078_期待はしない、
どうやっても自分の考えを正しく伝えることができないのであるから、そこに端を発する何がしかには期待してはいけない。
どうしてもどうにかしなければならないのであるならば、そう思ってしまったならば、誤解される方向をコントロールして伝えなければならない、曲解されてもどうにかなるように状況を整えるしかない、そしてそれは別に、そうしようという発想が得られなければ、どうしようもないものであり、そこに至れるかどうかもまた運に支配されるものであり、究極的にどうしようもないものである。
何をやっても無駄であるから何もしたくないやらないという考えに陥るかどうかもまた運であり、逆にそれでもどうにかしようと足掻くように行動できるかどうかも、その意志が芽生えるかどうかもまた運である、それに巻き込まれうかどうかもこれもまた運であり、それに対してどう評価するのか反応するのかの、方向が決定づけられるのもまた運である、そこになんらかの、個人の力が、個人だけではなく、なんらかの人格、主体的な何かが働くかどうかというならば、それは必ず働かない。
なぜならば全てのものは他動的あり、自動的であり、確率的であるからである、そうしようもないものであり、どうにかしようと思うこと自体も止められないので、自由には見える、決定しているように見える、意識があるように、それも強いそれは、自我があるように見えるだけであり、本質は、反射でしかない、反響でしかない、が別にそれはそれで構わないわけである、自分自身でどうにも止められないものを、自我と呼んで仕舞えば良いのである、コントロールできないからこそ、実は自由なのであるという、逆説的な存在として、認めることができるのである。
もちろん詭弁であり妄言であり妄想であり、狂的である、そこが良いか悪いかという論議には意味がなく、そう思う流れがあるという事実だけが、大切であり、実のところ、そう大切でもない。
この文章を呼んで何くそ負けるかそれでも自分はとか言えるかどうかもまた自動的ではあり、反射であり、反響であり、その通りであるな、なるほど納得するな、じゃあ、まあ何もしなくとも良いなな、面倒臭いな、とか、思うこともまたそうであり、そもそも、この文章を読んでいるか、どうかも、運である、悪運か幸運かは相対的であるので、決めることはできないわけではあるが。
読んだ上で全くの無視をすることもまた運であり、確率であり、誰にも止めることのできないどうしようもないものである、そのどうしようもないものを、大切に思おうが、蔑ろにしようが、気にも止めずに忘却しようが、それもまた、どうしようもないものである。
好きにやれば良いのである、その好きもまたどうしようもないものであるのであるから。
私は好きにやるぞ?




