074_無目的で無問題、
見せかけの目的やらお題目やら、見立てとして存在するそれはあるわけではあるが、真のなんとかというものは存在しない、それは全て結果から遡って決定される評価にすぎない。
しかもあちら側では因果関係が時系列に沿わないので、結果が先にきて過程が後にくるようなことが平気でまかり通ってしまうわけであり、こちら側の理屈やら価値観やら感性で理解することは不可能であり、そもそも、理解するという行為は、何においても不可能である。
なぜならば情報がズレるからである、必ずそのまま欠けずに歪まずに伝わることがないからである、そうであるからそこあちら側が存在しうるのであるから、これはまず間違いがない、であるならば、歪まず、ずれず、正確で全くの正しさを持っているというものが真実であるならば、それは存在し得ない。
かろうじて想像することが可能なだけであり、もしくは存在しないという真実が存在するという、レトリックというか、詐欺みたいな表現でしか成り立たない現象であり、実のところ、存在自体はする、意味がないだけの話であり、意味を持たせることも可能であり、それはつまるところ、都合よく扱うことのできるパラメタであるとも言える。
こちら側から操作することが不可能であるし、ただ間接的に関わることは可能であり、しかし完全に制御することはこれまた不可能であり、ではどうすれば良いのかというと、別に完全に扱う必要はなく、できないのであるから当たり前ではあるが、適度に利用するという感覚で、干渉しあっていれば良いわけであり、そしてそれはどうにもすることができない、流れを、意識して操ることはできない。
何度も言うようではあるが、意識はない、自意識はない、自我はない、ただただ情報の反響する、反射する、響き合う、その結果であり、過程であり、流れであり、自らがどうにかできるようなものではなく、どうしようもないものである、それを自覚できるかどうかもまた、どうしようもない内であり、そして自覚したとしてもそれが、自我であるかと言うと、そうでもなく、自分が不確かなものであるということが分かった気になっていると言う程度である、言語化できないとも言える。
おおよそ何者にも目的はない、目標もない、それがあると錯覚しているだけであり、ある種の誤魔化しである、ただ、須くそうであるならば、実のところ差異はなく、誤魔化しもまた真実であるとか真相であるとか真理であるとか表現しても間違いではなく、同時にどうしようもなく無力な間違いでもある。
見立てに過ぎないと言うと、身も蓋もない。




