「……お、……かあ……さん?……」
ロリエッタに引かれていたアルテナの手が、不意に弾かれたように離れた。
血の海に沈み、物言わぬ人形のようになった女性。
アルテナは、それがさっきまで自分を逃がそうとしていた、たった一人の「母」であることを認めたくなかった。
「……あ、…………あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
獣のような叫びを上げ、アルテナは母の元へ駆け寄った。冷え切ったその肩を、小さな手で何度も、何度も揺さぶる。
「おかあさん! おきて! おきてよ! いやだよ!おいていかないでって……やくそくしたじゃない!」
返事はない。
ただ、アルテナの頬を伝う涙が、母の血を薄めていくだけだった。
ロリエッタは、少し離れた場所でその光景を静かに見守っていた。
彼女の瞳には、幾度となく繰り返されてきた『死』の光景が映っていたが、その奥底には、昨日預かった娘への言葉の重みが鈍く光っていた。
「……師団長。村の状況、報告いたします」
部下の一人が駆け寄る。ロリエッタは視線をアルテナから外さず、短く促した。
「……申せ」
「村人三十二名を確認。うち、半魔人は十三名……。生存者は、あそこにいる少女一名のみです。他の者は全員……」
「……そうか。亡骸をここに集めろ。野盗は離散したが、この者達を野晒しにはできん。ここで全員、弔う」
凄惨な結末を看取るロリエッタの覚悟。その冷徹とも取れる決断が、広場に響き伝わった。
しかし、アルテナの耳には届いていない―――。彼女はただ、生気を失った目で母の顔を見つめ続けていた。
やがて、アルテナの動きが止まった。
泣き叫ぶ気力すら枯れ果て、虚無の底に沈んだ瞳。
彼女の視線が、ふと、すぐ傍らに落ちていた短剣に向いた。
村を襲った略奪者のものか、あるいは抵抗した村人の者か。
アルテナは吸い寄せられるように、その剣を握った。
「……わたし、…も…………」
掠れた声が零れる。
半魔として蔑まれ、唯一の味方だった母をも失った。
―――こんな大っ嫌いな世界。
アルテナは迷いなく、その短剣を自分の喉元へと突き立てようとした。
刹那。
鈍い衝撃と共に、アルテナの手が止まった。
「……ッ!!」
ロリエッタの素手が、短剣の刃を真っ向から掴んでいた。
鋭い刃が彼女の手のひらを深く切り裂き、鮮血がアルテナの顔に飛び散る。
「!!なにを、……はなして!!」
「離さん。己が身に降りかかる境遇から逃げるでないわ愚か者!!わしは、お前の母に頼まれ、お前を『生かす』と約束した。ここで死ぬことは、このわしが絶対に許さぬ!!」
ロリエッタは深く刺さった短剣を、力任せに引き抜き、遠くへ投げ捨てた。
そして、自身の傷口から溢れる血を厭わず、血に濡れたその手でアルテナの肩を掴み、彼女を現実へと引き戻すように揺さぶった。
「聞け、アルテナ。……命を賭し、最後の灯火が消えるその時まで、お前の安否を案じ幸せを願った、お前の母が、わしに託した最後の言葉だ」
ロリエッタの声は静かに、けれど鋼のような強さを持った語り……その言葉が、アルテナの耳には母の慈愛に満ちた声となって響く。
『……いい、アルテナ……たとえ世界中の人が、あなたのことを嫌っても……あなたは、《愛すること》を決して……諦めないで欲しいの。そうすれば、……あなたの母が、かつてそうであったように、……あなたを心から愛してくれる人が、……きっと見つかるはず……大好きよ、アルテナ。ありがとう……私の子として生まれくれて……。母は誰よりも、……あなたを愛してるわ』
「…………っ」
アルテナの瞳が大きく見開かれた。
声にならない悲鳴がアルテナの喉をつく。
「この世界はお前にとって残酷だろう。だが、自分を愛せぬ者に、他者を愛することはできぬ。他者を愛せぬ者に、愛される資格はない……。それを、お前に伝えたかったのだ。『愛することを決して諦めない』その言葉をここへ刻め!」
ロリエッタは、血の滲む手の指先をアルテナの胸に差した。
アルテナは、再び母の亡骸を見つめる。
今度は、恐怖や悲しみだけではない。
母が遺した『願い』の重さが、彼女のその小さな胸を押し潰しそうになっていた。
「……う、…ぅあ、……あああああ……っ!」
再び溢れ出した涙は、今度は自分を呪うためのものではなかったに違いない。
「……母を含め、ここにいる村人のために涙を流してやれ」
ロリエッタは、アルテナの頭を優しく、けれど重々しく撫でた。
「―――それが、慰めとなる……心から、この者達のために泣いてやれるのは……世界で、お前一人しかいないのじゃから……」
◇
時折、自身の体から硝煙の残り香がする。
今のアルテナ自身の状況を考えると、彼女が見上げたまだ薄いグレイブルーの空さえも、押し潰されそうな重圧に感じることだろう。
そんな空の下、馬の蹄が刻む音だけ、規則正しく響いていた。
ロリエッタに抱かれたまま、大きく揺れる馬の背でアルテナは少しも動かなかった。
振り返れば、自分のいた小さな世界が、黒い煙となって天へ昇っていくのが見える。
母の温もりも、優しい嘘も、すべてはあの炎の中に置いてきた。
ロリエッタの服をアルテナの小さな手は、白くなるほど握りしめている。
それだけが、今の彼女をこの世界に繋ぎ止める唯一の楔だったから―――。
「ジニア、サルセ、皆を連れ先にゆけ!わしは、こ奴と共にテーベの砦に向かい夜が明けてから王都へ向かう」
「わかりました。陛下には何と報告を?」
ジニアがロリエッタの馬と並走させながらそう聞いた。
「帰ったらわしが説明する。適当に茶を濁しておけば、まぁ、問題なかろう。」
「でた〜師団長の『まぁ、問題なかろう』!おい、気をつけろよジニア。多分ヤバイぞ!」
サルセが少し後方からニタニタと笑っている。
「ば〜か!陛下への報告は、お前も一緒だ!」
「なっ……えっ?嘘だろ?!」
サルセの顔が、一気に青ざめた。
「まぁ、いつもの事だと諦めてくれ。二人とも、後は頼んだぞ!」
「「はっ、師団長!お気をつけて!!」」
そう互いに声をかけると、ロリエッタは分かれ道の左へ、ジニア、サルセは右へと馬を走らせた―――。
◇
崖下に広がる森が、夜霧を吐き出して辺りを飲み込もうとしていた。
……その暗がりに怯えるアルテナを余所に、ロリエッタは淡々と告げた。
「……着いたぞ」
ロリエッタが馬を止めたのは、深い森の崖際にひっそりと建つ石造りの砦だった。
軍の駐屯地というにはあまりに寂れ、隠れ家というにはあまりに強固な、歪な場所。
ロリエッタは手際よくアルテナを降ろすと、一度も彼女の顔を見ることなく、スタスタと中へ入っていく。
「何をしておる?夜露は毒だ。ぼうっとしておらんで入れ」
言われるまま通された部屋には、簡素なベッドと小さな暖炉があるだけだった。
ロリエッタは無造作に薪を放り込み、指先から小さな火花を散らして火を点けた。
その淀みのない魔法の行使に、アルテナは初めて小さな声を漏らした。
「まじゅつ……ううん、……まほう?」
「そうじゃ。わしは、魔族じゃからな。魔法が使える。人族も精霊の力を借りて同じことができるがの」
「ま、まぞく……」
ロリエッタは棚から古い毛布を取り出し、下げていた鞄から固く焼かれたパンを取り出した。
「食え。食いたくなくとも、ねじ込め」
アルテナは差し出されたパンを手に取ったが、喉が塞がったように動かなかった。
火に照らされた自分の手を見ると、母の血と煤がこびりついている。
ロリエッタは、椅子に座り真っ直ぐ自分を見ている。
「……ちがうの」
不意に、アルテナの口から言葉が零れた。
「何がだ」
「わたし、……『はんま』じゃない。おかあさんが、そういえって。だれにきかれても、めのびょうきだから、ちがうって……」
震える声で繰り返される、悲しい嘘。
ロリエッタは、返り血で汚れた自らの外套を脱ぎ捨てると、アルテナの前に膝を折った。
「お前が半魔だろうが、ただの人だろうが、わしの知ったことではない。……そんなことより、今は腹を満たして眠れ。今のわしにとって大事なことは、この先お前を生かすことだけだ」
突き放すような物言いだったが、アルテナにはそれが、どんな慰めよりも温かく感じられた。
生まれて初めて『半魔ではない自分』を演じなくていいと思えたのだ。
最後に見たのは、暖炉の傍らで椅子に座ったまま、深く目を閉じるロリエッタの横顔だった。
椅子の肘掛けに置かれた彼女の白い手には、アルテナが手にしていた短剣で刻まれた傷が生々しく見える。
ぼやける視界とまぶたの重みに、アルテナの体は泥のようになり、深い眠りに引きずり込まれる。
◇
翌朝―――。
差し込む陽光に目を覚ましたアルテナは、跳ね起きるように辺りを見回した。
夢ではなかった。
やはりそこは、見知らぬ石造りの部屋だった。
暖炉の前には、昨日と同じ姿勢でロリエッタが座っていた。
「……起きたか」
ロリエッタがゆっくりと目を開ける。
その瞬間、アルテナは息を呑んだ。
昨日、彼女の手にあったはずの痛々しい傷跡が、影も形もなく消えていたのだ。
「あの、おねえちゃん……」
「ロリエッタだ」
彼女は短く訂正すると、立ち上がって伸びをした。
「きず、……」
「傷?ふむ、……わしは眠れば、元通りになる『呪い』が……と、言ってもわからんな」
ふっと、ロリエッタは、冷ややかな失笑を浮かべた。
「―――さぁ、王都へ向かうぞ……」
ロリエッタは、外套を床から拾い上げ肩に担いだ。
そんな、呪われた魔女と、居場所を失った半魔の娘。
このふたりの出会いは、後の世界を大きく変えることになる―――。




