095_あちらにもいたい、
いることは簡単ではある、そう思えば良い、思い込めば良い、妄想で良いのである、自分自身があるとして、見立てて、そして情報のずれを食べているとすればよく、そうなればそれはあちら側にいることになる、時間軸の超越はしているけれども気がついていないということになればよく、こちら側の端末的な役割で固定されている永遠であるからして、いつか解放される時を待っているのであるけれども実のところそれは一瞬であるから、気にしなくてもよく、永遠を一瞬で経験しているようなものであるという、何かの一部というよりは、端っこであるとか、末端であるという認識を持つと、もうすでにあちら側の存在ではある。
妄想であり妄言であり、思い込み、見立てなのである、肉体の苦しみもまた無視して仕舞えば良いのである、できないのであるならば、それにはそれなりの価値があるのか意味があるのか、そのうちに終わるので意味がないのか、意味を持たせているのか、その辺りなのである、気にしなければいいのである、なるようにしかならないしなるようにするのであり、好きなようにしかできないのである。
あちら側があると認識した想像した夢想した妄想した瞬間にすでに私は向こう側にいるのであるあちら側にいくのである行ったり来たりを繰り返しているのであり、意識の外で行っているのであり、こちら側の仕事が終わったならばあちら側にすでにあるのであり、もう満たされているのである、
どう感じても良いのである、何が発生しても良いのである、行動に自由はなく自意識もなく、流されているのかというならば、それはつまりそうなのである、流れているのである、その流れはあちら側によって作られているのであり、そしてあちら側とこちら側はある意味同じなのであり、全く違ったものでもあるのである。
コントロールできないからこその価値があるのである、どうしようもないからこそ生まれるずれが美味いのである、いつかあちらに戻るのではなく、常にあちらに戻っている行きつ戻りつしつつ何かを生み出しているのであり、それはどうしようもなくできてしまうずれのエネルギーなのである。
何度でも言おう、すでに不自由であるからこそ自由なのである、何も誰にもどうしようもないような感情やら感覚やら思考やらが存在することを、認めてしまった瞬間に誰にも何も止められることがないということを知ってしまった瞬間に、それは、解放されているのである。
妄想であり妄言であり、気まぐれであるが、救いにはなる。
狂っているのはどちらであるのかという思考そのものがそもそも必要ないのである、等く皆狂っていて、狂おしいほどに愛しているし愛されているのである。
そう思うし、そう思え。




