094_ここにいたい、
こことはどこであるのかという疑問から答えなければならないような場所に存在したいものであるのかどうかという問題はあるわけである、あるかないかを決められるものではないということが前提に立ち塞がるわけではあるが。
立ち位置が決定していない、どこにも居場所がない、身の置き所がない、これは普通のことであり、そもそも、いて良いと許可するようなものではなく、どうしようもなく存在しているわけであり、そしてそれは必ずズレているのである。
あるからない側からずれて見える、観測されている、感じられている、そしてそれはエネルギーになっていて、吸われている、吸収されているというか搾取されているというわけではなく、ただそこに流れ込んでいく。
搾取されているわけではなく、それは陽の光が地面を温めるようなものであり、自然な現象であり、流れであり、意図とか意思とかは働いていない、ただ、それがあるように見立てることができる。
何度も書き記しているように、自我やら自意識やら自分というものやらは存在していない、そのようにあると見立てているだけであり、そして別にあろうがなかろうが関係がないものでもある。
そのことに対しての評価をどうするか、判断をどうするかを止めることができない、それこそ自我において否定することができない、のであるから。そしてまた逆に自我やら自己やらが存在しないことを認める、共通認識にする文化が生まれることもまた、止めることができないからである。
自由にならないものを自我と呼ぶならばそれはそうなのであろう、とも言えるが。
決定はしていないのである反射なのである、反応なのである、という話も幾度もしたわけであり、それであるのに、何かがしたい、こう生きたいと思うこともまた止められなく、それが自らの意思であると思考することも断言することも観測することも止められないものである。
客観性が失われているのであるとも言える。自分で自分が解らない評価することができない、そもそも対象を正しく認識できるのか、観測対象を、その範囲を規定することができるのか?という問題も発生してくるわけである。
それらが全て自由自在に決めることのできるという世界に行って生きたいかという話ではある、不可能ではあるし、可能でもある。
すでにここにあるという意味合いでもある。
私はどこにでも行けるし、どこへも行けない、という煙まみれになるような文言でごまかすしかない、それが結構。真実なのである。




