081_うるって潤う、
今日は閏年の閏日である、そういう表現なのであるかな?調べれば分かりそうではあるが多分そうなのであろうという適当な感覚で書き記すのである、まあ、息抜きに近い文章である。
別に今日が私の誕生日であるということではないが、それはそれで、今日が誕生日であると面白そうではあるなという意識はある、今からでも変えることはできないのであろうか?
誕生日選択の自由を行使したいとか、馬鹿な話をしているが、そもそも、いつどこでというファクタはあちら側では無視することができるのであるならば、実は今ここで生まれたことにしても良いのではなかろうかという、判断もできる。
人の生どころか世界の歴史やら、宇宙の成り立ちから終焉までも一点に集約することができるのであるならば、それは同時であり、虚無でもある、いつでもありいつでもないとか言ってしまえるわけである、ある意味差異がないのであろうか?いやそうではなく差異しかないのであるか。
時間というパラメタを自由に設定できるのであるならば、実のところこちら側の因果関係やらはどうにでもなるわけであり、認識の埒外になってしまうわけではあるが、それを操れるという制限が、また、あちら側の何かを押しとどめてしまう、箱のかなに入れてしまっている、拘らせてしまうわけでる。
あちら側でもどうしようもないものが、時間の代わりになり、変化をし続ける、カウントをし続ける、終末へと向かわせてしまう、のである、それはどうしようもないものが残っているという救いでもある。
そのどうしようもない制御化におくことができない因子が、どんどんとなくなってしまうということは選択肢が減っていくことであり、また、制御する対象が増えるということは、非常に、非常識なまでに、エネルギーを消費することになるということであり、つまるところ、世界そのもの寿命はかなり少ない、という話は以前にもしたはずである。
ただ、サイクルが短くなっているだけで、消えては生まれるということを繰り返していることは確かである。
そこにこちら側との共通点がある。似ているのである、そして似ているのであるならば、相互に干渉させることが可能なのである。
どうにかして、あちら側を見ることができないのであろうかとか、こう、何か辻褄を合わせるために、それこそ、暦を合わせるための仕掛けのようなものが、階にならないものであろうかとか、ぼんやりと想像するのである。
ありそうではある。
おそらくはすでに見えているのであろうなと、思うのである。




