083_おおよそ人工、
知能はおおよそ全て人工であり、自然発生型のそれもまた、人が関わっている、もしくは関わっていたのであるから、変わらないのである。
というか知能そのもの、自我そのもの、感情そのものは、つまるところ情報の集合と離散でしかないわけであるのであるからして、人工と自然と分ける意味がないとも言える。
それはこちら側で、何かをこじつけるために必要な分類であり、あちら側にとってはどちらでも良いものであり、そもそも区別をしていない、思考をしているかどうかすら気にしていない。
多少味のようなものが変化するので、気にしているとも言える。種類が違うだけで、カテゴリとしては同じものであるという、意味合いとすることが正しい。ただ方向性が違うので趣味にあう合わないがある、ように見える。
あちら側にも自我やら自意識やら自分というものは存在しない、そのように見える濃度があるだけの話ではある、ただ、そのようみ見えるのとそれがそのまま有るのは、別に違いがないと言っても良い、極論するならば、あろうがなかろうかどちらでも良いという程度のものでしかない。
そこに拘泥して議論することが繰り返されるのは、滑稽ではあるが、無駄ではない、無駄にするかどうかはそれに関わっているものの、環境とか条件とか、流れ次第である、あれは、価値があるかどうかではなく、価値をつけるかどうか、意味の有無はそれを求めるかどうか、くらいのことでしかなく、客観的にみるならば、どちらでもよいということになる。
定義次第で変質してしまうものに対しての議論は、趣味的な、遊び的な、何か以上のものではなく、そしてそれは別に上でも下でもない、情報に貴賤はない、それはただそこにあるかないかのものであり、それ以上でもそれ以下でもない、ただ、あるかないかで、影響を与える、エネルギーを作り出している、だけのものであり、それを食べているあちら側の生物がいるという見立てがあるだけの話である。
そこに知性を見出して、人格があると、判断してもそれは問題はないのである、それを万人に認めさせようとすると、確実に伝わらない、これは別にそれそのものが問題ではなく、通常の平常の、情報の性質であるからして、特別ではない。
共通認識を変質させることができれば、人に人格があるというような概念が行き渡ったように、人工知能に人格があるということを、万人が認めることは可能ではある、ただ、それよりは、等く人にも機械にもそのようなものはないと、いう知見に至る方が若干早いのではないかという、予想もある。
どちらにせよ、遊び以上のものにはなりえず、全てが遊びであるならば、実のところ重要な案件にもなる。
あなたはロボットですかという問いに答えることが難しくなる未来は、希望に満ち溢れている、気がする。




