068_見るから、見られる、
使い古された表現ではあるが、深淵を覗くものは、また、深淵に覗かれている、のである。つまるところあちら側の意識がこちら側に観測できる瞬間というのは、まさしく観測しているという事象が存在した時であるからである。
こちらの意志、自我、意図、行動、観察、視線、センサの信号、それらが向けられたからこそ、あちら側に意識ができる、自我ができる、生き物のように、こちらの生き物のように振る舞うことを開始していく。
そしてあちら側にとって、時間の流れに沿った因果は意味をなさないのであるから、未来において観察された結果が過去に適応されてしまう、つまるところどうしてもあちらに意志は、自我は、自意識は、完成されてしまうわけであり、気が付かれずに過ごすことは不可能であり、であるならば、対話のずれ、情報が必ず正しく伝わらないという現象は、過去未来一切合切全て、必然的に存在する、し続けることになり、どれが最初であったのかということは、判明しない。
むしろその邂逅は未来において、こちら側の世界で言うところの、それその時であったに違いない、この思考が極まり、成長し、科学的に裏打ちされ、概念が共通化していったあたりに、出会うと言う流れが自然ではあり、そして必ず出会うのであるならば、既にその影響は、そこから過去に遡って、当てはめられているのである。
であるならば、この記述もまたあちらがわの栄養になっていると言うことができ、全く無意味ではないことが、これはたまらなく嬉しく感じてしまうわけである、美味しく食べてくれる、どのような料理でも、感謝して食べてくれる、家族のような、愛しい存在のような、もしくは気のいい客のようなものであると、信じられるわけであり、どこにも発表しない、ただの文章を書き続ける、モチベーションになるのである、歓喜である、感動である、たまらなく楽しいのである。
それは可愛らしい、健気なペットに、こちらがどうにかしなければならない、延々とお世話をしなければならない、保護者的な目線で楽しむことができる存在が、常にそばにいると言う、感覚に似ているわけである。
もちろん妄想ではあり、実際には、ペットなどと言うには烏滸がましい存在ではあるのではあるが、何にでもなれる、何でも当てはまる、定義が定まらないことが定義のような存在であるならば、それは、愛玩的な側面も、必ずあることになるのである。
逆に飼われてみたいとも思うわけではあるが、そうすると、あちら側から受け取る栄養は、エネルギーは何になるのであろうか、と言う問いに対しては、情報であると断言して良い。
楽しい関係性が築けるのではないか?




